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『天と地のクラウディア』第4話

 リザミアが俺の三つ前の席から睨むようにカロルを見ていた。お前のことなんか聞いてねえよ、って感じの顔だった。カロルは動じずに隣の席の俺を見下ろす。

「お前は俺の一番の敵だった」

 アイナの時とはまた違った衝撃を感じた。この距離で、このタイミングで戦線布告のような台詞を吐くなんて、なかなかに肝のすわったやつだと思った。気遣ってなんかいないぞ、という気遣いがおかしくて、俺は思わず吹き出しそうになる。だが彼の眼差しは真剣そのものだった。

「でも、俺は空を見るお前は嫌いではなかった。海と同じぐらい青い空を、海と一緒に見ているお前の姿は悪いものではなかった」

 言い草はめちゃくちゃだけど、この男は俺のことをよく見ていたんだな、と思った。記憶のなくなる前の俺も同じぐらい、彼のことを見ていただろうか。

「だからその、だな。何と言うか、まあ頑張って思い出せ」

 勢いで話すタイプなのか、教室に入って彼に突然怒鳴られた時みたいに、まとまりのない締め方だった。

 その分リザミアは、あまりに簡潔すぎたように思う。

「レグは……変な人」

 簡潔というか、まとまりというか、ただ雑だった。

「思い出がなかったことにならないよう、また頑張ろうね」

 あまりに淡々と、端的に終わらせたものだから、皆の拍手が一瞬遅れた。ターネイド先生の言った自己紹介のフォーマットを微妙に守らなかったリザミアは、すました顔で俺を一瞥する。

 あんたも十分変なやつだよ、と心の中で呟いていると、すぐに最後の俺の番が回ってきた。

「えっと……」

 心でいろいろ思っていても、いざ話すとなるとさすがに言葉に詰まった。

「レグ、です」

 他人の名前を言っているような感覚になるかなと思っていたけれど、案外と口に馴染む響きだった。名前すら忘れてしまっていたら、こんな感じなのだろうか、とそこばかりは他人事みたいに思う。

 俺はもう一度、自分の覚えている範囲を思い出しつつ告げることにした。何が起こったかはリザミアがさっき簡単に説明していたが、俺が今どんな状態なのかということは俺にしかわからない。みんなの優しさに真摯さで応える、唯一の方法であるかのように、今の俺のろくに覚えていないことを話した。

 皆の話は確かに空に関することが多かったけど、具体的なエピソードを語ってくれる子もいた。しかしやはりどれも俺の何かに響いたりすることはなく、そうなんだ、という感じで儚く流れ過ぎていくだけだった。

「いろいろ迷惑かけるかもしれないが、どうかよろしくお願いします」

 他人行儀にお辞儀をして、俺は再び席に着いた。ぱちぱち、とまばらな拍手の音が消えると、ターネイド先生が俺の目を見て、それから全体を見回した。

「今日は空についてお話しましょうか」

 カロルが海中心の授業になったと大声で言ってきたことを思い出す。しかし俺が来たからか、カロルはそれを聞いても驚いたりしなかった。

 海とか、空とか、初めての学校であったり、いろんな年齢の子がいる、といった状況の中で学ぶ導入としてはいいかもしれないが、ふととある思いが巡る。

 この先生は、俺たちに何を教えにきたのだろう。

「初めに、皆さんに質問をします」

 生徒が考えるようなことではないだろう、俺はおかしな思考を振り払った。やはり俺はリザミアの言う通り、変な人なのかもしれない。

「あなたは空を見上げたことはありますか?」
「あるー!」

 快活な返事がいくつか飛び交う。隣のカロルはなんだか偉そうな顔をしていた。威張るほどの質問ではない。

「皆さんあるようですね。私もあります。では質問を変えます」

 ターネイド先生の口調はあくまで穏やかなものだった。子どもでもおとなしく聞いているし、俺たちにも違和感なく入り込んでくるような、柔らかい声だった。

「その時、何が見えましたか?」

 雲、と俺がまだ名前を覚えられなかった男の子が言った。

 アイナはその意味を深く読み取ろうと俯き加減で考え込んでいる。リザミアは何も言わなかったが、その後ろ姿だけでももう自分の答えを持っているように思えた。あとはカロルと同じように、何が見えたって、えーっと、みたいな感じで曖昧に思案していた。太陽、とまたさっきと同じ男の子が言う。

 ターネイド先生はまず、と場を静めるように言って、少し言葉の間を空けた。

「何かを知りたければ、まず、見ることです。何が見えているのかを考えながら、見てみることです」

 ふと、その言葉を聞いて窓の外へ目を向ける。空は当たり前のように青くて、雲がいくつか浮かんでいて、日の光が世界を照らしている。

「私たちは、そうして目に見えるものを一番に信じればいいのです」

 では授業を始めましょう。ターネイド先生は黒板に何かを書き始めた。

 さらりと流して授業へと進んでいくが、結構いい言葉だと思った。目に見えるものを信じる。それはなんだか今の状態の俺にまさに相応しい言葉のように思えた。今日の帰りに、空を見上げてみよう。何が見えるか、見てみよう。

「空には様々な言い伝え、伝説と呼ばれるものが昔から多く存在します」

 そうしてターネイド先生の授業は、授業というよりお話みたいな感じで進んでいった。

 それを聞きながらも、空のこととか、自分のこととか、リザミア、カロルのこと、この町のこと、どうしようもなく考え続けてしまっていた。思い出せないことばかりだったが、思考はぐるぐると大量に頭の中を巡っている。

 思い出がなかったことにならないよう――。

 流れ星みたいに、突如リザミアの言葉が現れてすぐに消えていった。他にもいろんな人のいろんな言葉が現れては消えていく。

 時折見やる窓の外の青空は、どこか遠いように感じた。

 とめどない思考と失った記憶、離れてしまったように感じる空の青が混ざり合って、今更になってようやく不安を実感し始めていた。

 少し、恐怖にも似た思いを感じ始めていた。

***

 授業は昼過ぎで終わった。皆が教室を出て行く中、俺は頬杖をついて、しばらくぼんやりと外を眺めていた。

 リザミアやカロルに一緒に帰らないかと誘われたが、少し町を一人で練り歩きたいと考えていたので丁重に断った。

 子どもたちの数から考えてあまり大きな町ではないだろうという見当はついていたが、果たしてここはどういった町なのかということに興味があった。迷ってしまってもいいから、一人で町中を歩いてみたかった。

「君はまだ帰らないのかい?」

 静かになった教室で、すっかり誰もいなくなっていたと思っていたところで、ふと声がした。向くと、ターネイド先生が俺の席に近付いてきていた。

「ちょっと、一人で考え事がしたくて」

 そうですか、と言って先生は隣のカロルの席に座った。体を俺の方に向け、微笑みを湛えたまま尋ねてくる。

「君は空が好きなんだってね?」
「ええ、そうみたいですね」
「どうだい、中心都市シャーリーに行ってみないかい?」
「シャーリー……?」

 少し話が跳躍したように感じた。この国の中心都市の名も初めて聞いた感覚だが、そんなことより、一体先生は何を言いたいのだろう。

「もしかしたら君の記憶が戻る引き金があるかもしれない。今すぐに、とは言わないが、この町を見て、いろんな人と会って、もしも特に何も変わらなかったら、シャーリーへ行くという手もいいかもしれない」
「俺はそのシャーリーへよく行っていたんですか?」

 訊いてから、先生は昨日来たばかりなのだからそんなことを知るわけないか、と思った。ターネイド先生は穏やかに首を振り、シャーリーへ行くといいかもしれない理由はね、と視線が俺を通り過ぎて、窓の外へと向いた。

「空をたくさん知ることができるからだ」

 いまいちピンとこなかった。そりゃあ、一介の海辺の町よりも中心都市の方が情報も知識も得られる量は違うだろう。

 ターネイド先生の目線が俺に戻ってきたのを確認してから、恐る恐るといった感じで口を開いた。

「空を知ることと、俺の記憶が戻ること、何か関係あるんですか?」

 先生はまた首を振った。私にはわからない、とまあそうだろうなと思うことを口にした。

「だが、空が好きな気持ちを思い出すことが、君の変化に繋がる可能性はないとは言えない」
「まあ、そうでしょうね」
「だから君には一層見てほしいんだ」
「……空を、ですか」

 言葉を選ぶように話す俺の目を真っ直ぐ見据えて、ターネイド先生は少し真剣な表情とトーンになって言った。

「君の瞳は、空に似ている」

 刹那の間、俺はひるんで返事が遅れた。

「……俺の目は空みたいに青くないですよ」
「だからこそ、だ」

 先生はおもむろに立ち上がった。俺は惚けたようにその痩せた顔を見上げる。

「君にはぜひ、空を知ってほしい」

 そんなことを言われて、俺は何かを答えることができなかった。思い出してほしいではなく、知ってほしい、とターネイド先生は言った。気を付けて帰るんだよ、とそのまま背を向けて教室を去って行く。

 俺は再び窓の外を見て、先生の去って行った扉を見て、すくりと立ち上がった。空が綺麗に見える場所に行こう。こんなところから見ていても、見たい空は見えない。知りたい空はこれじゃない。

 海だ、と直感的な思いが降ってきた。俺が倒れていた、海辺へ行こう。

 方向は完全に覚えたわけではなかったが、足を止めないようにこっちだと思う方へずんずん進んだ。リザミアと共に歩いたおぼろな記憶と、山と反対側へ行けばいいという単純な思考と、海が近づいているという感覚を頼りに、俺は土の確かな感触を感じながら歩み続けた。

「着いた……」

 風が少し湿っぽくなって、かすかな潮の匂いが鼻をついた。やがて遠く波の音が聴こえて、小さく低い丘を上ると、一気に視界が開けた。

 空の色を映したように、海は紺碧に輝いていた。太陽は穏やかな陽気を放っていて、ちぎったような雲の白は一層映えて眩しく見える。

 俺は波打ち際までゆっくり近寄り、目を閉じてその音に耳をすます。いい音だ、と思った。俺は空が好きなのかもしれないけど、波の音は好きだと思った。

 静かに目を開けて、いよいよ空を見上げる。何が見えるのか、考えてみる。

 今日はとてもいい天気だった。吸い込まれそうな青の中を、のんびりと雲が流れている。名前はわからないけど鳥が数羽飛んでいて、海の彼方へと消えていった。特に、それ以外で目に入るものはなかった。

「うーん」

 一度足元に視線を落とし、行ったり来たりする波を目で追いかける。そうしてもう一度、首を反って空を見る。

「やっぱり……」

 なんだか少し遠いように感じる。空の青がもっと近くにあったような、自分でもいまいち意味のわからない感覚。しかしその一方で、手を伸ばしたら届きそうな気もする。頑張ればあの雲にでも辿り着けるんじゃないかと感じて、結局遠いのか近いのかわからなくなる。

 本当に手を伸ばしてみても、せいぜい日の光を僅かに遮るぐらいで、結局何にも届かない。だらしなく腕を垂らして、そのまま呆然と仰ぎ見る。何が見えるのかなんて、わからない。
わからないよ、ターネイド先生。

「あぁ、空でも……」

 強い風が吹いた。服や髪がはためいて、俺の中に不思議な思いが舞い降りてくる。

 眠りに落ちるように目を閉じる。元々そこにあったみたいに、降ってきた思いがぴったりと心のどこかにはまる。

「空でも、飛べたらいいのに――」

 刹那、地の感触が遠のいた。風に乗ったみたいだ、と思った。

 夢から覚めるように、ふわりと目を開けた。空の美しい青が目に映って、それから足元の波を見下ろした。そこで、何か信じられないものを見たような気がして俺は再び空を仰ぐ。届きたいと思った。あの青に、近付きたいと思った。

 そう思ってしかいないはずなのに、なぜだろう、どうして俺は。思いを超えて――。

「レグ……?」

 聞き慣れた声が最悪のタイミングで耳に飛び込んできた。

 振り向くと、予想通りリザミアの姿があった。海風にさらされて、恐怖に近い驚愕の表情を浮かべながら、俺を見ていた。

 ほんの少し宙に浮かんでいる俺を、見ていた。

「ひとつ思い出したよ、リザミア」

 俺は、下手くそな苦笑いみたいな顔で言った。

「俺、飛べるんだった」

第5話
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