不幸になるという幸福
皆は「破滅願望」なるものを自覚しているだろうか。
いやいやw私はないよ〜って人、そんなことは無い、人は必ず多かれ少なかれ、持っているはずだ
悲劇のヒロインは魅力的かつ常に物語の主役なのである
言い方は悪いが、辛い、苦しい、悲しい思いをしている自分に陶酔するのは悪いことではない、(私は恥ずかしいが……)もちろん、それが他人に迷惑をかけなければという前提の元の話だ
人一倍苦しくて辛くて息苦しく重い気持ちになりたいのである、それが自罰だから。
誰でも失敗した時は「罰」を求める。多かれ少なかれそうだと私は思う。理由としては、罰があること=自分が許される、救済されること、に繋がるからだ。
私達はそのサイクルをパブロフの犬の如く条件反射で覚えてしまい、なんの意味もない自罰的行為を求める事がある。実際に私がそうだと思う。
こんなに苦しい、こんなに重く辛い気持ちになったんだから、周りは私を許容してくれる。私は悲劇のヒロインであり、既に罰を受けている存在だから。
そんな勝手な思いが、この破滅願望を呼び寄せているに違いない……
しかし現実はメンヘラ、狂人、良くて精神病者と他人の目に映るばかりで、思い描いた理想がそんな事で手に入るわけが無い。そしてまたもっと過激な自罰行為へ移る。この行為が他人頼りで発動していると、もう自覚するまで抜け出すことが出来ないので大変である。
この行為が許されるのは、自分で自分の気持ちを暗くして他人に迷惑をかけないドマゾタイプのみ、ということになる。(最悪な気持ちになった)
現実世界では、どれほど人より苦労して努力し、辛い思いをした所で人より優れているということは保証できない。どれだけ練習しても才能のある人間には勝てない。そんなこともある。
これはめちゃくちゃ悲しいことで、私自身も努力したらした分だけ「目に見える成果」を与えた方が人間は正しく育つと思う……
ただ、現実世界がそうでない限りは 楽しいこと、楽しい人、嬉しいこと嬉しいものしか許容しない事にした。
結局の所、残念なことに自罰的破滅願望は報われる事がないのだ……
なら、楽しいこと嬉しいことをして、ラッキーパンチぐらいで偶に人に褒められたり、それこそ目に見える成果をあげた方が楽だし楽しい人生になるというものである。