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『天と地のクラウディア』第8話

四 空を知ること

 その目には畏怖のような思いが映っていた。リザミアが少し離れた砂浜の上から、波打ち際で漂うように宙に浮かんでいる俺を見ていた。

 大きく見開かれた目は、端正な顔立ちによく似合っていた。驚愕とか、恐怖とか、その他様々な感情が綯い交ぜになった思いが、この距離でもありありと伝わってくる。

 俺はこのまま移動できそうな気がしたが、浮遊したまま近づくと、なぜだかリザミアが逃げてしまいそうな気がして、一度砂の上に足を下ろした。ずし、と自分の体重を踏みしめ、それからリザミアへ向き直る。一歩踏み出すと砂の上で足が僅かに沈んだ。

 俺が近付くにつれ、リザミアの顔は徐々に強張ってくる。気のせいか、足取りが重いように感じてきた。そんな顔をするリザミアはあまり見たくなかった。それでも言わなければならないことがあるように思えて、ある種の使命的な想いを抱きながら砂の上を歩く。

 結局、俺が目の前にたどり着くまで、リザミアは一歩も動くことはなかった。

「思い出したんだ」

 喉が潮風にやられてしまったように乾燥していて、少し声がざらついた。こほっと咳払いをして、足を止め、訝しげな彼女と真正面から向き合う。

 夜の海の向こうに広がっているような色をした双眸が、俺の全身を睨めるように見回す。飛んだことに驚いて怯えたりしていないだろうか、と思ったが、杞憂だったようだ。

 彼女には、あらゆる弱さは似合わない。

「俺は飛べるんだった」

 もう一度、飛べることを思い出したと伝えた。リザミアは不愉快そうに顔をしかめる。

「何を言っているの?」
「え? いや……何を言ってるも何も、言葉の通りだけど」
「私は飛べないわ」

 少し様子が変だった。その言葉の意味を暫し思案する。リザミアは、飛べない……。

「……俺は、飛べたのか?」

 リザミアは何かを諦めたような感じで力なく首を振った。

「もちろん、あなたも飛べるはずがない。第一、人が飛ぶって何。なんで。何をしたの?」

 どうやら困惑しているようだった。全くそういった所作を見せないから、出てきた声だけは俺の思っていた口調とは少し違った。

 しかし、そんなリザミアの様子はともかく。

 その内容がどうにも不思議だった。

「でも、思い出したんだ。思い出したとしか言いようがないけど……走るみたいな感じで、普通に飛び回っていた」

 リザミアが額を押さえて唸った。何か変なことを言っただろうかと思ったが、心に浮かんだことをそのまま伝えただけだ。空っぽだった記憶の中に、たった一つだけ蘇ってきた想い。

 夢よりもよっぽど現実感があった。青い空と、その色へ向かって風を切って進む感覚。

 俺は確かに宙を飛び回っていた。今同じようにできるかはやってみないとわからないが、これが俺の中に存在した記憶であることはもう確信に近かった。

 逸らさない俺の目を見据え続けるリザミアが、どこか観念したように息を吐いた。

「私は生まれてこのかたあなたが宙に浮いたところを見たことがないけれど、事実こうして私の目の前で浮かび上がった」

 浮かべ、と念じると、思いの外簡単に、さっきと同じように足が砂の上から離れた。リザミアは周囲を窺いながら吐き捨てるように言う。

「信じるしかないってことね」

 続いて俺の瞳をじろりと睨む。変な話だが、この顔立ちにその目はよく似合っている。

「でも、皆の前で飛ばない方がいいかもね」
「ん、なんでだ?」
「皆が皆、私みたいに受け入れられるとは限らないから」

 何もない暗い海に視線を移し、独り言みたいに呟く。

「人が飛ぶなんてありえないから。変に噂になって、広まって、そうしたらレグ、どこかへ遠くへ行ってしまいそうな気がして」

 俺も彼女の視線を追うが、闇がうねっているように見える不気味な海の向こうには、やはり暗闇しか見えない。月は雲に隠れて、星も見えない夜だった。

 波の音が押し寄せては名残惜しそうに遠ざかる。俺は再びリザミアを見やる。その横顔は、まるで夜の闇から切り取られたみたいにぽっかり浮かび上がって見えた。強い瞳だった。

 俺の記憶と、リザミアの中の俺とが食い違っている。一体何が起こっているのいうのだろう。

「帰ろう」

 唐突に、リザミアがそう切り出して背を向けた。

「待って」

 俺は咄嗟に思い立って、素早くその手を取る。振り返ったリザミアは目を丸くしていたが、何も言ってこなかった。

「飛んでみないか」

 ぎゅっと、握る手に力を優しく込めてみる。思いの外、手の甲が熱い。

「言ったでしょ。私は飛べないって」

 口ではそう言いつつも、手を振り払おうとはしなかった。俺はどこか安堵して、ふわり、と足の裏側に意識を向ける。

「大丈夫」

 刹那、何かを思い出しそうな気がした。それは一瞬脳裏をかすめて、気が付いた時にはすでに消え去っていた。

 飛べ、と念じる。曇りきった夜空を見上げる。

「行くぞ」
「ちょ、ちょっと……」

 リザミアは、少し足がすくんでいる様子だった。本気? とその眼が問いかけている。一切動じないよう装っているようにも見えるし、本当に何も抵抗がないようにも見える。

 大丈夫、飛ぶことは怖くない。空は自由だ。

 俺はするりとリザミアの膝元に腕を滑らせ、握っていた手を離して背中を支えた。お姫様を抱えるみたいに、半ば強引に彼女の身体を持ち上げる。そして、抵抗の動きをされる前に、勢いよく飛び上がった。

 そうだ、この感覚だ。まるで初めて空を飛んだいつかの日を懐かしむような思いを抱いていた。恐怖を上回る高揚感が、全身を血のように駆け巡る。

 降ろしてくれなんて言い出さないとわかっていた。身体をよじらせて抵抗する気もなくなると知っていた。ひとたび空を感じれば。この感覚を味わえば。

「俺は、ほら、自由に飛べるんだ」

 暗い海のその向こうを見に行くように、すーっと上昇した。誰かに下手に見つかってしまわないように、町から少し離れる。砂浜なんてない海辺に向かう。もうすでに、誰かに見つかっているかもしれないけれど、リザミアは何も言わなかったし、大人しくじっとしていた。多分、誰にも見られていないだろうと思っている。この町の夜は昼間と違い、随分と静かだった。

 ふと、所在なげなリザミアの手が、恐る恐るといった感じでゆっくりと動いた。そうして俺の肩あたりを、ぎゅっと掴む。

「怖い?」

 やはりリザミアは何も答えなかった。遠くの海を、目を見開いて睨んでいる。絶対に落とさないでねと言わんばかりに、ぎゅっと俺の肩を握り続けている。少し高度を上げすぎただろうか。

 砂浜からすっかり離れたところまでやって来た。町の明かりも遠く、波の音しか聞こえない。俺は移動をやめて、空中で立ち止まってみた。飛ぶ感覚は、一度飛び始めればすぐに取り戻せた。きっと記憶がなくなる前は、日常に深く馴染んだ感覚だったのだろう。

「俺、シャーリーってところに行ってみようかと思う」

 唐突に、ぽつりと呟いた。俺の肩を掴むリザミアの手の熱が少しずつ引いてきていた。

 返事がなくても独り言みたいな感じで話を続けようかと思っていたが、次の言葉を口に出す前に、耳元から声がした。

「いつ?」

 ふとそちらの方を見ると、リザミアの顔が思いの外近くにあった。抱きかかえているのだから当たり前なのだが、今まで意識に上らなかった。その顔は相変わらず冷めていた。高揚か恐怖かを無理に押し隠しているようにも見えるし、宙に浮いて飛び回っていることを本当に何とも感じでいないようにも見える。でも、俺の肩を掴む手の強さだけは変わらない。

「明日」
「そう」

 淡白な返事。ふと、この子は一体何をすれば驚いてくれるのだろうと思った。しかし思い返せば、俺が目を覚ましたあの朝、俺の目の前で号泣していた。俺が浜辺で倒れていることは、彼女にとってはそんなにも衝撃的な出来事だったのかと、今になって思う。一方で今となっては、これほど揺るぎのない瞳のどこからあんなに涙が零れていたのか思い出せないでいる。それほどあの時の痕跡がなくて、思い出す隙もない表情だった。

 薄ぼんやりとした月の明かりしかなかったが、この距離のせいか何なのか、リザミアの顔ははっきりと俺の目に映っていた。じっと見つめ合って、外せない視線。

 話を続けなければ、と咄嗟に言葉を探してみるも、それは形を帯びる前に脳内で霧散していく。リザミアはしばらくいつもより近い俺の目を無言で見据えると、やがてくすりと笑みをこぼした。

「何をしに行くの?」

 何が愉快だったのだろう。表情の変化は読み取れるが、どうにもそれと呼応しきらない彼女の感情は少し複雑だ。

「シャーリーに何をしに行くの?」

 リザミアは同じような声で再度尋ねた。

 俺は我に返ったようにはっとして、呪縛から解かれたように視線を暗黒の海の向こうに投げる。

「わからない」

 そう口にしたつもりだったが、ちゃんと声になっていただろうか。言い直すように、もう一度口を開く。

「実はよく、わからないんだ。行って何をすればいいかとか、何をしたいかとか全然わからないけど、行けば何かあるような」
「何かって?」
「それがわかれば苦労ねえんだがなぁ」

 ふふ、とわずかに肩を揺らしてまたリザミアは小さく笑った。

「誰かに何か言われたの? おばさん?」
「いいや、先生」
「へえ、先生が」
「空を知りなさいって」
「空を知る……?」

 囁くような声でリザミアは聞き返してきた。でも残念ながら俺もその言葉の真意はよくわからないので、何も答えられず黙って首を振る。

「じゃあ私も行こうかな」

 唐突な発言に、目を丸くしてその目を見返すと、どうやら彼女は本気で言っているようだった。どうして、と訊く前にリザミアは続ける。

「私も空、知りたいし」
「なんでまた、リザミアまで空を……」

 記憶喪失前の俺は空にぞっこんだったようだが、リザミアはてっきりあんまり興味のない方かと勝手に思っていた。単に中心都市に行きたいだけだろうか。しかし彼女の父親は定期的にシャーリーへ行っていると聞いた。以前の俺や、カロルなどよりはずっと訪れた経験があるはずで、彼女にとってそこまで物珍しいものとも思えない。

 その上、空を知りたいとは一体……。

「思っていたよりずっと、私の知らないことがたくさんある。こうして宙に浮いて、そんな思いが湧いてきただけ」

 そっけなく言い放っているようには感じたが、どこか使命感のような響きにも聞き取れた。今までリザミアがどこまで空に関心があったのかは知らないが、まあ、知りたいというなら知ろうとすればいい。

 そもそも空を知るという言葉の意味がいまいち掴めていない俺にとっては、彼女の言葉もターネイド先生同様、何か意味を含んでいるようにも聞こえる。

「明日、お昼頃で出発できる?」
「うん。何か準備がいるのか?」
「そうだね。大人の人たちについて行く形だから、まず交渉。次に三日分ぐらいの生活用品の準備」
「生活用品?」
「服とか、水とか。水は大人たちが持っているかな。まあ、移動はほぼ一日がかりだから」
「昼に出ると、いつ着くんだ?」
「日が落ちるまでに着くのは絶対無理。もちろん、距離があるから私たち関係者でない人間が勝手に行くのもダメ。だから大人の人たちについて行くの」

 隣町、という感覚ではないらしい。余計に、よくそんな手間をかけてまでシャーリー行きを即決したなぁ、とも思う。リザミア然り、無論俺然り。

「確か明日出発のグループは昼だったはずだし。よかったね、決めたタイミングが良くて」

 俺が明日と答えた時にはそんなことは言わなかったのに、自分も行くと決めてからやけに饒舌に話してくれる。もっとも、具体的な時間とかどうやって行くのかとか、明日誰かに聞いてどうにかしようと考えていた。後はどうにかなるだろうと思っていた。決意は固まっているのだから、と。

 ……今思うと、楽観的すぎただろうか。

「滞在期間は?」
「実質二日間。一日目の夜に着いて、四日目の朝一番で出発。いろんな仕事の人がいろんな用事で行くけど、みんなシャーリー滞在は二日間って決まっているみたい」
「どうして二日間なんだ?」
「知らない。昔からの決まりなんじゃない?」

 まるで事前に打ち合わせていたかのように、ぱったりと話題はそこで途切れた。聞くことを聞いて、言いたいことを言い合った後のような、自然な間。

 それはどこか優しい沈黙だった。俺たちはしばらく暗い海を眺め、眼下でうねる波の音を聴いていた。

「あの、さ」

 不意に弱い風が吹いた。温かく、包み込むような優しい夜風だった。頬でそれを感じながら、俺は躊躇いがちに口を開く。

「悪いんだけど、そろそろ、戻ってもいいかな?」

 リザミアが俺の目に視線を戻した。

「あら、飛ぶのって体力消費するの?」
「いや、走るよりはずっと楽だけど」
「もう少し海を見ていたいって言ったら?」
「……途中で落っことすかも」

 リザミアは黙り込んで、冷たい目で俺を睨んだ。あまり言いたくなかったけど、冗談とわかってくれるだろう、と思って言って、案の定だ。

「ごめんなさいね、重くて」

 無言を肯定と受け取り、人気の少ない降り立つ場所を探そうとゆるりと振り返った時、ぼそりとリザミアの声が耳に届いた。そうじゃないんだ、単にスタミナ切れなんだと言いたかったけれど、そんなことはきっとリザミアもわかっている。わかっていて、呟いているのだ。

 互いにそんな冗談めいたことを言い合うのも、何だか懐かしいような気がした。記憶は消えているのに、不思議な感情だと思った。

 飛ぶのはたいして疲れない。足元に意識を置いて、バランスを取ればいいだけの話だ。歩くよりは集中するが、走るよりよっぽど楽ではある。しかしリザミアは飛べない。腕にも意識を向ければ、もしかして浮力を支える力として使えないかと思ったが、どうやら腕に飛べ浮かべと念じてもほんの少ししか効果はなかった。一応、軽くは感じるようになりはしたが。

 やがて、俺は少し離れた砂浜に降り立った。町に近い砂浜と違って全体的に狭く、周囲に大きな岩も多い。砂粒も荒いように感じる。

「突然飛び出して悪かったな」

 改まって伝えると、リザミアはほんと、誘拐されるのかと思った、と無表情で言って、それから誰にともなく虚空に向けて付け加えた。

「まあ、思ったより悪くなかったけど」

 俺はなんだか嬉しくなって、少し頬が緩んだ。

「リザミアも飛べるように頑張ってみるといい」
「私は飛べないよ」

 ゆっくりとリザミアを砂の上に立たせると、互いに向かい合った。潮風が俺たちの間を通り抜ける。

「いいや、きっとみんな同じだよ。俺も、リザミアも、きっと何も変わんねえよ」
「……そうだといいね」

 やがて、海に背を向け二人並んで歩き出した。少し家まで距離がある。とは言っても、上空から見たところ小さな林を抜けるだけだったので、そう難儀な話ではないが。

 リザミアと、深まる夜を歩いた。腕に少し疲労が溜まっているが、気分は高揚していた。空中を自由自在に飛び回れて、楽しかったと思った。リザミアも同じ気持ちだろうか。そっと隣を盗み見るが、その横顔からは何も読み取れない。

 明日から学校を休んで、シャーリーに行く。そうだ、数日間休むことを先生やみんなにも伝えないといけないし、リザミアが同行することも言わなければならない。親の承諾を得て、連れていってもらえる人にも挨拶とお願いをしなければならない。

 リザミアの言う準備、というのはこういったことも含まれていたのだ。なるほど、これほど突然の決行だと否が応でも時間が必要になって、出発は昼になってしまうわけだ。

「明日、楽しみだな」

 何気なく口にしてみた。何をしに行くのか不明瞭でも、どこか楽しみではあった。それは空を飛べる、と感じて足が地面を離れる直前の思いと、どこか似ていた。

「そうだね」

 返事まで少し間があった。楽しみな気持ちが声に乗ってしまわないよう押さえ込んでいたようにも、特に何とも感じていないようにも聞こえた。その短い言葉は、実にリザミアらしい返答だった。

 夜空は相変わらずの雲が覆っていたが、遠くに切れ目を見つけて、月の明かりが漏れていた。

 明日は晴れるかもしれない、晴れるといいな、と思いながら、俺はリザミアの歩幅に合わせてのんびりと歩き続けた。

第9話
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