『天と地とクラウディア』第7話
答えるのが遅くなったけど、とジェンナはさらに言葉を続ける。
「あなたの正体を公表しユーリを本格的に捜索してもらわないのは、そういう常識が常識として忘れ去られているぐらいこの世界で当たり前に蔓延っているから、っていうのが大きな理由。ユーリのことはどうしようもないぐらい心配だけど、ここで地上の人間が雲の上に来たことが街中に広がるのも、想像がつかない。どんな事態に発展するかわからないから、もはや私の一存で決められそうにもないの」
「でも、それなら余計にレミニスみたいな立場の人に判断を仰ぐべきなんじゃ」
「あなたが今後どうなるか、わからなくなるよ」
「今後どうなるかって……」
「例えお偉いさんがあなたのことを信じてくれたとしても、雲の上の世界を知った地上の人を人違いでしたで再び地上へ送り返すとは、私には思えなくって」
「僕が元の場所に帰れなくなるってこと?」
「そう。私たちはいかなる時も日の出ている間は絶対に雲の外へ行ってはいけないし、地上の人にバレないように生活しているの。なんだかんだみんな恐れているんだよ。この世界のどこかに綻びが生まれることを」
その感覚は、正直よくわからなかった。僕は雲の上にも人がいると知ったら俄然興味が湧くし、可能なら友好的に接したいとも思う。新しい世界を築き上げられたらと夢を見る。現実はそううまく事は運ばないんだろうけど、だからこそこの世界の人たちは慎重になっているのかもしれない。
ジェンナの言った通り、どんな事態に発展するか想像がつかないのだ。
「それよりも、上は謎の襲撃者の件でいっぱいいっぱいじゃないかな。そこに実は助け出したのはユーリじゃありませんでしたなんて報告したら、どうなるだろうね」
「どうなるんだろうな」
その言葉に尽きる思いだった。現在向かっている場所すらわからないのに、そんな先のことや複雑なことがわかるはずもなかった。
やがて目的地に到着したのか、立ち止まった僕たちの目の前にあったのは、一部屋しかなさそうな小さな小屋みたいな建物だった。左右に住宅の並ぶ道の突き当たり、雲の壁は首を限界まで反らないと上端が見えないほどにまで近付いていた。
「確か僕を突き落とすって」
「この小屋の中に、穴があるの」
「穴?」
やっぱり印象通り小屋ということで良さそうだった。
また扉を開ければ別世界みたいな光景が広がっているのではないか、という思いが散々よぎっていたが、その代わりにジェンナは不思議なことを告げた。
「ここは飛翔場っていって、子どもの空を飛ぶ練習とか怪我人のリハビリとか、いろんな理由でよく使われているの。一応地上に最も近い場所になるから、使うには結構面倒な手続きが必要なんだけど、この街の誰もが一度は訪れたことのある場所だよ」
「広いの?」
「穴の中はすごく広い。祭りの前とか多くの人が利用する時期もあるから、今もずっと広げようと作業されているよ。すでに私が生まれた頃より二倍ぐらい広くはなってると思う」
雲の土地を広げる作業って何だろう。まさか岩みたいに掘削を行うわけじゃないだろうに。
「で、穴から突き落とされた僕はどうなるの?」
「しばらく飛び回って、ふわりと優雅に着地」
「できるか!」
つべこべ言わない、とジェンナは僕の腕を引いて小屋の扉を開けた。せめて地上に突き落としてくれないかと言ってみると、腕を握られる力が強くなった。
入ってすぐ左手に、受付のカウンターのような長机があった。一人の老人が座っていて、僕たちが入ってきたことに今気付いたかのように顔をあげると、おお、とかなんとか呻き声みたいな声をあげた。
ジェンナはさっと片手を上げるだけで、部屋の奥へ進む。
「面倒な手続きがあるんじゃなかったのか?」
とても面倒そうな手続きがあるとは思えない受付ではあったが、一応握られたジェンナの小さな手に向かって訊いてみた。
「私たちは顔パス」
「城に住んでいるような実力者だから?」
「レミニスと一緒に通い詰めていたから」
淡々と、僕の質問に答えて歩みを進める。
部屋の奥にはまた扉があった。開けるとその先は細く狭い通路になっていて、城でジェンナに連れられて多くの人に話しかけられたあの会議室のような広い部屋に似ていた。
しかし廊下の奥の扉を開けると、そこには広々とした空間はなかった。狭い部屋の中心に、ジェンナの言った通り、穴があった。
「とりあえず穴の手前に立って」
「え?」
「この下に飛翔場が広がっているの。この辺りは雲が厚いから、下側に空間が取れるわけ」
「いや、そういうのを聞きたいんじゃなくて」
部屋の中央の木の床に、忽然と丸い穴が空いていた。直径は僕の身長よりも全然大きく、その異質な存在感はまるで別世界への入り口のようにも見える。
僕は恐る恐る穴に近付き、中を覗いてみた。そこには一面白が広がっていた。
穴から覗くだけでは全体像を見ることができないほど広く、高さはあまりに白ばかりでうまく遠近感が掴めない。が、おそらく僕が城から外を見た時の高さぐらいはありそうだった。二階三階、という程度ではなさそうだ。
「準備はいい?」
「……なんの?」
「心の」
僕が振り向くより早く、ジェンナは僕の腕を取った。
宙に浮かんで、僕を強く引っ張る。腕力ではこの小さな女の子に負けるはずはないだろうから、おそらく飛んでいる力を加えているのだろう。
彼女は僕を地面から引き剥がそうとしていた。
「無理だよ、何するんだよ!」
「暴れると落ちるよー」
「ちょっ、足が! 足が浮いてる!」
僕はよく意味のわからないことを叫んでいた。ジェンナは両手で僕の片腕を掴んで、とうとう穴の真上にたどり着いた。
「突き落とすんじゃなかったのかよ!」
「思ったより怖がって穴に近付いていたから」
気が変わったの。
そう言って微笑むジェンナの腕を離さないよう、僕は必死でしがみつこうとする。
「だから暴れないでって」
「いやだ! 死ぬ!」
「大丈夫だよ。穴の真下は危険防止に雲のクッションみたいなのが作られているから」
思っていた以上に、足が地に着かないという感覚は恐ろしかった。子どもたちも当たり前のように飛び回っていたけれど、冷静に考えるととても真似できそうにない。掴まれていない方の腕を懸命に伸ばしてジェンナの手を掴もうとした、その時だった。
「飛べると思えば、飛べるよ」
「そんなわけ……あるかぁぁぁ!」
ぱっと手を離されて、僕の両手は空を握りしめる。そしてそのまま真っ逆様に落ちていく。眼下の白に向かって、一直線に――。
自分がどんな体勢になっているかもわからなかった。せめてもの悪足掻きでもいい、すがるように、祈るように、恐怖の支配する中で思う。
僕は自由に空を飛べる、と。飛べる、飛べる、飛べる……。飛べ! と自分の身体に命じるように叫んだ、
その刹那。柔らかい布団みたいな何かに全身を包まれるような感覚を覚えた。まさか飛べたのか、という思いを一瞬だけ感じて、それは目が覚めたときの夢のように儚く消えていった。
僕は仰向けになって、落ちてきたばかりの穴を眺めていた。
「飛べると思った?」
ジェンナがふわふわと焦れったく、自由落下した僕をバカにしているのかと思うほどゆっくりと降りてきた。
「君が思っているよりもはるかにたくさん念じたよ」
「その割に無様な落ち方だったね」
寝転がったままの僕の傍で、片手を差し出してくる。
「空を飛ぶ人を見てしまったから、僕の頭も少しどうにかなっていたみたいだ」
その手を握って、身体を起こす。辺りは本当に広々とした白一帯の空間だった。余計なものは何もない、四方を雲の壁に囲まれた広い場所だった。クッションみたいな白い塊から地面に降り立つと、雲みたいな見た目に反して感触は平らで、木の床よりは少し柔らかかった。さしずめ掘れない土の地面といった感覚だろうか。
「これでわかっただろう」
「何が?」
「僕は空なんて飛べない」
「それはまだわからないよ。センスがないことはわかったけど」
ジェンナは僕を真っ直ぐ見つめていた。
「あなたには飛べるようになってもらわなければいけないの」
「どうして?」
「唯一の手がかりだから」
「手がかり?」
「ユーリを探し出すための、いっちばん大切な手がかり」
僕が飛べるようになることと、ユーリを探し出すことのどこが関係しているのだろう。心の声が漏れたように、ジェンナはつまり、と続ける。
「おそらく襲ってきた何者かも、あなたとユーリを勘違いした可能性が高い。あなたが襲われた場所を把握すれば、付近を捜索できるでしょ」
「行けばいいじゃないか。僕まで飛べるようになってまで行く必要がない」
「どこかわからないじゃん」
「海の近くの町だって」
「そんなの、ここから見渡せばいくらでもあるの」
「僕を助けてくれた人に聞けばいいだろ」
「ああ、確かに。でも、できればあなたにも来てほしいな。あなたが本当に地上の人なら、それこそとても心強い捜査の味方になる」
そういえば、ここは雲の上だ。まだこの雲の壁を越えて外を見ていないけれど、それこそここが本当に雲の上だとするなら、海沿いの町なんていくつかあるだろう。本当に、雲の上なのだとするならば。
まだこの目で確認したわけではないことに、今更になって気付く。しかしそんな疑念も今更のようにも思えた。
「外が見たいなら夜になってからね」
再び、心を読んだかのように問いかけてくるジェンナ。夜じゃないと地上の人に見つかってしまうのだ。見透かされたような感じがなんだか悔しくて、僕はせめてもの強がりを吐いた。
「飛べるようになったら、勝手に帰ってやるからな」
ジェンナはふわりと浮かび上がった。
「心からの言葉には全然聞こえないから、多分嘘だね」
不思議な女の子だと思った。この空間のどこから吹いてきたのかわからない風が、宙に浮かぶ彼女の短い髪を揺らす。手を伸ばしてきた。また引っ張り回されると思って躊躇っていると、行こう、とジェンナの方から言ってきた。決意を秘めたような声で、いつになく真剣な眼差しで、諭すように言う。
「きっとみんな同じ。あなたも、私たちも同じ。だから、飛んでみようよ」
飛んでみようよ、という魅力的な言葉の響きと、それをさらりと言うジェンナがほんの少し格好良く見えて、気が付くと僕は、先ほど覚えたばかりの躊躇いがもうどこかへ消え去っていて、恐る恐る手を伸ばそうとしていた。
恐怖が消えてなくなったわけではないけれど、まるで導かれるように、差し出された手を握ろうとする。
空を飛ぶ。
そう、それは僕にとって、世界で一番魅惑的な響きだった。元の町に帰りたいとか、ここは本当は夢の世界かもしれないとか、そういった不安や疑念を上回るほど、強い願望のような想いだった。
ジェンナの真っ直ぐな目を真っ直ぐ見返した。
みんな同じ――それは、レミニスがよく口にしているという言葉だ。確かに僕らは同じ人間の形はしているけれど、それはこの世界に住む人に向けての言葉であるように思う。僕のような飛ぶことを知らない人に向けての言葉ではないような気がする。もし、みんなの枠に僕も入っているのだとすれば、余計に不思議だ。そう主張できる根拠が何かあるのだろうか……。
「よし、じゃあ、恐怖心を拭うため何度か落ちる?」
僕がいつになく真剣な感じでジェンナの手を取ると、ころりと調子の変わったジェンナにぐいと軽く上へ力をかけられる。僕は思わず身体が浮いてしまわないよう踏ん張った。
「もう少しまともな教え方ができる人はいないのか?」
ジェンナは笑い声をあげて、僕の手をぱっと離した。宙を滑るように移動し、雲に囲まれたこの空間の隅っこまで飛んで行った。手招きされて、僕は歩いて雲の片隅へ向かう。
「ここに子ども用の練習台があるよ!」
子ども用、と言葉が引っかかった。行き場のないもどかしさが気分を少し重くする。
「子ども用の高さだから怖くないし、子ども用だからクッションも広いし安全だよ」
繰り返さなくていい。近づくと、子ども用の練習台は、机ぐらいの高さの台に階段が五段ついただけの簡素なものだった。
やはり見た目はふわふわの雲のようだが、足を乗せるところの雲は地面と同じようにしっかりした感触があった。あとは正方形の机みたいなこの台から降りればいいだけだ。階段なんてなくてもクッションに飛び降りられるが、ここはそういう場所ではない。
「身体を痛めないようになっているから、どんな体勢でどこから落ちても大丈夫」
安全なのはありがたいし最低限保証されていてほしいものだが、問題なのはそこでもない。
「さあ」
さあ、で飛べるやつがどこにいる。
気のせいか、ジェンナは少し面白がっているようにも見えた。
「まあ初めは誰だって落ちるよ。最初はまず、自分が飛べるって思ってそこから飛び降りてみなよ」
言われた通り、飛べる、と忠実に思った。ついでに飛びたいとも念じた。
僕は台を蹴って飛び出す。ぼふ、と先ほど落とされた時みたいな感触が、尻餅をついた僕を包み込む。
「私たちは鳥じゃないから、両腕を翼みたいにしても飛べないよ。ポイントは足。足の裏で、空気を踏むように」
「空気を踏んだことがないんだけど」
ぴんとこない例えをされても。もう少しわかりやすく言えないのかな。もう一度台に登る。空気を踏むように足の裏に意識を集中させ、再び飛び出す。同じように柔らかい毛布のような感触が僕を包み、続いてジェンナの小さな笑い声が聞こえた。
「コツとかないの?」
「うーん……」
ジェンナはおもむろに台に上がって、宙に一歩踏み出した。まるで台の続きがあるみたいに優雅に歩いている。クッションに身を委ねる僕を見下ろして、腰に手を当てて言った。
「こんな感じで」
「どうやら君は僕の思っているより性格が歪んでいるらしい」
ジェンナが浮遊をやめて僕の隣にすとんと落下する。子ども用だからか、クッションの幅は数人寝転がれるほど広いようだった。
「どうせ夜にならないと捜索しないから訊かなかったけど」
僕と同じように柔らかい雲のクッションに寝そべって、ジェンナは宙に向かって呟いた。
「あなたが襲われたとき、ユーリも一緒に見なかった?」
突然の話の切り替わりだった。確かに、訊かれて初めて、その問いはもっと早くにしているべきものではないだろうかと思った。僕がユーリでないとわかった時点で確認してもよかったはずだった。
しかし、僕が何を答えた時点で、町の場所もわからないし夜まで待たないと外へ飛び立てない。その辺りの判断は妙に冷静なんだな、と襲われた状況を思い出しながら思う。
「僕は頭を殴られたからね」
「覚えてないの?」
「なんか人みたいなのが海に落ちたのを見た覚えはあるんだけど、それが本当に人だったのか、鳥だったのか、人だったとしてもユーリって人なのか、僕にはわからない」
「人と鳥を見間違える?」
「君たちが空を飛ぶから」
当時の僕の常識とか世界観にはなかったのだから、そういう見間違いも大いに有り得る。しかもその後空中で仁王立ちする男を見たのだ。記憶なんて曖昧にもなるし、だいたい吹っ飛んでしまう。何を思い出しても確信は持てないだろう。ただ、あの状況で夜の海に突然落ちてくる何かを考えると、鳥よりは人の方が可能性が高いようには思う。
「そもそも僕は誰に襲われたんだろう……」
「その辺りはあなたをこの世界に連れてきた警護班の証言を元に、お偉いさんが調査しているわ。レミニスだって会議には出ていたみたいだし、少しは何か知っているかもしれない」
ジェンナはそう言って立ち上がり、再び僕を見下ろした。僕の上でそういう目をするのはぜひともやめてほしいものだった。
「とにかく、あなたが飛べるようにならないと捜索は進展しづらいの。さあ、もう一回」
現時点でどうしようもないからって、それでもすごく心配なのだろうに、ジェンナはどこか愉快そうに僕の身体を引き起こす。
大丈夫だよ、とジェンナは言う。その一言に、いろんな意味が含まれてそうな感じで、大丈夫、と繰り返す。
「ユーリはそんな簡単にくたばったりするような人間じゃないことは、私が一番知っている。あなたが飛べるようになればきっとうまくいくよ」
「難しいね」
「物は試しよ。早く上って、何度も落ちて」
「落ちたらダメじゃん」
「落ちないと飛べるようにならないよ。誰だってそうやって上達するんだから」
僕は何も言い返せず、重いため息を吐いて台へと向かう。机ぐらいの高さしかないのに、わざわざ落ちようとしている自分が情けなくも思えてくる。
「……せめて、僕にわかるような例えでコツを考えてよ」
「注文が多いなぁ」
「早く上達してほしいって言う君のためだよ」
うるさいよ、という目を向けてから、ジェンナはうーん、と唸った。しばらく僕の顔を無言で見つめる。しかしそれは、僕でない何かを見ていて、何かを考えている風に見えた。
「海……」
ぼんやりと呟き、やがて焦点が僕の目に戻ってきた。
「水だ。水。水の上に立つ感覚に、似ていると思う」
「水の上も立ったことないよ」
「空気よりイメージしやすいでしょ?」
そう言われると、まあその通りだった。
水の上に立つように。
ぴんときたかどうかは微妙だけど、想像はできそうな気がした。少なくとも彼女の言う通り、空気を踏むよりはわかりやすい。
「じゃあそんな感じで。飛ぶ、ってより浮かぶみたいな」
ジェンナの言葉を反芻して、自分なりの感覚に置き換える。水の上に立つように。足の裏に神経を集中させて、台の外へそろりと足を伸ばす。
なんとなくイメージができたことで、少し自信が湧いてきた。空を飛べるはずがないと思う一方で、空を飛びたいと思う気持ちも当然ある。海を見て育った者として、水は非常に想像しやすい。
僕は空を飛べることを少し真面目に捉えてみた。
もしかしたら、レミニスの言う通り実はみんな同じで、彼女らと姿形の同じ僕にだって飛ぶ力はあるんだと。飛べるはずのない常識と先入観が邪魔をしていただけだと。本当は、僕にだって――。
何もないところで、伸ばした片足が止まる。足裏に集中し、静かに凪いだ海を脳内で広げて、その上に悠然と佇むように。
僕は、強く一歩を踏み出した。
第8話
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