『天と地のクラウディア』第10話
「アイナってさ」
どれぐらい時間が経っただろう。外の景色はすっかり開け、森から広い平原へと変わっていた。往来があるところだけ地肌が露出していて、まるで作られた道みたいに平原のあちこちに張り巡らせるように伸びている。
「はい」
行儀良く座って規律正しい返事をするアイナに、俺は何気ない感じで問いかけた。
「将来、なりたいものとかやりたいことってあるのか?」
「唐突ですね」
ずばりと言い返された。まったくの言う通りではあるのだが、まあ雑談だからそこは大目に見てほしい。
アイナはうーん、と思案するように首を傾げ、やがてどこか呆れたようにも見える薄い笑みを浮かべて答えた。
「まだ、よくわからないです」
俺は心の中で密かに驚いた。これだけ好奇心があって、聡明な感じで、行動力も伴っているこの子なら、何か目標とか夢みたいなものに向かって突き進んでいるものだと、てっきり思い込んでいた。
何でも知りたくて、その何でもで何がしたいのかが、よくわからないんです。アイナは続けてそんなよくわからないことを言う。
「だから空のことなら何でも知ってるレグさんは、すごいなぁって、教えてほしいなぁってよく思ってました」
「……俺、今まであまりアイナと話さなかった?」
「そんなことないですよ、よくお話してくれました。ただ本格的に教えてほしいって、私の方から言わなかっただけです。あとリザミアさんやカロルさんとだいたい一緒だったので、なかなか入れないなって……ちょっとだけ思ってました」
もしかすると、アイナも俺の記憶がない状態だからこそ、こうして本音を言えているのかもしれない。それは俺にとってもなんだか嬉しいことだった。本音をぶつけられるのは、本音をぶつけても大丈夫だと判断した人だけだ。
「じゃあ、俺の記憶が戻ったらいろいろ教えてやるよ」
「楽しみにしています」
「今は知識ごとなくなっているのか、全然わからないから聞くなよ」
「それ、なんだか不思議ですよね」
アイナはふふ、と静かに笑った。何かおかしいことを言っただろうか、と考えていると、アイナが続きを口にする。
「記憶と空の知識がなくなって、さらに言ってしまえばなんだか声も話し方も前のレグさんと少し違うような気がします。全て記憶喪失の副作用みたいなものなのでしょうか。不思議ですね」
不思議なことが面白い、のだろうか。機嫌良さそうに口の端が上がっている。
しかし、前の俺と違うと今の俺に言われてもどうしようもない。果たして記憶は本当に人格や声帯にまでも影響してしまうのだろうか。まあ、この状況でそんなことを考えても仕方がない。俺はどうせ俺でしかいられない。
「街、楽しみですね」
アイナが窓の外を眺めながら言った。日の光が眩しいのか、少し目を細めている。それが不意に大人っぽく見えて、ちょっぴり息が詰まる。俺は思わず視線を逃がすように、アイナの視線を追って外を見た。
「ああ、楽しみだ」
つくづく、油断のならない子だ。なぜだか俺は、アイナに対してそんな思いが浮かんでいた。まあ、リザミアにも似たような思いを抱いているのだが。
もしかしたら今も、眠っているフリをしてこっそり会話を聞いているかもしれない。
まさかそんなはずはない、とは断言できないのだから、リザミアも大概だった。アイナも似たような女の子になると潜在的に感じたとでもいうのだろうか。
リザミアをそっと盗み見ると、どんな時も崩れない凛とした顔で、わずかに肩を上下させて、心地良さそうに眠っていた。疑って悪かった、とその閉ざされた瞳に密かに思う。相変わらずすました表情だけど、おそらく滅多に見られないような、それはれっきとした寝顔だった。
多分貴重だろうから、忘れないようにしよう、と実際リザミアに言ったら鋭く睨まれそうなことを、心の内でこっそり思っていた。
俺たちを運ぶ四角い空間は、麗らかな陽気の中をがとごと揺れながら進む。
まだ、旅は始まったばかりだった。
*
「聞いてください、リザミアさん!」
アイナのあまりに興奮した様子に、俺とリザミアは思わず夕食を食べる手が止まった。
我が国の中心街、シャーリーに到着したのはリザミアの言っていた通り、本当に日が暮れてからしばらく経った頃だった。
確かに馬車に座り続けていると、だんだんお尻が痛くなってきて振動が辛くなってきた。数度の休憩を挟み、シャーリーの大きな街の影が見えた時はある種の感動も覚えた。薄闇に浮かぶ街の入り口は、思ったより普通の街みたいな感じで、それでも俺の目にはどこか幻想的な風にも移った。大きな街に来た、という実感がそうさせたのかもしれない。
やがて街に足を踏み入れた俺たちだったが、宿で休む前に少しだけで構わないからどうしても散策したいというアイナの熱烈な希望と、それに便乗するみたいな俺の主張とリザミアのクールな後押しのおかげで、今夜はまだ遠くまで行かないことを条件にダグさんの許可が下りた。
あと、三人揃って行動すること、としっかり念押しされた。人目のつくところなら危険は少ないだろうが、見慣れない街だからはぐれると面倒だ、とのことだった。まあ、この中で一番心配なのは我ながら俺自身ではないだろうか、とぼんやり思う。リザミアとはぐれて道に迷ってしまわないようにしよう、とその時は密かに思っていた。
「どうしたの?」
リザミアが分厚い肉を飲み込んでから一息間を空けて言った。アイナはにやりと笑みを浮かべ、やけに機嫌良さそうだ。
実際、街の散策ではぐれたのは俺ではなくアイナだった。
好奇心の塊である彼女は散策を始めて間もなく、ふと俺とリザミアが目を離した隙にいなくなってしまった。見失った時は大層驚いたが、俺もリザミアも不思議と冷静だった。
互いの意見が一致した俺たちは宿の出入り口に戻って待っていると、ほどなくしてアイナが戻ってきた。そう、あくまで道に迷いそうな者はせいぜい俺ぐらいなのだ。アイナであれば、よほどトラブルに巻き込まれない限り、下手に動くよりも、きちんと待っていれば、ちゃんと帰ってくる。
その時のアイナといえば、ものすごく何かを言いたそうな顔をしていて、今日が誕生日なのかと思うほど嬉しそうで。
「ご飯の時にお話しますね」
何をそんなに引っ張る必要があるのかわからなかったが、無邪気なアイナは自分だけの秘密を夕食まで引き延ばして楽しんでいるようだったので、俺たちは素直に受け入れた。
ということで、夕食を食べ始めたのはいいが、こんな厚くて美味い肉は俺たちの町じゃ滅多に口にできない、と食べる手が止まらなくなる前に、アイナはその手を止めにきた。
聞いてください、と熱く言われたが、もちろんそのつもりでこの席に座っている。呼びかけたのがなぜリザミアだけなのかはわからない。
俺は隣に座るリザミアと顔を合わせ、向かいに座るアイナの言葉を待つ。
「とんでもない噂を耳にしたんです」
「噂?」
どうやら俺たちと離れ一人で歩き回った時に、興味深い出来事があったようだ。リザミアの言葉を継ぐように、俺は簡単に尋ねる。
「どんな噂?」
「レグさんは、信じないかもしれません」
「え、なんで俺だけ」
「まあ聞いてください」
今から言いますから、となんだか俺が急かしているような立場になっていた。焦らして楽しんでいるのなら、それぐらいは年上として乗ってあげよう。
アイナはごくりと水を一口含んで、身を乗り出し俺たちに顔を寄せた。内緒話をするように、俺とリザミアもアイナへ耳を傾ける。
「空を」
……空?
その瞬間、空気がわずかに冷たくなったようにに感じて、理由もなく嫌な予感がした。
「空を飛ぶ人を見た、って」
ほんとかな、すごいですよね、そう興奮して言うアイナの言葉に、俺は表情が固まった。おそらくリザミアも隣で似たような顔をしているだろう。
実は俺も飛べるんだぜ、とはさすがに言い出せやしないが、かといって他の言葉が見つからない。こういう時に頼りになるのは、やはりリザミアだった。当たり前に思ったことを、当たり前のように訊く。
「えっと、どういうこと?」
「私も通りがかりにちらっと聞こえただけなので詳しくはわからないですけど、最近空を飛び回っている人の目撃情報がこの街のあちこちで上がっているみたいですよ」
「この街の人が空を飛べる道具を作った、とかじゃなくて?」
「それはないと思います。売り物を選ぶフリをして噂話を聞いてましたけど、どうやらものすごく高いところを飛んでいるようで。そんな技術があるなら、それこそ噂が私たちの町にも届いていますよ」
「それは、本当に人なの?」
「私が見たわけじゃないので、そこまでは何とも……」
こちらがしっかり興味深く追及しているおかげで、アイナは満足そうだった。
「来て早々、この街は面白いですね。明日はいろいろ調べてみます」
微笑むアイナに、俺は繕ったような笑顔しか返せなかった。リザミアを横目で確認すると、リザミアも同じように俺を見ていて、互いに小さく頷き合った。
今回の旅の目的は、これで決まりだ。
「どう思う?」
食事を終えて各々の部屋に戻る直前に、リザミアが問いかけてきた。周りに人がいないタイミングは、今しかない。
「どうもこうも、俺からすれば驚きはしたが不思議ではない」
まああまりの驚きに、美味い肉の味を純粋に堪能しきれなかったことは悔やんでいるのだが。
「そうじゃなくて……ああもう、考えたいことが山ほどある。ここで話すのもなんだし、部屋に来て」
「え? 部屋?」
「何? 私が行こうか?」
そうじゃなくて。
「いや、いい。それなら、邪魔するよ」
そうだった。リザミアにとって俺は、幼い頃からずっと一緒にいた仲なのだ。寝坊した俺をわざわざ部屋まで起こしに来るぐらい、そこに居て当たり前の存在なのだ。
それは記憶がない弊害の一つだった。俺たちの距離感は、今は彼女の一方的なものだ。
少しもどかしいような、息が詰まるような。
通された部屋に足を踏み入れながら、心の内でそんな感情が巡る。
「で」
リザミアがベッドに腰掛け、俺が促されるままに椅子に座ると、リザミアはため息を吐くように言った。
「噂、本当だと思う?」
火のないところに煙は立たない、とは思う。
「初めに言っておくけど、元々シャーリーには飛べる人がいるなんて話はないから。もしそんなお伽話みたいなことがあったら、すでにお父さんから聞いているもの」
俺は真剣な顔をして慎重に頷いた。自分が普通でないらしいことを、忘れないように。
「噂が本当だったら、俺に何か関係があるのかもしれないな」
「嘘だったらいいのにね。本当だった方が、ずっと厄介なことになる気がする」
「ああ。それに、俺たちの町では飛ぶ人間の話なんて誰からも聞かなかったのに、どうしてシャーリーで目撃情報があるのか、ってのも気になる」
「……そうだね」
気のせいか、一瞬リザミアの表情に影が差したように見えた。しかしそう思った次の瞬間には、もういつもの凜とした顔に戻っていた。
「そもそもレグはどうして空を飛べるの?」
「それは、どうしてリザミアは走れるんだ? って訊いているのと同じだぜ?」
「足があるから走れるに決まってるじゃない」
「俺も飛べるから飛べるんだよ」
わけわかんない、とリザミアは上半身の力を抜いてベッドに倒れ込む。
「羽もないのにどこで飛ぶの?」
「足の裏とか、体の内側とか、落ちないようにすればいいところに意識を向けているだけだ。あとは空を見上げればいい」
「それだけ?」
それだけってなんだ、お前も走る時に意識することなんて似たようなものだろう。
「それじゃあ飛ぶ、というより浮かんでるみたいだね」
「いや、飛んでるよ」
リザミアが上半身をベッドに預けつつ、視線だけをこちらに向けてきた。何言ってるの、と言われているようだったが、俺は怯むことなく言葉を紡ぐ。
これは大切な想い。飛ぶために必要不可欠な、強い想いだから。
「顔を上げて、空を飛ぶと祈るように思う。空の青だけを見て、決して手の届かない青天に向けて強く想いを馳せる。あの青に辿り着きたい、ってな。じゃないと身体は軽くなってくれない。だから浮いてるんじゃない。飛んでいるんだよ」
わけわかんない。再びそう言って視線を外すリザミア。天井を見つめて、何かを考え込んでいるようだった。俺はしばらくそんなリザミアを眺め続けたが、やがて思い立ったようにぱっと身体を起こした。
「レグ」
ずっと目を離していないのに、改めて名を呼ばれる。落ち着いた彼女の瞳を真っ直ぐ見返しても、何も言ってこない。
「なに」
少し待って、やはり無言のままなので返事をしてみた。
するとリザミアはふっと目を細め小さく首を振り、たった一言、静かに呟いた。
「なんでもない」
わけわかんねぇよ、と仕返しのように笑いながら言ってやった。
リザミアもほんの少しだけ笑ってくれたのが、なんだか妙に嬉しかった。
「明日から調べまくるぞ」
「目的が見つかって良かったね」
ターネイド先生に言われた言葉が蘇る。
君にはぜひ、空を知ってほしい――。
一体どういう目的でそんなことを口にしたのだろう。先生は、何かを知っているのだろうか。別に言葉通りの意味でたいした裏はないのだろうか。
答えの見つからない憶測が脳内を巡る。大人の考えていることはよくわからない。頭の良さそうな大人は、特に。
「じゃあ、早めに寝てよね」
「え、ああ、そのつもりだけど」
「何度も起こしに行かないからね」
ああ、そういうこと。
「気を付けます……」
くす、と微かな笑い声。
じゃあ、また明日。お互いそう言い合って、俺はリザミアの部屋を出ようと立ち上がった。
しかしドアノブに手をかけたところで、小さな声で呼び止められた。
「レグ」
振り返る。どこか、なぜだか、ほんの僅かに嬉しそうな顔。隠そうとしていること自体が丸わかりの、リザミアらしかぬ表情。
「おやすみ」
その顔でそう言われると、返す言葉はひとつしかなかった。
「明日も、起こしに来てくれよ」
枕が飛んできた。
慌てて部屋を出て、扉越しに、独り言のように呟く。
「おやすみ」
半分ぐらい笑いながら、呟く。
おやすみ、リザミア。
第11話
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