『天と地のクラウディア』第12話
「遅い!」
暇そうだった。
「遅い遅い遅い。待ってたのに。何してたの?」
「風呂行くって言ったら風呂入るしかないだろ」
「行くよ」
どこへ、と問いかける間もなく、腕を引かれた。ふわりとなびく金色が眩しくて、僕は抵抗する気力を失う。どうやらこのきらきらした女の子は、ベッドから飛び降りて僕をどこかへ連れ出そうとしているようだった。
レミニス。呼び掛けようとして、なぜだか声にはならない。
力は弱いはずなのに、僕は言い訳みたいなことを考えながらされるがままに従う。入ったばかりの部屋を出て、通ったばかりの廊下を突き進む。
どこへ、と聞くと、外、と小さく返ってきた。
その豊かな美しい金髪に見惚れているうちに、僕はいつのまにか城の広い玄関口に到着していた。
「湯上りの散歩」
レミニスはそう言って、僕の腕を離した。いつ見ても楽しそうに笑っている。寝巻きみたいなゆるい服装だけれど、彼女ならこのままおもむろに駆け出し兼ねない。上下白の薄い身なりは、長い髪にとてもよく似合っていた。
レミニスの空みたいな色の双眸が僕を真っ直ぐに捉える。僕は何かに導かれるようにして一歩を踏み出していた。レミニスは満足気に微笑むと、音もなく、ごくごく自然に、ふわりと地から両足を離した。
そして気が付けば、僕の三倍ぐらいの高さまで浮かび上がっていた。どこが散歩だ、と思う。
「ついてきて!」
からかうように、届きもしない手を伸ばしてくる。どうして空からそんなことを言うのだろう。どうして、そんなところから。
それはただの僕三人分の距離ではなかった。それは夢みたいに遠く、儚く、月に手を伸ばすような行為と似ていた。
器用に立ち姿のまま宙を滑るように進んでいくという不思議な状態のレミニスを、僕はふらふらと頼りな気な足取りで追いかける。手を後ろで組んで静かに進むその高い背中を、まるで月か星かの妖精であるかのように思いながら見つめ、足下が疎かになって時折道の段差に足を引っ掛ける。
湯冷めすることはなかったが、まるでまだ風呂に浸かっているかのようにどこか夢心地な感覚の中にいた。どこへ向かっているのだろう。どこへ連れて行こうとしているのだろう。答えを問うように、僕はひたすら見つめ追い続ける。
脇目も振らず、つまずいて転びそうになりながら、どこへもわからないどこかへ進んでいると、ふとレミニスの移動が止まった。
浮かび上がった時と同じように優しく地に降り立って、僕はようやく彼女の元へ辿り着いた。
「気持ちいいでしょ?」
振り向いて、子どもみたいに笑って言う。僕はゆっくりと頷いた。
辺りを見回すと、高台のような場所だった。雲の地がどう隆起しているのかさっぱりわからないが、丘のように小高いこの場所は、城付近と違って足元が舗装されておらず白に覆われていて、飛翔場のように雲を固めたような地面だった。ここでは土の代わりに似たような雲が地を覆っているのかもしれない。
「本当は今夜じゃなくても良かったんだけど」
レミニスは夜空を見上げて呟くように言った。背中で踊る艶やかな金髪に思わず見惚れていると、ふとその髪がふわりと弾み、身体がくるりと回った。
振り返ったレミニスは、幼少からの宝物を眺めるかのような優しい目をしていた。夜の色に不釣り合いなほど、美しい碧眼。
「明日からちょっと忙しくなりそうだったから」
レミニスは僕の方を向いているけれど、僕を見ているわけではなさそうだった。その目に映るものを追うように振り返ると、僕は思わず息を飲んだ。
「どう?」
背後で問いかけられて、何も答えられなくなる。
「あれが私たちの暮らしている場所」
月に照らされた雲の中の世界は、あまりに幻想的だった。
「ここが私たちの世界」
初めてここで目が覚めて、城の部屋の窓から見た景色とはまた違った衝撃を受けていた。
「どう?」
眼下には明かりの薄くなってきた城下町。遠く真正面には、月の光で浮かび上がるように夜の中にそびえる巨大な城。ところどころの窓から明かりが漏れていて、それがより城の存在感を強くしていた。雲に囲まれた世界の中心であることが直感的に響いてくるような、そんな景色だった。
もう一度振り返ると、レミニスが誇らしげな笑顔で僕を見ていた。
クラウディアを統べる者の血縁者。
街の大きさは地上の国の中心都市一つ分ぐらいだけれど、この世界で暮らす人々にとってはそれが全てで、こんなにも美しい。
巨大な雲に囲まれた空間で。
煌めく星空のような街並みを見下ろして。
いつもより少し空に近い。
クラウディアを誇りに思う彼女はまさに、この世界の王女に相応しく思えた。
「何か言ってよ」
何も言えないよ、と思った。この光景を前に、言葉を紡ぎ出すのは難しい。
綺麗だね。見たままのことを、感じたままのことを口にすればいいのだろうか。それだけでは絶望的なほど陳腐な響きになってしまいそうだ。
「相変わらず、口数が少ないんだから」
レミニスは呆れたように首を振ると、目を閉じて、再びふわりと浮かび上がった。
「ここまでおいでよ」
僕三人分ぐらいの高さから、誘うように言う。いや、確かに誘っているのだが、いかんせん場所がおかしい。
「何言ってるんだよ。僕は飛べないんだぞ」
言い返してみたが、レミニスは僕を見つめ続けるだけで何も言わなかった。
本当に? と目で問いかけられているように思えた。それは本当に心の底から言っているの?
ふと、いつかのジェンナの言葉が蘇る。
――そんなことないって。人間はみんな同じなんだって、レミニスはずっと言ってた。子どもの頃からずっと――。
「やってみたらいいよ。やらなきゃわかんないよ」
「何度もやったよ」
「何度でもやろうよ」
そのうち思い出すよ。そう言われても、僕は思い出せる記憶がない。
「飛翔場で練習したの?」
「そう。数えきれないほど落ちた」
「ああ、あの台で練習したんだ……じゃあ、ちょうどいいね」
何がちょうどいいんだ。レミニスは突然夜空を見上げた。僕よりほんの僅かに空に近いところで、月を指差す。
「月へ行こう」
馬鹿なんじゃないかと思った。度々突拍子のないことを言い出す雰囲気はあったけれど、さすがに度が過ぎていた。
レミニスはほら、と僕に向き直る。僕はどんな顔をすればいいのかわからなくて、なんだか今はすごく不満そうな顔つきになっているかもしれなかった。
「月へ行った人間はいるのか?」
「いないよ」
レミニスは即答して、間髪入れず訊き返してきた。
「海の向こうへ行った人はいるの?」
「……いない、と思う」
行って帰ってこなかった噂なら、少し。
「同じだよ。同じ。月も、海の向こうも、行ってないだけで行こうと思えば行けるんだよ」
「それは……どうだろう」
海の向こうの方が難易度は低いかもしれない。でもクラウディアの人からすれば、身を隠しながら海の向こうへ行く方が難しいかもしれない。
「飛ぶのは簡単だよ。走るのと同じぐらい」
走るのは簡単とか難しいとかそういう話ではないような気もするが、彼女にとってはそうなのかもしれない。
いずれにせよ、僕にわかる感覚とはかけ離れすぎていていまいち実感に欠ける。僕は自分の足元を力なく見つめた。水の上に立つ感覚を空中で、なんて想像をできるかもしれないと考えていた昼間の自分を少し憐れに思う。
いくら夢みたいな世界だからって、本当に夢を見ていても仕方がない。
「ダメだよ」
頭上から声が降ってきた。今まで聞いてきた中で一番真面目な響きだったので、何がダメなのかわけのわからないままふと顔を上げる。
「空を飛ぶ時は、空を向かないと」
はっと息を飲んだ。その何気ないアドバイスのような一言は、僕の心に突き刺さるように響いた。
昼間の練習を思い返す。水面に立つように、宙に浮くように、と足元ばかりを見ていた。落ちないように、と何度も念じていた。
しかし、その意識は真逆だった。そういえばジェンナも初めに言っていた。教えるのは上手くなかったけれど、核心は身体と心で理解していたのだ。飛べと念じろ、と。
落ちないようにするのではない。飛ぶのだ。自由に、空中を飛び回るのだ。
「そう。いい目をしている」
そう呟いて、レミニスはもう一度手を差し出した。
伸ばすだけでは決して届かない距離。僕とレミニスの永遠のような間。僕はその手の奥の、彼女の目を強く見つめる。夜空に不自然に浮かぶ青色の目を、僕は届けと祈るように思いながら見つめる。
そこへ行きたかった。そこまで辿り着きたかった。この絶望的で夢のような距離を、いとも容易く埋める君のように。
みんな同じだと笑うその無邪気な顔に向かって。
誇りと強さが滲み出る瞳に向かって。
その青に向かって――。
視界の端っこで、世界が少しだけ下がったような気がした。
第13話
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