信念とやさしさをもって生きるチマッティ神父の3つの秘けつ
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文化の違い、戦争や経済的困窮などあらゆる困難を乗り越えて、
日本によろこびの種をまき続けてきたチマッティ神父と仲間たち。
彼らの働きがあったからこそ、今わたしたちがここにいる。
信念とやさしさをもって生きるチマッティ神父の3つの秘けつを紹介しよう。
1. 親しみやすい正直者
「優しすぎる」校長先生
人に何かを頼むとき、高圧的な態度を取ってしまうことはありませんか?
ほがらかで、生徒と友達のようにすぐ親しくなるチマッティ神父は、人に命令することがありませんでした。生徒に対しても穏やかに「お願い」するので、誰も断れません。生徒は過ちを犯すとチマッティ神父が深く悲しむので、自分も悲しい気持ちになり、自ら回心していました。
どんな人も受け入れて友達に!
チマッティ神父は来日してすぐ、新聞記者や医者・地元の有力者と知り合いになるなど、どんな人も受け入れ、積極的に友達になりました。地域の子どもが集まるように教会の庭を運動場に作り変えて遊んだり、小学校の教科書にある詩に曲を付けて、子どもたちと一緒に歌ったりして友達になる。すると親たちも子どもについてくるのです。
同じ考えをもつ仲良しグループで楽しく過ごすことばかりではなく、彼のようにどんな考えの人をも受け入れる寛容な心と、外に出向く勇気を持つこと。そうすると、あなたの世界が大きく広がっていくかもしれません。
正直に、謙遜に人と付き合う
チマッティ神父は、どんな人とも自然体で正直に付き合う人でした。誰とでも差別なく対等に、ありのままの自分で、友達のように付き合いたかったのです。
校長や管区長など「人の上に立つ」責任ある立場にあっても、チマッティ神父はいつも謙遜な態度で接することを忘れませんでした。
2. よろこびのうちに働く
最も貧しく、困難な人びとのために働きたい!
もし、多忙な日々の中で働く目的を見失っているならば、幼い頃を振り返ってみるといいかもしれません。そのとき抱いていた思いが、今の自分にヒントを与えてくれることがあります。
イタリア・ファエンツァの村でいちばん貧しい家庭に生まれたチマッティ神父は、名門校の校長よりも、宣教師として働くことが中学生の頃からの夢でした。46歳にして宣教師となるまで、夢を描き始めてから30年もかかりましたが、彼がイタリアで身に付けた教育者・生物学者・音楽家としての優れた才能は日本で大いに役立ちました。
素直に心を開く
チマッティ神父たち宣教師は来日後すぐ長崎の大浦天主堂に行き、聖堂の聖母像を見て、「扶助者聖マリアが先に来ていた!」と言って心からの感動を味わいました。また、日本人の信徒や子どもたちの信心深さにも、尊敬の念を抱きました。
出会う相手や起こる出来事に素直に心を開いて、尊敬や驚きの心をもつこと。そうすれば、日々の生活や仕事が、感動やよろこびで満たされていくことでしょう。
3. 神の愛のうちに生きる
神に全幅の信頼を置いて
ときには心配事に押しつぶされそうになることもありますよね。チマッティ神父も不安のなかでの生活を余儀なくされてきました。たとえば、1937年、イタリアの本部から視察者が来た時、宣教活動を充実させるために必要な人材と資金の援助を訴えますが、現状の厳しさを理解されませんでした。結果として、人材も資金もないまま、戦時下の統制が厳しくなり本部との連絡が途絶えてしまいます。「気が狂ってしまう。おぼれそう」と嘆いていたチマッティ神父ですが、神の愛に全幅の信頼を置いて、日本での事業が継続されるよう覚悟を決めて働き続けたのです。
私たちも困難に直面したとき、神は何を望んでおられるのか、祈りのうちに問いかけましょう。神は共にいて、あなたを励まし、導いてくれるでしょう。
音楽をとおして伝える愛
人に何かを伝えるとき、表情や言葉、ちょっとしたしぐさなど、いろいろな方法があります。チマッティ神父が得意とした一つの方法は、音楽でした。
来日後まもなく出会った駐日教皇大使が彼の音楽に驚き、鹿児島で開催されるアシジの聖フランシスコ帰天700周年記念行事での演奏を依頼。これを皮切りに日本全国2000回におよぶ巡業コンサートを行いました。「音符一つ一つをとおして、主のため、主とともに愛を表すことができるのです」と語るように、彼がこのコンサートで表現し続けたことは、神と人びとへの愛でした。