『天と地のクラウディア』第3話
二 遠くなった空
誰かが誰かを呼んでいる。悲痛な声。涙の混ざったような震えた声。泣かないで。そう言いたくなるような、どこか少しだけ愛おしい声。
どうやら俺は仰向けで倒れているようだった。なんだか懐かしい音がする。耳の奥をざらざらとくすぐるような、規則的に行ったり来たりするこの音は、そうだ、波だ。
波の音だ。
「レグ!」
うっすらと目を開けると、朝日みたいな柔らかい光が少し眩しかった。徐々に焦点が合って、俺の顔を覗き込むようにしている人物がはっきりと映る。
「……え?」
俺は大層驚いた。一人の女の子が大粒の涙を流しているではないか。どうやらこの子がずっと俺に向かって呼び声を発していたらしい。俺がちゃんと目を開くと、その子は目に見えて安心したような表情になった。
「レグが! レグが……目を覚ましたよ!」
女の子が周囲に向かって叫んだ。俺はわけがわからないまま身体を起こす。と、急にむせこんでしまった。口の中が塩辛い。困惑する頭で記憶を呼び起こそうとしたが、なぜだかうまくいかなかった。頭の中の整理がつかず、思考は混沌としている。
えっと……俺、どうしたんだっけ?
「レグ」
女の子は何度目かその名らしき言葉を発し、俺の両肩に手を置いた。傍らにに跪く彼女と正対する形になる。
俺はその子を真正面から見据えた。
細い黒髪は肩ぐらいの長さで、ばたばたと風にはためいている。その瞳も同じぐらい漆黒に染まっていて、泣いていたからか目の周りは赤く腫れているけれど、その黒からはまるで射抜かれているような強さが感じられた。華奢な身体つきだが、ぎゅっと俺の存在を確かめるように肩を握る手からは、確固たる意志のようなものが流れ込むように伝わってくる。
「綺麗な目……」
俺が思わずそう口に出してしまった瞬間、彼女の瞳に動揺が浮かんだ。肩を握られる力が、ほんの少し強くなった。
「あの、俺……溺れていたのか?」
彼女の反応を不思議に思いながらも、とにかく俺は訊きたいことがたくさんあるような気がして、本当は矢継ぎ早に聞きたかったけれど、精一杯の冷静を装って尋ねた。
目の前の女の子の表情が俄かに曇った。周囲に幾人かの大人が集まってくる。口々に何か言っているようだが、俺の耳に明確に届いてくるのは彼女の凜とした声だけだった。
「……レグ?」
「レグ?」
俺が同じような語調で同じ言葉を返すと、いよいよ女の子の顔から血の気が引いた。また泣くな、と思ったけれど、すんでのところで堪えているようで、涙は零れ落ちてこなかった。
肩を握る彼女の手の力が、すっと消え去った。脱力したようにぺたりと座り込んで、涙の代わりに悲壮の溢れた表情で恐る恐るといった様子で口を開く。
「覚えて、ないの?」
刹那、俺の身体からも力が抜けていくようだった。今見ている彼女と同じような顔になっているかもしれなかった。
ざわざわ、と周囲の人間たちの喧騒が大きくなっていた。俺の頭と心の中も、まさにその喧騒に負けないほどざわめいていた。
どれだけ思考を凝らしても、思い起こそうとしても、記憶の断片は何一つ掴まらない。もやもやした暗闇に手を突っ込んだように、手がかりのない不安や恐怖に襲われる。
俺は溺れていたのか? この状況はなんだ? 俺の周囲に群がる人たちは誰で、というよりもそもそも俺は誰だ?
なぜ目の前のこの子はあんなに泣いていて、こんなにも悲しそうで、どうして俺は――何も、何一つも思い出せない?
「幸い身体に問題はないようだ。今日一日安静にしていれば、明日にはもう普段通り過ごして構わない」
町の医者だという物腰の柔らかそうな老人は、俺を一通り診た後にそう静かに告げた。ただ、とすぐその声に重みが増す。
「ただ、リザミア君の話によると、君は何も覚えていないという」
俺は引き締まった表情で頷いた。リザミア、という人物が、あの気が付いた時に一番初めに目にした子であることは、ついさっき知った。
やはりあの時どうやら世界は朝を迎えていたそうで、俺はいつからか波打ち際で流れ着いたみたいに意識を失っていたという。今はすっかり太陽も上がり陽気が漂い始めている。だが俺の心の中には無が充満していて、なんだか薄ら寒い。
「俺がレグという名であることは、思い出してはいないですが理解しました。ただそれ以外のことが、本当に何も……」
老人は神妙な顔つきで唸るような声を上げた。
「私の見解では、一時的なものだとは思う。何か思い出したら言ってきなさい。力になろう」
「ありがとうございます」
診療所みたいな小さなところだが、この医者は、いや、まだほんの少ししか触れ合っていないが、この町の人々は皆、温かく優しいように思う。文字通り現状どうしようもない俺はただただ頭の下がる思いだった。
「まあ、またあの子が君の側に居るのだから大丈夫だ。きっと記憶もすぐ戻るだろうし、何も怖れることはない」
それは心からの言葉であるように聞こえた。リザミアという女の子のことも、こんな状態の俺のことも、心底信頼しているような声音だった。
医者は今日は夜までここで寝ているといい、と背を向け、扉の方へ歩いていった。俺は慌てたような口調でその骨張った後ろ姿に呼びかける。まるで何かの不安に駆られるように、急き立てられているように、俺はどうしても気になっていたことを尋ねた。
「あの……リザミア、って子、俺とどういう……」
「そんなことは」
歯切れの悪い俺の声は静かに遮られる。年老いた後ろ姿は振り向くことなく告げた。
「彼女の口から聞いた方がいい」
そう言い残し、ゆらりとした足取りで扉を開けて出て行く。もう一度感謝でも述べるべきだったが、扉が閉まりきるまでどうにもうまく声が出てこなかった。
何をすることもなくなった俺は、再びベッドに横たわって目を閉じた。思い出すのは、今朝のこと。そもそも今朝までしか思い出せないが、そういうのは抜きにしても強烈な光景だった。
気がついたら何も覚えていなくて、倒れる俺を覗き込んでいる女の子が世界の終わりみたいな顔をしながら泣いていた。どうしてあんなに泣いていたのだろう。聞いた感じ凛とした声や、見た感じ端麗な顔立ちで抱く印象からは、少し外れていたような気がしないでもない。
ぱっと目を開けると、静かに扉の開く音が聞こえた。なんとなく、顔を見なくても誰が入ってきたのかわかったような気がして、俺は特に身体を動かすことはしなかった。
部屋に入ってきた誰かは一言も話さず、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。そこでようやく俺は身体を起こす。
リザミアだった。じっと、俺たちは無言で目を合わせる。漆黒の瞳に吸い込まれそうになる。もう目元に泣いた痕跡はなく、その顔立ちによく似合う強かな佇まいで、彼女は俺を見つめていた。
「ふふ」
と、驚いたことに、何が面白かったのかリザミアは吹き出したように小さな笑い声をあげた。それはあまりに突拍子がなくて、窓の外へと視線を移して堪えるように微笑む彼女の横顔を、俺は目を丸くしてぼんやり見つめた。柔らかな陽射しが、きらきらとリザミアを照らす。
さっきまでこの子が号泣していたなんて、まるで嘘みたいな表情だった。
「目を合わせてもすぐ逸らしていたのに」
凛と通る声からは、あの泣き顔も、こちらに向き直ったその薄い笑みも。
「なんだか、レグじゃないみたい」
なんだか、嘘みたいな表情だと思った。
***
記憶は間違いなく飛んでいたが、気が付いたその日も飛ぶように過ぎていった。
「レグ! 初日から貴様、何をしていた! お前もこの日を待ち侘びていたじゃないか! まあ授業の方向性が海中心に決まったのは良かったが、だからと言って姿を現さないのは張り合いがないというか、その、何と言うかだな!」
確かに何と言っているのかいまいちわからない。
「リザミア、リザミア」
俺はこっそり耳打ちするように尋ねた。
「このうるさくて丸いの、俺の友達か?」
「……全部説明するから、ちょっと待ってて」
俺が目を覚ました翌日、こうしてリザミアと共に学校へとやって来た。昨日がこの町初の学校の開校初日で、年齢は少々ばらつきがあるが小さなこの町の子どもたちがこれから集っていく場所になるらしい。
医者に診てもらった昨日、リザミアと少し話をして翌日学校へ行くことを決めた。そしてちょうどその頃、朝早くから仕事へ向かっていた両親が事情を聞きつけ慌ただしく駆けつけた。身体に問題はないことと、記憶喪失も一時的なものだろうという医者の見解を聞いた両親は怪訝そうな顔をしていたが、いざ俺に向ける表情は柔和で温かいものだった。
家に帰ってからもいろいろなことを聞いたり訊いてみたりしたが、どれも記憶の欠片に引っかかることはなかった。一時的、とは言われたが、これはしばらく付き合わなければいけないかもしれない、と心の内で一人覚悟した。朝も通学の道中リザミアに俺の友人について尋ねてみたが、今こうしてその人たちを目の前にしても、やはり何かを思い出すことも脳裏に何かしらの光景がちらつくこともなかった。
「みんなに一つ、言わなきゃならないことがあるの」
リザミアの声は決して大きくはなかったが、それは皆を静まらせるのに十分な声音だった。まるで指導者か先生みたいな貫禄で壇上に上がる彼女は、一瞬言葉を探すような間を空けて、心を決めたように率直な物言いで告げた。
「レグは昨日、海辺で倒れていて、今記憶を失っているの」
先ほどうるさかった丸いやつが大仰な身振りで驚いた。刹那の静寂の後、みるみる教室内にざわめきが広がり、皆の視線が俺を向く。
俺はどんな顔をしていいかわからず、下手くそな苦笑いみたいな表情を浮かべた。いろんな顔が俺を見ていた。驚きや、困惑や、俺のようにどんな反応をすればいいかわからないような表情。皆のそんな顔を見ていると、誰が誰だかわからないとはいえ、なんだか他人事みたいに自分自身がいたたまれなくなってしまう。俺は皆の中でどのような存在だったのだろうか、とわかるはずのないことを考える。
「お医者さんは一時的なものだって言っていたから、思い出せるようにみんな協力しようね」
リザミアは小さな子どもに語りかけるように優しく言った。実際幼めの子もいるが、それは俺自身にも言われているような気がした。昨日のうちに皆に伝えることもやろうと思えばできただろうに、俺の居る場でこうして告げたのは、これも彼女の一つの計らいなのかなとも思う。
「で、レグは無理しないこと。何かあったら誰でもいいからすぐに言うこと。いい?」
こくりと素直に頷いた。皆の前で話をする姿を見て、しばらくこの子に頼ろう、という俺の中の思いが確固たるものになった。一人じゃどうにもできない身として、誰かの世話になるしかない。この子なら、全幅の信頼を置けそうだ。
たった二日やそこらでそんな思いまでに至ったのは、きっと彼女の言葉以外にも惹かれるところがあったからだと思う。
彼女は強い。俺も強くなければ。泣き顔とか、微笑んだ顔とか、そんな昨日のことを思い出しながら、誓うように思う。
「レグ、何も知らず怒鳴りこんですまなかった」
唐突に、さっきの丸い男がその体型をさらに丸めるようにして謝ってきた。結局リザミアからまだ説明を受けていないけれど、彼も俺の友人なのだろう。
俺はかぶりを振って、彼の誠意に対して穏やかに返す。
「知らないことは罪じゃない。謝る必要なんてないよ。こっちこそ心配をかけてすまない」
「ん、声が少しおかしいな。風邪か?」
「レグは溺れていただろうから、多分海水を飲んでしまっていたのよ。濡れた身体で一晩中倒れていたしね。きっと喉の方はそのうち良くなるわ」
代わりにリザミアが答えてくれた。別に喉は痛くもなんともないのだが、まあ自分が誰かもわからない人間が自分の身体のことを把握できているはずもなく、俺は愛想笑いでごまかしておいた。
「そろそろ先生が来るから、カロルも席について。レグの席はこっち」
男がカロルという名だとわかったところで、リザミアは俺をその男の隣の席に座らせた。窓際の、一番後ろの席だった。
「全然思い出せなくて申し訳ないが、いろいろとよろしく頼む」
「お、おう……」
気を遣ってくれるのはありがたいが、それに何も返せない俺のせめてもの気持ちとして、はっきりとお願いしておく。カロルは戸惑ったように返事をして、言葉を探すような逡巡を見せたが、結局何か言い出す前に教室の扉が開いた。
入ってきたのは細身の男性だった。皆が着席する様子を見るに、彼が先生のようだ。お兄さんとおじさんの中間ぐらいの見た目をした彼は、壇上から席についた俺たちを一通り見渡して口を開いた。
「おはようございます」
皆口々に、明朗な挨拶を返す。と、先生の視線が俺の目にぶつかった。
「君が昨日欠席した、レグ・シェイルド君だね」
はいと言えばいいだけなのに、なぜだか俺はその静かな問いかけに答えられなかった。先生が何も言わない俺を不思議そうに見つめ続けていると、代わりにカロルが声をあげた。
「先生、どうやらレグは昨日何かがあって記憶が一時的になくなっているそうなんです」
「なんと」
先生はさも驚いたようにカロルを見て、再び俺に向き直った。
「先生としてそんなことも知らずに申し訳ない」
謝られても、と思う。俺だって今は何も知らない。
「ではそうだな……今日は自己紹介をしましょう」
「昨日もしたよー」
幼い男の子の声に、先生は穏やかに返す。
「レグ君に対して自己紹介をしよう。彼がどんな人で、どんな思い出があるのか、それも付け加えて、ね」
おお、と教室内がざわついた。俺より年下の子が多いように見受けられるが、やはり随分と素直な反応をしてくれる。
先生はまず私から、と軽く咳払いをして俺を真っ直ぐ見据えた。痩せ気味の顔が優しく微笑む。
「私の名はターネイド。ターネイド・クライム。君たちと共に学んでいく、君たちの先生だ。空の研究を主に行っていたが、この度この海のある町で教師の立場を拝命した。わからないことがあれば……いや、何かあれば何でも頼ってくれたらいい。今日から君は私の生徒だ」
細身の外見に反してなかなか傍若無人な語調が感じられた。私の生徒だ、という言葉の意味を少し考えてみる。
「では次は、そうだね、アイナ君から順番に。最後にレグ君でいこうか」
「はい」
廊下側の先頭の席で行儀良く返事をして姿勢良く立ち上がったのは、アイナと呼ばれた女の子だった。教室の皆の方を向いて話すためにくるりと回ると、肩上の柔らかそうな髪がふわりと弾んだ。
俺やリザミアよりはいくつか年下そうだが、このほんの少しの挙動だけで彼女の人柄が表れているように思えた。
そしてその印象通り、お手本のような自己紹介を流れるように行った後、アイナはちらりと俺を窺うように見やった。そして、瞭然なとした口調で言う。
「レグさんは、空が大好きな人です」
へぇ、と思う。空が好きって、なんだろう。
「レグさんは私にいろんな空を見せてくれました。だから今度は、私がいろんな空を探してレグさんに見てもらって、全部思い出してもらいたいです」
おお、と思った。健気な子だ。いろんな空っていうのはよくわからなかったけれど、そんなことはどうでも良かった。まだあどけなさの残る女の子が真っ直ぐそう言ってくれるだけで、俺は幸せな環境に居たんだなぁと実感する。同時にこんないい子を心配させてしまって、申し訳ないような気持ちにもなる。
ぱちぱち、と皆の控えめな拍手でアイナは着席し、次の子へと移る。そうして順々に自己紹介は続いていったが、どうやら俺より年上はいないようだった。俺とリザミアとカロルの三人が、この集団で最年長らしい。昨日から学校が始まったとのことだったが、俺たちが上限の年齢になっていたのかもしれない。
自己紹介後の俺に関する話の時、皆口を揃えてアイナに倣ったように空が好きと言っていた。
彼女の時はさすがにそうなのか、と思ったものなのだが、そればかりだと段々他に何かないのかよ、と子どもたちにではなく自分自身に思ってしまう。そんな中、カロルの切り口は全く違った。
「俺は海が好きだ」
第4話
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