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小説「ある朝の目覚め」第二章
沢山の女の小人たちがテーブルを囲んで座っている。テーブルの上には小さな豆のようなものがたくさん広げられている。小人たちはそれらを手で確認しているようだ。そして何か気になる豆を見つけると手に取りそれをテーブルの下に落とす。豆は甲高い音を立てて床を転がっていく。なぜだろう。その音はわたしの下腹部に響き、チリチリとした痛みが伝わってくる。小人たちが豆を次々とテーブルの下に落とすと、沢山の豆が床の上を転がり、わたしの下腹部に連続した痛みが続く。その痛みに我慢できなくなったところで目が覚めた。そうか、生理が始まったのだ。目覚まし時計を確認すると、アラームの鳴る時刻より30分くらい早い。わたしは気にしないでそのまま起きることにした。
土曜の朝。昨夜のうちにクローゼットから出して寝室の椅子の上に重ねておいた服を身に着ける。柔らかい素材の長袖シャツを重ね着し、下腹部の痛みを刺激しないようウエストのゆったりしたコットンのパンツに足を通し、フードのついたパーカーを羽織る。足元が冷えないように厚手のソックスを履く。服装全体をモノトーンの色合いにまとめて落ち着いた雰囲気を出す。わたしは、身支度をし朝食を済ませる。
今日は外出の予定はない。わたしは、週に一度くらいは化粧しないで肌を休めることにしている。日焼け止めになり薄化粧効果のある乳液を塗るだけで済ませた。トンカビーンズの甘い香りを着る。休日は甘い香りを身にまとい気持ちを落ち着けるのが好きだ。
わたしは、週末にだけ行うご褒美の習慣を始める。まず電子ケトルにたっぷりの水を入れて湯を沸かす。棚からガラス製のピッチャーを取り出す。上部が円錐形になっており、専用のストッパーを乗せられる特別な形状だ。引き出しから紙フィルターを取り出し、端を折ってから円錐形に広げてストッパーに被せる。冷凍庫に保存しておいたコーヒー豆を取り出してフィルターに移していく。豆は既に挽いてある。スターボックス・カフェで販売される季節ごとに変わる豆の一つで、コロンビアの信頼ある生産者の名前で呼ばれる豆だ。わたしはこの豆の口当たりの良いまろやかなコクを好む。わたしは、豆の油分から発せられるチーズのような香りを楽しみながら、湯が沸くのを待つ。
ケトルから発せられる水の沸騰する音を確認し、ケトルのスイッチを切る。少し待って湯を冷ましてからケトルを手に取る。このケトルは注ぎ口が細くなっている。わたしはケトルを傾け、少しずつ円を描きながら、コーヒーに湯を注ぐ。コーヒー粉は湯に反応してぷくぷくと膨らんでくる。少しずつ香りが変化する。少し待ってコーヒー粉を十分蒸らしてから、また湯を注ぐ。ゆっくりと注ぎ、フィルターからコーヒーが落ちるのを眺めて、また湯を注ぐ。わたしはコーヒーの香りの変化を感じながら、湯を注ぎ続ける。すべての湯を注ぎ終える頃には、なぜかわたしの気持ちは静かに落ち着いている。ストッパーと紙フィルターを外し、シンクに置く。ピッチャーとグラスマグを持ってダイニングテーブルに移動する。グラスマグにコーヒーを注ぐ。マグを手にとり、光に透かしてコーヒーの色合いを確認する。コーヒーの香りを楽しみ、丁寧に息を吹きかけて冷ましながらわたしはコーヒーを口に含む。
グラスマグのコーヒーを三分の一ほど飲んだところで、わたしはダイニングテーブルの上に置いておいたノートと万年筆を手に取る。今朝起きてからここまでの出来事をノートに書きながらコーヒーを飲む。わたしはふと、今朝の夢を思い返す。昨日と今朝の夢は続き物のようだった。これまでそのような夢は見たことがなかった。この二日間の夢には何か意味があるのだろうか。ノートに夢を記録することは、わたしはこれまでしてこなかった。深く考えずに昨日と今朝の夢の内容を思い出し、それを簡単にノートに記録した。ちょうど書き終えたところで、テーブルの上に置いたスマホが振動しだした。スマホを手に取り、かけてきた人を確認する。母のよし子からだった。わたしは緑の丸をタップし、話し始める。
「はい、あや子です」「おはよう。あや子。朝早くから電話してしまってすまないね。いまちょっと良いかい?」「ええ、大丈夫よ」「少し先の話なんだけどね。五月のゴールデンウイークの五連休の真ん中は子どもの日だろう?文彦が家族連れでのんびり遊びに来ると聞いてね。それなら和彦の誕生日も近いし、子どもの日のお祝いと誕生祝いを一緒にやろうと思ったんだよ」「それは素敵ね」「そうだろう。良かったらあや子も一緒にと思ってね」
母のよし子は少しせっかちで早口な人だ。近況の確認も無くいきなり要件を話し始める。わたしは、母の様子を懐かしく思いながら、五才年上の兄の文彦の顔と、文彦の長男でわたしの甥に当たる和彦の顔を思い出した。最後に和彦に会った時はまだよちよち歩きの頃だったか。いまはもうだいぶしっかり歩いていることだろう。わたしは、少し考えてからこう答える。
「もちろん参加するわ。子どもの日の昼前にそちらに帰ってその日の晩は泊まって、次の日こちらに戻るのでも構わない?」「もちろん構わないよ。あんたが家に帰って来るのもだいぶ久しぶりだから、お父さんも喜ぶだろうよ」「そうね。今年のゴールデンウイークは行動制限も無さそうだから久しぶりに家に帰れそうね」
わたしは、年に一度は実家に顔を出すようにしていたけれども、数年来流行している新型感染症による外出自粛の流れもあり、ここ数年は実家への帰省も控えていた。母の嬉しそうな様子が感じられて、わたしも気分が良くなる。ここでやっと母は近況を話し始めた。父の智彦の健康状態について。母の地域ボランティア活動での出来事について。甥の和彦の性格について。
「文彦の子なのに、和彦はちょっと引っ込み思案みたいでねぇ。保育園でもちょっと苦労しているようなんだよ。あんたの子どもの頃もそんな感じだったから、そのうち慣れてくるとは思うけどねぇ。全く誰に似たんだろうねぇ」母はそんなことを言った。
わたしは確かに小さい頃は人見知りをする性格で、友達を作るのに苦労した覚えがある。そんなわたしでも、大人になれば営業の仕事ができるくらいに人慣れするのだ。いまの時点でそこまで気にすることはないだろう。わたしはそのようなことを母に話した。
「そうだねぇ。昔のあんたの性格を考えると営業の仕事で活躍してるなんて驚きだよ。あの片桐さんといういい上司のおかげかい?」急に母は話を変えてきた。忘れていた記憶が突然に頭の中に浮かび上がり、わたしは少し混乱した。片桐裕司。わたしの元上司で恋人だった男。片桐と別れたのはいつのことだったか。昨年の十月のあの人の異動で決定的に別れたのだった。そうか、もう少しで半年が経つのか。わたしが片桐のことを思い出していた時間はほんの数秒だったと思う。その様子から母は何かを察したのだろう。
「長話をしてしまってすまなかったね。ゴールデンウイークは楽しみにしているよ。また近くなったら、詳しい予定を教えておくれ。それじゃあまた」「ええ。こちらこそ誘ってくれてありがとう。みんなに会えるのを楽しみにしてるわ」
母は電話を切った。わたしは、母には片桐と別れたことは伝えたものの、その後のことは何も話していなかった。わたしが、一瞬固まってしまった様子から、まだ触れない方が良いと察してくれたのだろう。母は、せっかちではあるけれど、頭の回転が速く察しの良い人だ。わたしは、母の気遣いに感謝した。そうか、わたしはこの秋と冬の間ずっと、片桐とのことを頭の奥にしまい込んで考えることを止めていたのだ。
わたしは、一息ついてから少し冷えたコーヒーを飲み干す。ノートに先ほどの母との会話を記録していく。わたしは、ページを捲り新しいページの上部に「片桐裕司」と書いて下線を引く。いまはまだこの記述だけで良い。時間をかけて片桐との出来事を振り返っていこう。わたしは、万年筆のキャップを締めて、ノートを閉じる。腕を上にあげて大きく身体を伸ばす。わたしは立ち上がると、シンクでコーヒー用具一式を洗って片付ける。わたしの土曜は、掃除と洗濯の日だ。
わたしは、キッチンの換気扇を回し、寝室のドアと部屋の窓を大きく開ける。埃取り用の柄のついたワイパーで家具の上の埃を拭き取っていく。床をフローリング用のワイパーのついたクロスで拭いていく。掃除機でダイニングテーブルの下に敷いているラグの埃を吸い取る。粘着テープのコロコロで抜け毛などを取っていく。ベランダにおいた生ごみと各部屋のごみ箱の中身を袋にまとめて、階下のダストボックスに出してくる。
次は水回りだ。電子レンジの扉を開けて、内側を湿らせたペーパーで拭く。キッチンのシンクを洗う。シンクの排水溝に除菌スプレーをかける。洗面所のシンクを洗う。バスタブに洗剤をスプレーしてしばらくそのままにする。トイレの座面を丁寧にペーパーでふき取る。便器にトイレ用洗剤をかけてブラシで縁の内側の汚れを擦り、水を流す。生理用品を補充する。バスタブと洗い場をシャワーで洗い流す。排水溝に溜まった汚れをペーパーでふき取る。バスタブに湯を張る。キッチンに戻りシンクの除菌スプレーの後を水で洗い流す。ふう。今日の掃除はこんなところだろうか。
わたしは寝室の窓を閉めてカーテンをかける。寝室の枕カバーとベッドシーツを交換する。寝具とパジャマを洗濯ネットに入れて、洗濯機の前に移動しドラムの中に淹れる。わたしは、入浴の準備をして服を脱ぎ、洗濯ネットに入れてドラムに入れる。洗濯かごには、シーツやタオル類が入れてある。一回目の洗濯は洋服の類を洗う。部屋干し用のジェルボール洗剤をドラムの底に入れて、洗濯機を回す。
わたしはふと、洗面所の鏡に映った自分の顔に目をとめる。しばらく自分の顔を眺める。少し小さめの目鼻立ち、きめの細やかな肌、整った口元。全体としては地味な顔立ちだと思う。しかし化粧を装い戦闘準備を済ませれば、わたしは顔を上げて人前に立つことができる。悪くない。今朝の電話で久しぶりに母と話をしたからだろうか。わたしは、このような容姿に恵まれたことを両親に感謝した。
バスタブに湯が溜まったことを示すメロディーが流れる。わたしは、湯船にトンカビーンズの香水を数回プッシュする。香りを鼻腔に感じて気持ちを和らげる。浴室に入りシャワーを浴びてシャンプーで髪を洗う。指先で頭皮を念入りにマッサージして頭や顔の緊張を解す。シャワーで洗い流してからヘアパックを髪になじませる。あごのラインに切り揃えたショートボブもだいぶ伸びてきている。そろそろ美容院に行くタイミングだ。わたしは、ボディシャンプーを泡立てて身体を洗いシャワーで流す。マッサージジェルを手に取り、ふくらはぎから足裏までを軽くマッサージしてむくみを和らげる。足のマッサージジェルと髪のヘアパックを洗い流す。
わたしは、ゆっくりと湯船に浸かる。だんだんとお腹が温まり生理痛が落ち着いてくる。わたしは、先ほど洗面所の鏡で見た自分の顔をもう一度思い浮かべる。わたしは、両親から様々なものを受け継いだ。この両親からの贈り物を誰かに受け渡すことはできるのだろうか。片桐裕司。わたしとの結婚を望んだ人。わたしは、なぜ片桐を選ぶことが出来なかったのだろうか。もしかしたら、片桐との間に子どもを設ける可能性もあっただろう。
両親は、和彦という孫の顔を見たこともあり、わたしに対して結婚や子どもの話はあまりしてこなくなった。心配はしているのだろうけれども、表立ってそれを口にしないでいてくれる。それはわたしにとってとてもありがたいことだ。
わたしはお腹を擦る。湯に浸かって身体を温めたからか生理痛はだいぶ軽くなった。ふと、Manaという音の名前のバリスタの顔を思い出す。彼女の生理周期はいつだろうか。わたしと同じように生理痛に悩まされているのだろうか。生理の時の辛さは人によって様々だと聞く。わたしは、彼女の生理が辛くないと良いなとぼんやり思った。
少しのぼせてきた。わたしは、浴槽の栓を抜き、シャワーで汗を流して浴室から出る。髪と身体をタオルで拭き、下着を身に着け、フェイスパックを袋から出して美容液のしみ込んだシートを顔に張り付ける。着替えを身に着ける。軽くドライヤーで髪を乾かしブローする。火照った頬に冷たいシートが心地よい。髪や肌の調子を維持することは戦闘服を活かすことにも繋がる。平日は慌ただしい。せめて休日だけでも丁寧にケアしてあげたい。
湯の流れ出た浴槽を軽くシャワーで洗い流し、排水溝の汚れをペーパーでふき取る。その頃には洗濯も終わっている。洗濯物を取り出し、浴室のポールにハンガーで吊るしていく。小物はピンチハンガーに吊るす。浴室換気乾燥機のスイッチを入れて、洗濯物を室内干しする。洗濯かごの洗い物を洗濯機のドラムに入れて二回目の洗濯をする。フェイスパックを剥がして捨てる。
わたしは、ダイニングテーブルの椅子に身体を預けて、湯上りの心地よい気だるさを楽しむ。春の明るい陽射しが差し込んできて気持ちが明るくなる。同時にお腹が減ってきたのを感じる。そろそろ昼食の時間だ。
わたしは、昼食の用意をする。土曜は食材がほとんど切れてしまっている。わたしは、冷凍庫からシーフードミックスを取り出し、袋のまま流水を掛けて解凍する。冷蔵庫からパウチされたポテトサラダを取り出し皿に盛る。缶詰のトマトソースを取り出す。湯を沸かす。シーフードを炒めてトマトソースを絡めてソースを作る。湯が沸くと軽く塩を入れてパスタを茹でる。茹で上がったパスタとソースを絡めて出来上がり。このシーフードとトマトソースのペスカトーレパスタはわたしのお気に入りの料理の一つだ。
わたしは、のんびりと昼食を摂り、後片付けをする。コーヒーを淹れてゆっくり飲む。飲み終えた後、洗濯機から二回目の洗濯物を取り出し、浴室に干していく。部屋に戻り爪のケアをする。マニキュアが乾くまでダイニングテーブルの椅子で少し休憩する。コーヒーのカフェインが効いてきて、わたしは午後の眠気から解放される。生理痛は我慢できない程ではない。今日は痛み止めは必要なさそうだ。
土曜の午後は、その時々によって時間は異なるけれど、ノートを読み返して一週間を振り返り翌週の準備をすることにしている。わたしは、万年筆とノートを手に取り、簡単に一週間のノートを読み返す。既に毎日の振り返りで追記や下線を引いてあるので、注目の必要な個所は少ない。さらっと眺めてから、気になったことや翌週に対応の必要なことを書き出していく。来週は仕事と生理が重なる。体調を維持することが大事になってくる。
わたしは、ふと手元に目を落とす。万年筆のキャップの頭にペリカンの装飾がついている。それを見てわたしは、遠い昔のような記憶を思い出した。去年の四月。わたしの三十一才の誕生日にこの万年筆を贈ってくれた片桐裕司のことを。
片桐裕司とは一昨年の八月に親しくなった。真夏の暑い盛りの日曜の夕方。職場により納涼とオリンピック観戦を兼ねて社屋ビルの屋上で催されたイベントで、彼と長話をして意気投合したのだった。わたしはオリンピックにはさほど興味はなかったけれども、長らく続く感染症対策の行動制限により、人と触れ合いたいという気持ちが出てきていたのだろう。この街は海が近く屋上は風が強かった。感染症のワクチン接種も済ませている。わたしにしては珍しく、人恋しい気持ちを感じながら職場のイベントに足を運んだ。
わたしは、グレーのワイドパンツに淡いサックスブルーのトップスを合わせて涼し気な印象の服装にして、休日用の小さなビジネスバッグを持って会場に向かった。会場はそれなりの人出ではあったけれども、程よい距離を保ちながら話をできる雰囲気だった。わたしは、そのことにホッとして顔見知りの同僚の輪に加わった。
わたしは、アルコールを口にしながら同僚たちと近況を共有しあって、久しぶりの気兼ねのない会話を楽しんだ。そのうち、わたしは酔いを感じ始める。わたしは、下戸ではないもののアルコールに強いという程でもない。それに話に熱中し過ぎると会話の情報量に圧倒されて、わたしは自分を見失ってしまうことがある。そろそろ休憩の必要な頃だと判断し、さりげなく人の輪から離れて壁際に移動した。
深呼吸し息を落ち着かせるとわたしはバッグの中からノートと万年筆を取り出し、これまでの会話の中で気になったことを思い出し、単語の羅列のような走り書きのメモを書きだしていった。これまでの経験から、わたしは走り書きのメモからでもその時の会話を思い出すことが出来ることを知っていた。そしてわたしの頭の中の気になっていることを頭の外に記録することで、わたしの頭の中のざわざわと揺れ動いている部分が静かになるのを感じる。わたしは一通り書き終えると万年筆のキャップを締めて、顔を上げて辺りを見渡した。
同じ壁際の少し離れたところから、誰かがわたしを眺めていた。視線が合うとその人はゆっくりとわたしの方に近づいてきた。「こんな賑やかなイベントの最中にも、与田さんはノートを書くんだね」それは上司の片桐裕司の声だった。「誰かと思ったら片桐さんだったんですね。お疲れ様です」「与田さん、お疲れ様。今夜は涼し気な装いだね」「ありがとうございます。せっかくの納涼のイベントですから、涼し気な印象を意識して選びました。気づいてくださって嬉しいです」「与田さんの雰囲気とよく合っていて似合っているよ。ところでさっきは一体何を書いていたんだい?」わたしはそう問われて少し迷ったものの、片桐になら正直に話しても良いと考え、こういう大人数の場におけるわたしのノート書きの大切さについて説明した。
「なるほどね」そう呟くと片桐はスラックスの後ろに手をやり、ポケットから何かを取り出した。「僕も与田さんと似たようなことをしているよ。僕の場合は、与田さんよりも更に小さいものなんだけどね」そういって片桐は、A七サイズの小さなメモ用紙の束と革製のホルダーを組合せたものを見せてくれた。「僕も与田さんと同じように一度に沢山の情報を吸収することは苦手なんだ。だからこのジョッターという小さなメモ用紙の束を常に持ち歩いていて、人と話す時は気になったことをすぐにメモに書き出すようにしている」片桐はそう言いながら、ジョッターに何かを書きだした。恐らくいまのわたし達の会話をメモしているのだろう。「そうだったんですね。片桐さんとこんなに近くでお話したことは無かったので目の前で見るのは初めてですが、たまに何かお手元のメモに記録を取っていらっしゃるのを遠くから拝見して気になっていました」「気づいていてくれたんだね。僕も与田さんが営業会議の際に、熱心にノートにメモを取っている様子を見て気になっていたんだよ」
その後わたし達は、お互いの記録したものを見せ合いながら、ノートやジョッターをどのように使っているか、どのような時にどのような記録を取るか、その記録をあとでどのように活用しているかなどについて、熱心に共有しあった。そして片桐はこう提案したのだった。「良かったら次の週末に、文房具屋さんを一緒に回らないかい?僕は、こうやってノートや筆記用具について話の出来る友人が欲しかったんだ」わたしは、すぐに肯定の返事を返した。
わたしにとってもノート書きについて相談できる人がいると心強い。片桐は仕事のできる人だから、わたしとは別のアプローチでも色々とノートを活用しているようだった。それを学ばせて貰えるのは願ってもないことだった。わたし達の関係はこうして始まり、その信頼関係が恋愛関係に変わるのはあっという間のことだった。毎週末に買い物と食事のデートを重ね、八月の最終週の土曜の夜に片桐から告白され、わたし達は交際を始めた。
わたしは、そこでふと我に返った。もう陽射しがだいぶ傾いている。洗濯物を取り込む時間だ。わたしは、思いもよらず長い回想になってしまったことに驚きつつも、忘れていた記憶を呼び覚ますことが出来て良かったとも思った。わたしは、思い出した記憶のことを簡単にノートに記録した。
浴室に干したままになっていた洗濯物を取り込む。アイロンを掛けるものは後に回し、それ以外のものをたたんで所定の場所にしまう。先週の水曜の夜に洗濯したシャツはアイロンは掛けずにしまっておいた。わたしは、一週間分のシャツのアイロンを掛ける。ダイニングテーブルにアイロンマットを敷いて、シャツに霧吹きをかけて湿らせて、その上に当て布をしてアイロンをプレスしてしわを伸ばしていく。襟元と袖を伸ばしてから、両肩を伸ばし、前身頃と後身頃を伸ばす。一枚一枚のシャツに先週の感謝と次回もよろしくお願いしますという気持ちを込めてアイロンをプレスしていく。わたしにとって、アイロン掛けは戦闘服をケアする大切な行為の一つだ。
全てのシャツにアイロンをかけ終わる頃には、春の日はもう落ちている。わたしは、夕飯を作りゆっくり食べてから片付ける。ダイニングテーブルの椅子に座り、ノートを広げて今日一日のメモを読み返す。午後に裕司さんとの出来事を思い返せて良かった。この天冠にペリカンの模様を描いた万年筆も、あの人から贈られてもう少しで一年が経つ。だいぶわたしの手に馴染んで文字を書きやすくなった。
裕司さんはわたしの贈ったレザーカバーのノートブックをもう書き終えただろうか。一昨年の十月の裕司さんの三十三才の誕生日に、わたしは以前から欲しいと思っていたスイスの高級ステーショナリーストアのノートブックを彼に贈ったのだった。オンラインストアで注文し、自宅で受け取り、梱包を解いて現れたノートブックはわたしの普段使うものとは存在感が違った。本革の表紙のしっとりした手触り。書きやすさと長期保存に適した中性紙。パラパラとめくった際の指や手に紙が馴染む感覚。わたしは、丹念にそのノートブックを観察した。そして、一ページ目に裕司さんへの愛情と感謝を込めて、生誕を祝うメッセージを書き込んだ。インクの染み込む様子、ペン先の走り具合。万年筆で書き込んだ際の感触もとても心地よいものだった。わたしは、メッセージを書き込んだノートブックをもう一度包み直して、リボンを結び、裕司さんに贈った。あの人はとても喜んでくれた。わたしのメッセージを何度も読み、手で擦って感慨深そうに眺めていた。そして、このノートブックを特別な日の出来事を書く日記にすると言ってくれたのだった。