キレマンジャロに登りたい


二年ぶりの更新が憑依の話で物議を醸しました。
失礼しました。

引き続き調子が出てきたのでネタがある時は更新します。二年黙っていたのでネタはたくさんあります。

怒れない人間

「あまり怒らないよね」これはよく言われる言葉、自分でもそう思う。
怒り方があまりわからない。
何かが起こってパカーンと怒髪天を衝けるタイプの人が周りに多いので、羨ましいなぁと思う。キ、キレてぇ…と思う。もしくは、代わりにキレてくれてありがとうともなる。

しかし、怒りの感情が無いわけではなく、そこには確かに在るのだけど、手繰り寄せてから出力するまでになかなかの時間を要す。平均二、三日。となると目の前にその対象となった事象や人はもういない。

なので、未消化、貯まる。
よくない、すごくよくない。
激流の水は綺麗だけど、池の水はまぁまぁ汚い。
私の中のメダカ達は瀕死状態。

ということで、最近は「キレる」を練習していた。
湧き上がった怒りの感情の芽を見逃さず、発芽しないうちに刈り取りたい。

しかし長年の癖は一朝一夕では変わらない。

なぜ怒ることが下手なのか。
それによる弊害はなにか。
なにを得て、なにを失ってきたのかを考えてみた。

怒らないとめっちゃ失う

何が起こっているのかまずは観察した。
私の中で怒りの芽を見つめてみると、一次感情としては哀しみや失望がある。
シチュエーションとしては大体こう。
・以前に辞めて欲しいと伝えた事が繰り返されたとき→失望→二、三日後→おこ(前も伝えたのにまたやるのかよ)

・尽力して取り組んできた経緯を否定されたとき→哀しい→二、三日後→おこ(このためにどんだけやったと思ってんだよ)


↓スルーされる怒りの出力

前も伝えたのにまたやるのかよ→もうあかんわ
このためにどんだけやったと思ってんだよ→もうええわ


なるほど?めちゃくちゃ諦めてる。THE諦観。
コミュニケーション、そして、対人関係に対する諦め。友人知人ならば絶縁。結婚ならば離婚。職場ならば転職。案件ならば契約解除。

へー?思い当たる節があるどころか我が人生のセトリじゃん。

ここまでで得てきたもの:
対人関係を継続することにより繰り返される怒りやストレス

失ったもの:
忍耐力や改善力どころか、怒りの対象人物達

イエスマンな訳ではない

かといってイエスマンなわけではない。どちらかというとノーマンだ。中途半端なコミットで、蓋を開けたら果たせない事の方がリスクだと思うタイプなため、割とノーは言える。おべっかや忖度も苦手。私の行けたら行くの返しは実際に行く。

なのになぜか怒れない。
嫌な事を嫌だと伝えることはできる。
しかしとても冷静なテンションで伝えられるため割と軽んじられることも多い。
(その間えんがちょ導火線はジリジリと音を立てて燃えている)

たぶん感情のトッピングが重要

嫌な事を嫌だと伝えるとき、感情を乗せるか乗せないかでかなり先方への伝わり方は変わる。

声を荒げる、怖い顔をする、物音を立てる。
怖い顔をするが最も初心者には優しそうなため試してみたが元々顔がキツい&眉間に打ったボトックスが効きまくりのため、般若の形相ができずまったく功を奏さなかった。文字にすると滑稽だが、こちらは大真面目である。

声を荒げる、物音を立てるというのもちょっとやりづらい。
となると、態度だ。「無視をする」は、諦観グループと同じ類と感じたし、大人げがないと思ったため極端に口数を減らしてシリアスさを演出した。

つまんねー女爆誕

口数を減らして、私は怒っている。再三嫌だと伝えたことを繰り返され、怖い顔も効かなかった。
そんな私はいま真剣に怒っている。という精一杯の怒りの出力をしたところ、全然喋んないね、どうした?正直に言うけどかなりこちらはつまらないよ?と言われてしまったことがある。
その時、私の池は沼になりメダカ達は死んだ。

難しい。すごく難しい。怒るって。

結局のところ考えすぎ

たどり着いた結論は、考えすぎ。シンプルな結論だけど理由はある、聞いてほしい。

私は怒りというのを一種のパフォーマンスだと捉えている。
大怒りでスコンっと改善するなら、それは良し。
これはナイスパフォーマーだけが使える手口。ボトックスネキには向いてない。

しかし相手がこちらの怒りを恐れるが故の方法として暫時の改善であれば、それはこじれる。

→暫時のため、三日坊主
→暫時のため、隠れてやる

などに展開するからだ。

「ごめんで済むなら警察は要らない」
当方、この言葉が大好きなひねくれ人間である。

なぜ、こちらの気持ちが傷つくのか。
なぜ、哀しいのか、失望するのか。その本質を理解した上で相手方も、それはまずいねやめるわ!という平和的解消に至りたいという願いがある。

この平和的解消というこの世の対人関係で最もハードな山脈の頂を目指す登山が事象が起こってから始まる。

言葉のストックを使って、山脈をかき分けて丁寧に登ればいいものをなんだこの山…高すぎる…登れるのか?
てかストックひ弱すぎでは?と山の麓で思考の一人遊びをした上で諦観に入っていたのだ。

考えすぎ。登れ。
ストックが弱いなら言葉を学べばいい。

だから私は今日も本を読み、noteを書く。
これ以上大切な人とえんがちょをしないために。

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