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日本にまかれた種 〜日本のサレジオ会〜

JAPAN×SALESIAN since 1926

 学校・教会・活動グループなど、日本各地にサレジオの活動は広がっている。その種をまいたのは、1926年に日本にやって来たイタリア人の神父、ヴィンチェンツォ・チマッティと宣教師たちだ。
 チマッティ神父はイタリア・トリノの名門ヴァルサリチェ学院の校長として教え子から人気があり、恵まれた環境にいた。ヴァルサリチェ学院は当時、サレジオ会司祭をめざす修練者すべてを養成する神学校で、30年間ここで教師・校長を務めたチマッティ神父は今でも「世界中のサレジオ会宣教師の父」として慕われている。
 その彼自身が宣教師になりたいという少年の頃からの夢を実現するため、46歳の時その輝かしい地位を捨てて、貧しく困難な国、日本へと旅立った。
 人生の大転換となる冒険をしてまで、日本に渡ってきた宣教師たちの思いとは?

取材・文・写真:ドン・ボスコ社編集部
協力:チマッティ資料館
イラスト:TAKA
(2016年7月15発行「ドン・ボスコの風No.17より一部改変)


ヴィンチェンツォ・チマッティ神父
Vincenzo Cimatti
1879年イタリア・ファエンツァ生まれ。25歳でサレジオ会司祭となる。1926年46歳の時サレジオ会宣教師として初来日し、多くの日本人司祭・修道者を育成。音楽家としても900曲以上作曲している。1965年10月6日、86歳で帰天。白く長いひげとメガネが特徴。


チマッティ神父と仲間たち
日本での種まきの旅

2歳の時にドン・ボスコと出会い、10代の時に宣教師の話を聞いたヴィンチェンツォ・チマッティ少年は、いつか自分も宣教師になって遠く貧しい国に行きたいという夢を抱く。
名門校の校長を務めていた46歳の時チャンスが到来。ローマ教皇から日本宣教の命を受けた
サレジオ会は、チマッティ神父を団長とする9人の会員を日本へ派遣することを決定したのだ。

1925年、日本への宣教が決定
ローマ教皇からの命を受けたサレジオ会は、宣教師派遣50周年記念事業として日本への宣教師派遣を決定。日本宣教には精神・文化・学術面で優れた人物が求められ、宣教師派遣を志願していたチマッティ神父は才能・人格とも適材だった。

ジェノヴァ港を出発し南アジア回りで日本に向かったドイツの客船「フルダ号」

いざ日本へ船出!
1925年12月29日、チマッティ神父を団長とする9人のサレジオ会員がイタリア・ジェノヴァ港からフルダ号に乗船し日本へ出発。不安いっぱいの乗客たちだったが、チマッティ神父の明るい歌にのって踊り始め、すぐに打ち解けた仲間になった。

各国に向かうサレジオ会の宣教師たち。船上で

日本人の心との出会い
船上で初めて日本人の若者と出会う。毎日1、2時間の日本語教室をかって出てくれた彼は、後に一橋大学学長となる上原専禄うえ はら せん ろく氏であった。1926年2月8日、福岡・門司港に上陸。長崎でカトリック信徒のみならず神仏に深い信仰心をもつ日本人の姿に感嘆する。

中央が上原氏

1926-27年、「ヒゲのある小学生」になる
1926年2月16日、赴任地の宮崎教会に到着。前任者のパリ外国宣教会から1年間で任務を引き継ぐため、尋常小学校の国語や修身の教科書で必死に勉強して日本語を覚えた。翌年、サレジオ会員たちは宮崎・中津・大分の教会で働き始める。

チマッティ神父の漢字練習帳

1928年、出版事業スタート
読書欲が旺盛な日本人のため、来日2年後に大分で出版事業(現在のドン・ボスコ社)をスタート。マルジャリア神父は他の会員や信徒の協力を得て『ドン・ボスコ伝』や機関誌「ドン・ボスコ」(その後の「カトリック生活」)など次々と出版する。

機関誌「ドン・ボスコ」の創刊号

1929年、世界大恐慌、苦難の始まり
チマッティ神父はドン・ボスコの列福式と総会のためイタリアへ一時帰国。イタリア各地で日本を宣伝し宣教師を募集。翌年8人の神学生を連れて宮崎に戻るが、1929年9月に起こった世界大恐慌の影響で、日本での活動資金に戦後まで困窮し続けることになる。

サレジアン・シスターズが来日
チマッティ神父の要請もあり、サレジアン・シスターズの6人のシスターが来日。シスターも困窮した生活の中、教育・福祉事業を徐々に広げ、日本人会員を育てていく。

1930年、日本人司祭の養成スタート
サレジオ会だけでなく宮崎・大分の司祭を養成するため、中津で小神学校(12-18歳の司祭志願者の養成校)を開校。長崎など各地から生徒を集めたが、途中でやめてしまう生徒も多かった。

中津の小神学校の生徒と

1933年、東京下町の子どもと出会う
東京大司教から東京でも働くよう依頼され、三河島教会(荒川・足立)を引き受ける。下町の子どもたちに教会の運動場を開放し、教会学校を始める。

三河島教会の教会学校

1934年、東京で職業学校を開校
1934年、東京杉並に帝都育英工芸学校(現在のサレジオ工業高等専門学校)を開校。出版・印刷事業、修練院、神学校も同じ場所に移転した。

開校当時の育英工芸学校

1937年、イエスのカリタス修道女会が誕生
1932年、カヴォリ神父が身寄りのない高齢者や子どものために開設した宮崎の救護院で、マリア長船タキが働き始める。やがて協働者の輪が広がり、1937年、宮崎カリタス修道女会(現在のイエスのカリタス修道女会)が創立された。共に祈り、学び、貧しい人びとに奉仕する活動の輪は広がっていく。

1939-45年、戦時下の苦しみ
1939年9月、第二次世界大戦が開戦。日本でも外国人の行動が厳しく制限され、郵便はすべて検閲された。養成中のほとんどの日本人神学生が徴兵され20人近くが戦死。イタリアの本部との連絡も途絶え、人材も資金も無かったが、チマッティ神父は神に全幅の信頼を置き、日本での事業が継続されるよう覚悟を決めて働き続ける。

国民服姿の神学生たちと将校(育英工芸学校)

1944年、初の日本人サレジオ会司祭が誕生!
中津に小神学校ができて14年、日本人のサレジオ会員から初めてマルチノ秋元保夫神父が叙階された。多くの仲間を失う中、厳しい養成の道をくぐり抜けた日本人司祭の誕生は、チマッティ神父たちの大きな慰め、喜びとなった。

日本人初のサレジオ会司祭、マルチノ秋元保夫神父

1945-46年、終戦。ほぼゼロからの再建
1945年8月15日、聖母被昇天の祭日に、日本は連合軍に無条件降伏した。別府を除きサレジオ会の九州の事業はほぼ全壊。チマッティ神父は九州と東京を何度も往復して駆けつけ、1年間ですべての事業を再建した。再建や新事業設立には米軍のカトリック信徒が尽力した。

1946年、戦災孤児を救うために
戦災孤児の救済のため、中津ドン・ボスコ学園(現在の聖ヨゼフ寮)と、東京サレジオ学園の2つの児童養護施設を設立(現在のサレジオ小学校・中学校も併設)。サレジアン・シスターズも赤羽に土地を購入し、星美ホーム・星美学園の建設に取りかかる。

東京サレジオ学園初代園長のクロドヴェオ・タシナリ神父

1946年〜、日本の未来を担う青少年のために
戦後の貧しい日本で、青少年が心身とも豊かに成長できるよう、各地に学校を開設。1946年、宮崎小神学校の地に日向中学校(現在の日向学院)を創立。1950年、大阪中心部に大阪星光学院を創立。1960年、東京目黒に目黒サレジオ中学校(現在は横浜にあるサレジオ学院)を創立した。

日向学院
大阪星光学院
サレジオ学院

地域の人びと・子どものために
戦前から九州・東京各地の教会を受け持ち、地域の子どものため教会学校や幼稚園・保育園を運営。1950年、東京調布にサレジオ神学院が移転し、ユースセンターも始まる。現在、サレジオ会が受け持つ教会は13拠点。

まかれた種は今…
1965年10月6日、チマッティ神父は86歳で帰天。病気で寝たきりになっても「私の仕事は祈ること」と、人びと、教え子、会員のために生涯祈り続けた。神に全幅の信頼を寄せて日本にまかれた種は今、サレジオ家族8グループ、児童福祉19事業所、学校教育18校・31園、医療・高齢者福祉8事業所、出版事業、ボランティア活動、修道院・神学院99支部などに広がり、今日も親しみをもって、人びとに生きる希望を伝えている。

30年勤めた職場を離れて、言葉も知らない国に旅立ち、残りの生涯すべてをささげて仕事をする。この決断の根っこには、少年の頃からの大きな夢と神への厚い信頼があった。チマッティ神父たちが日本でまいた種は、各地で芽生え、地域や社会に豊かな人材を送り出してきた。そして今、彼らの夢と思いを受け継いで、私たちが種をまいていく番である。