No9.癌を打ち明ける難しさ、友人に送ったLINE

こんにちは。アキです。(@earth0309)



2016年3月18日 サポートする側の心労も


これから先どうなるのだろう。僕は気持ちが落ち着かず
心の中に不安が広がり落ち込んだ。死ぬことばかり考えてしまう。
要検査を無視したこと、痔だと高をくくっていたこと、癌だったこと
しかもステージ4、リンパ節〜肝臓転移・・・
頭の中をグルグルと周り、僕は胸がドキドキしていて、目をギュッとつぶって
他の楽しいことを考えようとしても、もう未来がないかもしれない暗い現実に
押し潰され、なかなか眠ることができなかった。

愛する人を残し1人先に死ぬ悲しみも、愛する人を亡くし1人生きる悲しみも
どちらもたまらなく胸が痛い。当事者とパートナーの悲しみは違えど、
お互い願うことは一緒だった。5年後も10年後も一緒にいたい。
ただそれだけだった。そのためには何をしたらいいのか。

腸閉塞寸前、待ったなしの状況だった。
1分1秒ムダにできない状況で、大腸癌だけなら手術で取り除けば問題ないと
考えていたが、リンパ節や肝臓に転移しているとなると話が違う。
夫婦2人だけの沖縄生活を続けるには、無理があった。
沖縄に頼れる親戚は誰もいない。癌の闘病生活は選択の連続だ。
沖縄に残るか、実家に帰るか。沖縄を離れるのは嫌だったけど
僕たち夫婦に残された選択肢は「帰る」しかなかった。
そして、帰る実家は僕の実家ではなく、多恵子の実家を選んだ。
なぜなら、彼女が僕の看病をするのに旦那側の実家では彼女の休まる場所がない。
闘病生活は当事者はもちろん、サポートする側の心労も計り知れない。
そして家族のサポートなしに今の僕はいない。



2016年3月20日 癌を打ち明ける難しさとは


これから長い入院生活になるからと、朝から行きつけの友人の美容室へ
無理いって髪を切ってもらった。サッパリして気持ちがいい。
沖縄で美容室探すなら、Najeyへ行くといい。カットもヘッドスパも最高だ。
そして数週間分の荷物をまとめ飛行機の予約をした。アースを連れて帰るわけにはいかず、いつもの訓練所へ預けに行った。バタバタしてると思い悩まず、暗くなることもなかった。夕方、数人の友人が自宅を訪ねてきてくれた。
「沖縄で待ってるよ」未来の約束がとても嬉しく、僕に勇気をくれた。

夜中、腹痛で起きた。痛みが出始めたのだ。無理もないあの忌々しい
真っ赤に腫れあがった癌が、今にも大腸を塞ごうとしていたからだ。
もし腸内で爆発したらどうなるのだろう・・・痛みと不安で眠れなかった。
寝付いたのは朝方だっただろうか、まだ眠たかった。

朝、友人の1人が迎えに来てくれた。
「あきちゃん、たえちゃんはいつも一緒で、本当に家族だと思っているよ」
僕たちが働いていた薬局の横の病院のドクターでサーファーの友人だ。
いちばん最初に相談したのが彼だった。共に働き、ランチを食べ、朝・夕一緒に
サーフィンをする、僕たち夫婦にとって兄のように慕う人だ。
ある日のランチで彼に、自分が癌であることを打ち明けた。それを聞いて、彼の
表情は青ざめたが、動揺してるようには見えなかった。彼は医者として友人として
今後の計画やアドバンスをくれ、僕に手を貸してくれた。
3人で「乗り越えよう!」といって輪になったこともあった。

空港へ向かい、荷物を預けると多恵子が「コーヒーでも飲んで落ち着こう」と
ラウンジに僕を誘った。乗り気ではなかったがついていくと、なぜかそこには
たくさんの友人たちが集まっていた。
もしかしたら、沖縄へしばらく帰って来れないかもしれないからと昨晩、
多恵子が沖縄の友人へLINEしてくれていたのだ。

画像1

明日の朝9時55分ANAで沖縄を発ちます。
もし時間あれば見送りに来て頂ければ喜ぶと思います。
パワーをください。
多恵子。

「おはよう!あれ?どうしたの」僕はまだ気づいていなかった。

癌と聞くと死を思い浮かべる人が多い。僕もその1人だった。
「もう治らないのかな」、「若いのにかわいそう」と同情されたくなかった。
だから友人に話そうにも、何を話せばいいのか分からなかったし、
カミングアウトすることで負けてしまうような気がしていた。
口にしないことで現実から目をそらそうとしていたのかもしれない。
「大丈夫だよ、きっとうまくいくよ」なんて軽い言葉はいらなかった。
僕を励まそうとするあまり口から出るのだろうが、死を連想させる癌には無力で、いつまで生きられるかわからない僕は、そんな言葉を望んでいなかった。

しかし空港に集まっていた友人たちはみな、僕が考えているよりもずっと
愛に溢れていた。逆に卑屈になってた自分が恥ずかしいくらいだった。
彼らは言葉を選びながら僕が長生きしてくれることが何よりも嬉しいこと、
このつらい試練を乗り越える僕たちを支えていきたいこと、を話してくれた。
そして最後に「いつでも沖縄に帰ってきてね」と。
たくさんのエールとパワーをもらい僕たち夫婦は沖縄を出発した。

誰も知らない土地沖縄で夫婦2人、築いてきた交友関係だった。
プライベートや仕事を通じてたくさんの人に出会い、そして楽しませてもらい
沖縄に永住しようとまで決めたのは、ここに集まってくれた仲間のおかげだった。
改めて、人とのつながりや愛情を知る大きな宝物になった。
改めて、沖縄でお世話になった友人へありがとう。


P.S 2016年11月
術後数ヶ月経ってから、沖縄へ遊びに行った。
どれだけ多くの人に気にかけてもらい、愛されていたか
大好きな沖縄を離れてから気がついた。当たり前だと思っていた
沖縄での生活は突然、余命宣告されたあの日を堺に生活は一変し
時計の針は止まったままだった。

だけど、「ただいま〜」の一言でまた動き始めたように感じた。
「おかえり〜」、「心配したやっさー」とガッチリと握手し
「よく頑張ってるね」と優しく抱きしめてくれた。

サーフィンで繋がっている関係かもしれない
だけど、僕たち夫婦にとってそれはサーフィン以上の繋がりを感じた。
帰る場所がある幸せ。またいつか住みたい場所。それが沖縄。
僕たち夫婦にとって大切な宝物。

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