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『人生という大冒険を』

No.5

野口重光の ぐち しげ みつ神父

カトリック東京教区 三河島教会主任

サレジオ会員に聞く
カトリックの信仰を土台に自分を活かし、
神と人のために尽くす人生を送る人々がいる。
"人間"としてのサレジオ会員たちに
“人生"を伺ってきた。

聞き手:サレジオ会日本管区広報 中村


まず、半生をお聞きできれば。

生まれは長崎の田平という平戸近くの村。1949年8月生まれ。
父親が長崎の造船所で働いていて、爆撃が激しくなってきたので、長崎市内から疎開したんです。
田んぼのそばにほったて小屋を建てて、そこに住んでたんです。
今から何年か前に見に行ったんですけど、井戸だけしか残ってなくて、他はもうどうだったか全然分からない。
そんなところで3歳くらいまでいたのかな。
父親は長崎造船所で被爆してるんですよね。
そんな凄い被曝ではなかったんですけど、3歳の頃に父は亡くなったんですね。
田平には田平教会があって、昔は保育園があったらしいんです。
3歳の頃、家から保育園まで結構な距離があって、最初は誰かがついて来てくれたんでしょうけど、
そのうち、一人で行ってたんです。
そんな経験があったので、今もって一人でなんかやるというのはね、あまり怖くないというか。
小さい頃の体験ですけどね。

多分、季節によっては帰る頃、辺りは真っ暗ですよね。

真っ暗っていうのもあるし、途中にちょっとした林があって、日中でも怖いんですよ(笑)。
そこだけ走っていってね(笑)。そんな調子でしたね。
戦後ちょっとして、4、5歳の頃に親戚を頼って、母親と兄弟3人で一緒に東京に来たんです。
元々は兄弟が7人いて、そのうち私入れて3人が上京してきた。母親が修道会の住み込みの賄いで働くようになったんです。
それが今葉山の御用邸がある近くだったんです。
一つ上の兄貴、もう亡くなりましたが、その御用邸に友達ができて、御用邸に出入りしてたって(笑)。
今考えればセキュリティはどうだったんだろうって思いますけどね(笑)。
戦災で母子家庭になっちゃった訳だから、母親も大変ということで、
賄いで働いていた修道会のシスターのつてで、僕たち3人は東京サレジオ学園に行くようになったんですね。
ですから僕も養護施設に入ってた一員なんです。大集団の養護施設でね。揉まれてきた訳ですけどね。
それがサレジオ会との出会いなんです。
色々なことがありましたけど、親戚筋に神父様や司教様がおられたので、
その神父様の勧めと母親の勧めもあって、神父にならないかと誘われて。
その頃はまだ、神父がどういうものかよく分かってなかったんですけど、行くことになって。
で、宮崎の日向学院にある志願院に行ったんです。
元々そんな調子だったから、神父になって何かをしたいなんてことはあまり考えていなかったんですよね。
その日その日でこの場所でこの生活が続けばいいやみたいな形ですね。
小さい時にそんな環境で育ったから、なるようにしかならないと思ってて。
だから、神父になったら結婚ができないとか、そういうことは全く考えてなくて。
日向学院で、志願生として勉強してました。
同じ歳くらいの人たちと一緒に生活をするという意味の共同生活は、サレジオ学園で慣れてるので、
志願院もそんなに苦ではなかったです。
大学に入る時、それまでは調布にサレジオ短大という神学校があって、そこに行くのが養成ルートだったんですけど、
少し上の先輩の頃から上智大学に通うようになって。そして行った時が運悪くというか、学生紛争の真っ只中の時で。

そういう大変な時代だったのですね。

そうですね。通ったのですが、一年目の12月頃にはロックアウトで大学が閉鎖されて、構内に入れないんですよね。
でも修道会の予定として次年に修練期に入ることになっていた。
その頃大学は一年終わらないと休学させてくれないので、どうしたらいいんでしょうかってなって(苦笑)。
大学の先生に頼み込んで、各科目のレポート提出でいいということになって。
1、2か月でレポート一生懸命書いて。それで休学させてもらった。
本当に大学ってこんなもんかって思いましたよね。勉強するどころじゃなくて。
三河島教会のすぐ近くに明治通りがあるじゃないですか。あの通りの倍以上にうるさくスピーカーでがなりたてる訳ですよ。アジ演説※っていうやつでね。
だからもう授業にならないんですよね。そんな中で授業を受けていた一年間だったから、結局何を勉強したか、今持って分からない(笑)。
あの1年なんだったんだろうかっていうね。電車に朝早くからぎゅうぎゅう詰めの電車に揺られていって。
1年修練期をやって。その間も学生紛争は続いていたんですよね。
で、復帰したら様変わりしてて。大学には通えたけども、教室はあっちだこっちだっていろんなところに行かされて。
それで3年間行ったんですけど。
その頃にいわゆるあさま山荘事件とか、東大紛争バリケード封鎖とかあって。
調布から京王線で新宿に出て、そこから中央線で四谷に出てくるんですけど、まだまだ終わってなかったんでしょうね。
電車の中にゲバ棒*持ってる人が入ってきたり、ヘルメット被った人がいたりして。もう物々しいですよ。

*アジ演説:アジテーション(agitation=振動、動揺)からの造語。大衆に対して政治目的をもって情緒的に訴えかけ、あおりたてて、思想と行動を自己の思いどおりの方向へと操作すること。
*ゲバ棒:ゲバルト棒の略称。学生運動のデモなどの際に武器として使用される角材。

現在、野口神父が主任を務める東京・三河島のカトリック三河島教会聖堂内。
サレジオ会が来日して最初の関東での活動拠点でもある。
小教区として92年目の歴史ある教会
1973年にイタリアから取り寄せたという年季の入ったパイプオルガン。
現在でも現役で活躍している

まだ社会がざわついていたんですね。

そう、だから修練期終わって次の年にもまた色々な紛争や対立が中にあって。
我々も夜中に上智大学構内に行ったことありますよ。教室を守らねばっていう変な正義感があって。

学生たちが暴徒化していた?

大学側が反体制派と揉めてたんですよね。
私たちが関わってたスコラ哲学科も紛争に巻き込まれていて。
そのメンバーに神父や修道士になりたいという人たちがいたんだけど、
その半分くらいが反体制派、もう半分は体制派と真っ二つに分かれていた。
あの頃は第二バチカン公会議が開かれていた時期でしたから、教会も揺れてたんですよ。
だから、学長にも殴りかかるみたいな今では到底考えられないようなことが起きてた。
スコラ哲学科に属していた神父志望の人たちも動揺して、こんな教会ならばと辞めていく人も随分いた。
本当に大変でしたね。混沌としてましたね。
あの神父来ないなあって思ってたら、辞めましたっていう訳ですよ。
そういうものに揺れ動かされながらの神学校生活でしたね。
そういう調子だったから、自分はなんで神学院で勉強してるんだろうと思いつつも、今はこれしかないなって感じで。
神父に対する理想なんてのはほとんどなかったですね。
そんな中で哲学科を卒業して、中間期でサレジオ会のどこかの支部に行って実習(実地課程)をするところで、
一番最初に派遣されたのは東京サレジオ学園だったんです。自分がサレジオ学園の出身だっていうのもあったかもしれません。

その頃は学園の中にサレジオ会の支部(修道院)もあったんでしょうか?

ありましたね。
サレジオ学園の仕事が修道院の時間帯に合わせて動いていて、子どもたちもそれに合わせていた。
起床後に30分くらいミサがあって、信者の子や先生は参加する。
その間、早い時間のミサに預かった先生が他の子たちの自習を見る。そしてミサが終わったら食事。
学園の大方のことが修道院を中心に決まっていて、暦も教会暦が優先しているんですよね。
実地課程で1年間やってみて、まあハードな訳ですよね。自分も大変だし、子どもも大変。
だけど、自分が育ったところだから、一生懸命頑張ってやってたんですけど。
実地課程2年目は、宮崎の日向学院寮の舎監しゃ かんを任されました。
寮の子どもたちの面倒見つつ、学校で教えなさいという、社会福祉とは違う分野です。
どちらも経験させるって感じだったんですよね。宮崎に行ってみると、楽なこと。
サレジオ学園は60人くらいの中学生の面倒を見てたんだけど、中々言うこと聞かない訳ですよね。
それは良くない連中って意味ではなくて、あんなところに閉じ込められている訳ですよ。
敷地は広いと言っても、時間割でびっしり動かされてる訳だからね。そう言う意味ではキツキツな訳ですよ。
ところが、日向学院の方は中学1、2年のそれも60人くらいの面倒見るんですよね。
こちらは言うことは素直に聞くんですよ。「すごいね、この差は」って思った。あの時は本当にそう思いましたよね。

寮だから、各家庭で育ってから来てるんですよね。

ホームシックになる子もいたから、それは大変だったですよ。
突然どこか行っちゃったりしてね。ただ、移動手段がローカル線(JR日豊線)だけだから、乗った電車の時間が大体わかるんですよね。
えらく遠くまで行った子がいて、新潟県まで。何しに行ってんだ、そんな遠くまでってね(笑)。
そういうことが面白いと思えるのは、その頃は人生の体力エネルギーの一番頂点にあったような気がしてるんですよね。
サレジオ学園の仕事はビシッとやる仕事だったけれど、宮崎の学生相手の仕事はのんびりしてる。
結構のびのびと寮の子どもたちと色んなところに遊びに行ったりして。
今思うと、解放されて自分が楽しんでたなって記憶ですね。

その頃は日向学院も男子校男子寮でしたが、サレジオ学園と何が違ったのでしょうか。

まあ、あんまり叱ることがなかったんですよね。
かたやサレジオ学園の方は多かった(苦笑)。
で、1年経って帰ってきて、どうするかっていうと、当時大体は石神井しゃくじいの神学院に通うんです。
1、2年で神学課程の学士課程は終わって、普通は修士課程まで行くんですけど、
僕はその時、サレジオ学園での仕事をやるためには社会福祉の勉強をちゃんとしていた方がいいと言う気になってたんですよね。
気分よく働けるのは学校だったんですけど(笑)。
自分の将来決めるような場所を選ぶことになると、自分はそっちの方に行っちゃって。
大学の教授からは「この後、普通は修士課程を2年なんだけど、あんたはなんで違う方向に行くの?」って言われて。
「違う方向だと思うんですけど、私のいるサレジオ会の中には児童福祉の分野があって、その仕事をするためには社会福祉を学ぶ方がいいんじゃないか」と言ったんです。ちょうど上智大学の中に社会福祉学科というのができた年だったんです。
教授はネメシェギ神父さんだったんですけど「そう言うことなら、どうぞ頑張ってください」って言って。行くことを許してくれたんですね。社会福祉の勉強を1年から始めて、本当は3年で終わるつもりだったんですけど、なんだかんだで4年間かかっちゃったんですけどね。
勉強の間でサレジオ学園に行ったり、他の施設で働いたり、青少年福祉センターっていう下落合にある長谷場先生のところで働いて、聞き取りとかどんな仕事をしているかとか見させていただいて。
その後、社会福祉学科3年目のときに司祭に叙階されたんだけれども、それがなぜか3月31日に叙階式、4月1日に初ミサってことになって。
今思えば、なぜこんな切れ目に合わせるんだって思うんですけどね(笑)。自分でもよく分からないんですけどね(笑)。

叙階の日を自分で日程を決められるんですね。

まあ、相談しながらなんですけれども、その日がいいと自分で決めたんです。
なんか怪訝け げんな顔をされましたけれども、よく覚えていないですけど(笑)。
下井草教会で叙階されて、次の一年は勉強を続けながらいろんなところで話したり。その一年後にはサレジオ学園に就職。
最初はどうなるかいつまで働くかも何にも考えてなかったし、サレジオ学園がどういう変貌を遂げるかも分からなかった。
行って3年間くらいは擦ったもんだしながらなんとかやってました。
村上神父様が赴任されてきた頃に、修道院の時間割で子どもたちが動いているというのはおかしいよってことになってきたんですよね。
まずどうお世話するかについては、建物の都合があるからね。どうしようもないんですよ。
あとは建物の老朽化もあったから、壊して別のものを建てようってところまでは行ったんですけど、お金はない訳ですよね。
村上神父さんがそういう意味では、いい働きをしてくださった神父さんで。
日本でサレジオ会が貧しい子どもたちのお世話をするにあたってはどうしたらいいかと。
ヨーロッパではどういうことをしてるのかを見てきなさいと言われて、
私と鈴木正夫神父様と学園の担当者と設計事務所の方2人に来ていただいて、ドイツ、ベルギー、イタリアとヨーロッパを周ってきたんですね。

ヨーロッパのサレジオ会の児童福祉施設を見学された?

そう。見て周った中には当時のサレジオ学園と似てるっていうのもあったけど、子どもたちを外の学校に通わせてる。
それから60人とか大人数じゃなくて、十数人の単位で生活をしているというのがありました。
また、心理判定を行う児童相談所のような機能をサレジオ会がやってるところや、
障害者の施設とか見に行って、そういう細かい小さなグループでやることができるんだと知りました。
当時のサレジオ学園は集団が大きい。
これはサレジオ会の伝統なのかそれしかできないものなのかというのが、
当時サレジオ学園で働いていた私たちにとっては価値観に関わることだったんですよね。

根本の理念を確認できたと。

そう。今で言うと10数人も多いんですけど。
少数グループで生活できてるんだと言うことがわかった。
で、帰ってきて、じゃあ、どういう風な園を作りましょうかと。
子どもたちを世話するのにはどんな風な建物がいいかと喧々諤々けん けん がく がくで、大揺れに揺れてね。

全てサレジオ学園の中で話し合われたんですね。

村上神父様が連れてこられた坂倉建築研究所の方々が全部私たちの話を聞いて、一緒にヨーロッパに見に行って。
建築研究所の方が小出しに「こう言うのはどうですか?」って案を持ってくる訳ですよ。
建て替え案の会議を何十回もやりましたけどね。
どこかで決定しないと、となって7つの園舎に分ける案があった。
それまでは幼年部という小学校3年生くらいまでの子どもたちのグループと、
小学校高学年のグループ、中学校のグループ、高校生のグループの4つに分けることを考えていたんだけど、
それではやはり人数が多すぎるんですよね。
そうじゃないですよって言うことで7棟案、それも縦割りにすると。
職員配置は最初は4人だったんですよね。今は6〜7人ですね。
その案を見て「が〜ん」ときましたね。
自分たちだけで考えてたんじゃ、限界があったと。
だから、外部の専門家をきちんと入れて、ちゃんと説明できるプランを作ることが大事だと言うことをその時に学んだんですよね。
さらに言うと、子どもが全員男の子じゃないですか。だから、男性主導の養育になりがちな訳ですよ。
シスターとか一緒に入ってやっていても、細かいケアをやらなければいけないのを分かっていても、どっちかっていうとやらない(笑)。
だから、同年齢の大人数のグループから変わって、異年齢の小グループで子どもたちをケアするとき、
子どもたち自身もスタッフもびっくりした訳ですよね。みんなドキドキなんですよ、どうしたらいいんだろうと。
だけど慣れてくると、それが自然の普通の家庭であれば、兄弟関係の流れになるわけだから、
大きい子は小さい子の面倒を見、小さい子は大きいお兄ちゃんに甘えてと、融和ができるような関係なわけですよね。
同年齢の子だけだと、融和なんかなくて、競争です。共食いとかになるわけですよ。言葉はきついけど。
そういうことをこれまでやってたんだなと。
本当はもっともっと人間らしい子どもらしい生活のいろんなパターンがあっただろうに、
それが枠にガシャっと嵌められて、それ以外はダメとなってたわけですよ。
上の子とは接するな、下の子とは接するなとか、同じ学年で居なさいとなると、競争しかないんですよ。
建物を作ったときにそれを感じましたね。

学園にとってはすごく大きな転換だったと。

学園にとってもすごい大きな転換だったし、僕にとってもですよ。
最初ににれの家という園舎を担当したんですけど、そこには女性2人と私ともう1人男性の4人で世話したんですよね。
朝から晩まで大変ですよ。
あるとき、学芸大出身の若い女性で特別支援をしたいと勉強していた人がいて、
その人と一緒に組むことになって教わったことが一つあるんです。
常に個人を相手にして、その個人の必要とすることにできるだけ入り込もうとする、溶け込もうとする姿勢、それを教わった。
それまで私は中学生の60人ぐらいのグループの面倒を見ていた。
一人の子どもの今何を考えて、どんなことを悩んでるかっていうのを考えることすらできなかったと言ってもいいし、
しなかったんですよね。でも、その人がそうじゃなくて、一個人の希望を叶えるために色んなことを相談しながらやってた。
そうするとみんな自分の言うこと聞いてもらえるもんだから、落ち着くんですよ。
一人一人の希望を聞いていくというやり方があると感じたんです。個々人の心をケアしていくことが大事だと。
本人はそう思っていたかは別ですけど。自然にやっていたと思うんですけどね。
一番自分にとって影響を与えてくれたのは、その女性でしたね。一年間だけでしたけど。あとは都立の特別支援の学校で働くようになりました。
ほんとにその人に会えて今の私があるんだなとつくづく思います。
充分に学べたかどうかはわからないし、その人がそれを願っていたか、教えようと思っていたかもわからないけど。

サレジオ会員やサレジオ学園の職員の方にインタビューをした際、野口神父様のお名前が出てきたことがありました。
野口神父様がその女性に影響を受けたようにその方々も野口神父様に影響を受けたのだと感じました。
何か言葉で教えを受けたのではなく、自然にやっていることからそのまま学んだと。

僕にとってはその女性の生き方ややり方というのはね、大きな影響を与えたなあと思います。
施設長になると現場から離れるわけですけど、施設長になって2、3年くらいは寮長やりながら施設長も兼任でやってました。
忙しくて「今、朝? 昼?」みたいなことになってました(笑)。ちょうどその頃に被虐待児の問題が出てきた。
同じように接していても、思うとおりにいかない子が出てきた。
その子が悪いんじゃなくて、受けた影響なんですけど。
こちらのアプローチすることをことごとく跳ね返して、物は壊すし、途方に暮れたこともありましたよ。
このままじゃダメだ、病院に連れて行こうと思って、了解を得て、車に乗せて立川の総合病院に連れて行くんですけど、
車が停まった途端に、人のいるところで「ぎゃー!人殺し」とか叫ぶんですよね(笑)。
一回Uターンして学園に戻って仕切り直して行きましたけどね。
とにかく物は壊れる、ガラスは割れる、救急車にも何度乗ったことか。
施設長はその子どもの親権代行、親代わりなんですよ。
だからちょっと大きな事故とかあると、一緒についていかなくてはいけない。警察沙汰も一緒。
子どものことでの裁判も時々あって、労働組合の関係の裁判もあって。
そういう意味ではね、随分鍛えられた。
後半になってくると、「これは普通の神父では味わえない経験なんだなあ」と思い直すようにしましたね(笑)。
どこまでいろんなことを勉強するんだろうってね(笑)。

社会勉強の内容と数がただ者ではないですね(笑)。

そう、半端じゃない(笑)。
その途中でね、濱口神父様にも色々本当に助けてもらったね。裁判の時なんかはね。
僕は施設長だから、あんまり出ていって自分の一言で決まっちゃうようなことを言っちゃうと大変じゃないですか。
だから、2番手で副園長の濱口神父様が行ってね。持ち帰りますみたいな話ができるんですよ。
僕が行っちゃうと「あんた決めなさい」っていう話になっちゃうから、行かないんですけど。
僕としては居てくれるだけで本当に違いましたよ。

一人で背負うには責任が重すぎるんですね。一人間ですものね。

でもね、子どもたちとの生活は随分楽しいことがいっぱいあったね。
職員が「園長先生この子見ててくれますか」って子ども連れてきて、園長室で僕が子守をやってた。
僕は座っているだけですけど、子どもは棚から色んな物出してきて遊びまわって、
1時間くらいしたら「もう大丈夫?」って言って連れていく(笑)。
「ちょっとこの子落ち込んでるから、長野県のひじり山荘に連れて行ってくれますか?」って言われてね。
その日の夕方から1泊2日で急に車で行って。で、ものぐさの料理作ってね。
でも子どもは「美味しいね」って言ってんだけど、僕は「そうかな」って思ってるんです(大笑)。
そんなことは結構ありました。魚釣りに行ったり、ちょこちょこ一人で、一対一で出かけることがあった。
先程お話しした女性の子どものとの付き合い方と一緒ですね。
それが子どもにとっては普通だと思って続けてきたんですけどね。
そうすると、みんなの中にいるのと、一個人とで対応していくのとでは子どもの様子が全然違う。
だから、子どもはみんなそういう場を求めているんだろうなって。

自分のためだけにコミュニケーションをとってくれる人や時間は、子どもには必要ということですね。

本当はね、僕なんかより他の人ができるのが一番いいんだけど、
勤務シフトの都合だとか、きっとあったんだと思うけどね。

仕事ですからね。

僕にとっては仕事半分、遊び半分。一緒にいなきゃいけないっていう縛りはあったけどね。
あとは、鈴木勝重神父様がサレジオ学園で始められたことなんだけど、その頃は年末年始に帰省と言って一時的に親元に帰る期間があった。
中学3年生は高校受験があるから12月頃は帰らずに勉強してるんだけど、
中学2年生くらいになると親から離れたくて家にも帰らない子も多くなって。
その子達のことをどうしようかってことで大阪星光学院の山の家を借りて、妙高や黒姫の方にスキーに連れていくことになった。
鈴木勝重神父様に「ついてこいよ」って言われてついていくんだけど、
スキーなんかやったことないし、その頃は冬は大嫌いだったんですよ。寒いから。
その頃は今のような楽なスキー板とかなくて、板に紐がついててそれで足を縛って外れないようにする。
子どもも自分も下手くそだからすぐ転ぶじゃないですか。転んだらめんどくさいこと(笑)。。そういうのにずっと付き合ってて。
最初はイヤイヤでしたね。車で夜中連れていくから眠れないじゃないですか。
チェーンも当時のものは適当なもんだから途中でブチッとキレて、ガシャガシャなるから、タオルで結んで外れないようにして。
そんなことやってたんですよ(笑)。
だけど、少しずつ色んなものが進歩してきて、楽になってきましたけどね。
それがなぜよかったのかなっていうと、子どもたちは自信がつくんですよ。何をするにしてもね。僕はスキーができるよって。
高校に行ってもスキーができるってことをみんなの前で威張れるというか、ステータスというか。自信につながる。
だから、サレジオ学園は子どもたちに自信をつけさせてあげることが大事なんだなあと。
自信と経験は近いじゃないですか。経験しないと自信はつかないから。
そういう意味ではね、色々なところに連れて行こうと思ってました。
濱口神父様がジープ島っていう太平洋の真ん中あたりにある島に施設の子を何人か連れて行ってたね。
何もないところらしいんですよね。
また、濱口神父様は大型バス運転できるから、色んなところに連れて行ったりしてね。
濱口神父様はすごいですよ、北海道連れて行ったりしてね。鈴木正夫神父様も四国の方に連れて行ったりしてね。
僕は近いところをちまちま行ってました(笑)。

運転も大変ですよね。長距離は特に。

スキー行くって言っても、僕は独り身だし神父だからいいですよね。
だけどさ、ついてくる職員は、大変ですよ。女性職員とか。
お正月なんて世の中が休暇時期になぜ行かなきゃいけないの? なんて思ってるんじゃないかと。
それもついて行って自分の思い通りに滑るんじゃなくて、転んだ子を引き上げるそういう仕事だったりするわけでね。
でも、ほんとによく着いてきてくれてたなあって。
感謝しかないですよね。
僕自身は好きでやってたんでしょうね。それが良かったかなあって思ってね。

好きじゃないと、続けられないですよね。

そうだね〜。37年間だからね。
ずっと全力で飛ばしっきりみたいなね。

体力がないとできないですよね。

体力だけはあったような気がするなあ。

先程おっしゃってましたが、寝られない日もあったわけですよね。

子どもとの色んなトラブルといったらおかしいけど、苦しみ悩みを抱えてそれで発散してたということがあるんでしょうけど、
大人側が変わっていくべきだなあというのはありましたね。
大人が変われば、子どもも変わるんですよね。
子どもが変わるのが先っていうんじゃなくて、大人が変われば、子どもも分かる。
子どもというのは本物が分かる。何が大切か。
どんなに悪いっていうレッテル貼られた子でも、何が正しいというのは分かってるんですよ。
だけど、あらがって悪さをしちゃうというかね。
だから、ドン・ボスコという人も随分変わったと思うんですよ。若い頃と晩年になった時と。
変わってないとおかしいですよ。

物語や伝記には描かれないですけど。

聖堂後方に飾られたドン・ボスコの絵。

ルイジ・コモッロ*さんと出会って、穏やかな性格になるようにしなさいとか、そんな導きをされたわけでしょうから。
だけどその一回で分かったとは言えないでしょう。何度か「やっちゃった」みたいな失敗があると思うんですよね。
だからドン・ボスコは最初から聖人じゃなかったと思うし、自分の変革を遂げていくところに聖人の道があると思う。
「これじゃダメだ」っていうのは一生続くんでしょうけどね。

*ルイジ・コモッロ:ドン・ボスコ19歳の時の親友。身勝手な理由でコモッロに暴力を振るう同級生達をドン・ボスコがねじ伏せた時、コモッロは「君の怪力には恐れ入った。だけど、神様が君に腕力をくれたのは、仲間を張り倒すためではないんだよ」とドン・ボスコを諭した。

何かをきっかけに一瞬にして変わるというのが、ドラマティックで皆が好む展開ですが。

それは、きっかけはあると思うんですけど、急変して以後一切というのはね、あまり考えられない。
例えば自分が司祭じゃなくて、普通の家庭を持ってとかなってたらば、
今のこの年齢でこんな大事な仕事を任されるということはないだろうなって思うんですよ。
もうそろそろ引退して。
この近所でも同じ年齢ぐらいでもヨボヨボ歩いてるおじさんおばさんいっぱいいるんですよ。杖つきながらね。
僕もそれになりつつあるけど。
でも、この教会の責任をとってくださいと言われたり、
色んなところからあなたの経験でいいですから話してくださいと言われたり。こんな経験で役に立つのかと思うけど。
そんな人生は普通の家庭に入ってれば、なかったのかなと。
よっぽど出来のいい人だったら別だけど、どこにでもいるような人間の僕がね。
そんな気がするね。

貴重な経験をされているというのは伝わります。

子どものこととか、サレジオ学園の珍事件みたいな話したら、時間が足りなくなっちゃう(笑)。

どこかではお聞きしたいなって思います。

波乱万丈の人生を送りたければ、サレジオ会へどうぞ!
だって、自分からやろうと思うってことはある意味、自分の限界内でやろうとしてるってことですよね。
頭の中にそれしかないわけだから。
だけど、こういう仕事っていうのは、外からお願いされる事ばっかりじゃないですか。
あっちに行ってください、こっちに行ってくださいっていうのは。
だから、自分の限界を超えたところまで行かされることもあるわけだよね。
できないと断ることもできるけど、お願いされたら「分かりました」ということができる。
自分を高めさせてくれると言ったら、あれだけど、冒険ができるみたいな。人生皆冒険みたいなね。
「次、何があるんだろう」っていうね。「来年はどこに行かされるんだろう?」とか「どんな人と会うのかな」みたいなね。
意見が合う人ばかりじゃないでしょうからね。

神学生時代から続けている趣味の写真。
最近では風景写真に自分でみ言葉をレイアウト・デザインして教会の掲示板などで展示している

人生を冒険とか旅と捉えてる人にとっては、神父、修道士の人生はもってこいですね。

今のフランシスコ教皇様だってそうじゃない。アルゼンチンにいて、すぐ帰ってくるからねってつもりでローマに行って、
それで決まっちゃったらもう帰ってないわけでしょ。
すごい冒険ですよ。

自分が望む、望まないっていうことを遥かに超えた人生ですよね。
それは、野口神父様も同じですよね。

ちょっと教皇様とレベルが全然違うけど(大笑)。

神父の人生は一生ですからね。

ドン・ボスコも一緒だったでしょうからね。最後の最後まで。