地獄変
生きてるやつが全員馬鹿だから早く死にたいし 死にたい言うのもキモイから黙って死ねって感じなんだが、そういうのはやめて欲しいと人に言ってる手前 結局死にきれないし、ネコちゃんを飼っているのでネコちゃんが生きてる間は自殺しないって決めたから死んではいけない
そもそも死ぬ、という行為に美徳を感じるようになったのは何時からの話か?
中学1.2辺りは死にたいと思ったことがなかった気がする。そういう人を見る度に 「大変だなあ」「辛いんだなあ」と思う気持ちはあっても理解はない自分がいた
部活に来れなくなったチームメイトが校舎裏で泣きながら小さくうずくまってるのを、「部活行こーよ」「泣いてても始まんないし」って声掛けて、自分がいい人で善人なんだと信じ込んでた。いつから私も学校に行けなくなったのか
ひとつの原因として、インターネットの存在は大きかったと思う。インターネットミーム「自殺」「自傷」この存在ってデカくて、何時だか歌舞伎町で飛び降りが多発した時も皆、Twitterを見て、又は自殺の記事を見て相次いでいたように思えてならない。つまり、「人がやってて、尚且つ注目され、悲しんでもらえる、物語の主人公になれる」絶対的パワーがある。それほど「死ぬ」という事は生き物にとって大きな出来事だからだ。
只、なんとなく生きていく事への美徳があれば なんとなく生きていく事へのぼんやりとした不安が自殺や死にたいという希死念慮に繋がることもある。
死にたいに理由は無くていいが、生きるためには理由が必要だから。
早朝の5時に書きなぐる内容ではなかったので 駄文として置いておきます。私の文書を誰かが見ているというのは、私にとって生きるための一抹の理由になり得るので。