「足るを知る。」ということ。
「幸福感の強い人は、持っている物を数える」
逆に、
「幸福感の乏しい人は、持っていない物を数える」
よく聞く言葉だ。以前は不平不満だらけだった私が、この言葉を知ってから不平不満や愚痴がめっきり減ったのは事実かもしれない。
健康で、ご飯がおいしくて、仕事があって、趣味や興味のあることができて、大切な人がいて…私の「持っている物」をあげたらキリがない。
私は間違いなく幸せ者だと思う。私の「持っている物」は今日も変わらずここにあって、私の「幸せ」を支えてくれている。が、無数にある「持っている物」の殆どは時と共に変化する。ずーっと、このままなわけはない。
健康・若さ・家族・仕事・趣味・愛猫…etc
皆、限りがあるのだ。どの「持ち物」がいつ無くなるかは分からない。「かけがえのない」と思えるものほど、失う時のショックは強烈だろう。
半年ほど前、私の愛猫が死んだ。以前から心臓病で余命宣告を受けており、宣告時期を大幅に更新して死んでいった。私にとっては精神的にも大きな存在だった。
その猫の、いよいよ命が消えそうになった時、最後は呼吸困難で苦しむと医師から聞かされていて、安楽死を選ぶかどうか選択を迫られていた。
余命宣告を受けた時からずっと悩んで答えが見つからないままだった。これが家族なら、延命するかどうか…なのだろうが、ペットは「安楽死」すなわち命を奪う決断をするかどうか、なのだ。
私は泣きながら迷いに迷った。私の泣き顔をふうふうしながらも心配そうに見上げる愛猫に、どうしても命を奪う決断を出せなかった。
が、病院が閉まる時間がきた。きっと明日の朝までは命が持たないだろう。私は愛猫を抱きしめて、「おやすみ。また明日来るね。愛してるよ。」と言って酸素室に入れた。猫はいつものように頭を弱弱しくも摺り寄せてきた。
のたうち回るほどの呼吸苦。時間にして10分程度だと、医師から聞いたその言葉が脳裏をかすめた。
死に至るまでのその10分。生きていることに意味があるのだろうかと思える10分。ただ、苦しむだけの10分。
「先生、安楽死をのぞみます。先生が診て、いよいよ苦しみしか残されなくなったら、苦しみだけでもとってください。」
自然に出た。言い終わって涙がバカみたいに出た。悲しかった。もう、この局面で私がしてあげられることはこんなことしかないのだ、と。病院から帰宅するまでの間、車の中で涙が止まらなかった。
翌日、猫はしずかに冷たく横たわっていた。医師は「最後まで良いコでしたよ。苦しむよりも先に意識が朦朧として、眠るようでした。だから安楽死の注射は打っていません。」
もうここに居ないんだな、もう抱きしめることも撫でることもないんだな、寂しいな。寂しいなんてもんじゃない。…辛い。
それからペットの葬儀屋さんに連絡して、一泊だけ自宅で過ごし翌日には火葬した。小さい骨壺を持って家に帰る時、ふと、「そりゃ愛がある分悲しいわな。」と思った。その猫を拾って飼うと決めた日から、いずれお別れが来ることを覚悟して一緒に生活した。幼いころから犬や猫と共に成長した経緯もあり、ペットとの死別も経験し、生きてるうちにもっと可愛がれば良かっただとか、真面目に散歩に行かなかっ事を後悔したりというペットあるあるは一通り経験していたので、私なりの精一杯の愛情を注げたという自負もあった。でも、辛い。
それでも、「涙が止まらない程、辛い。」「身に染みる辛さ。」。
うん。それだけ「愛せた。」証拠。愛があるから涙が出る。愛がある分、泣いたらいいや。君と共に生きれて幸せだったよ。
愛猫の死は、その存在と引き換えに私がそれだけ愛せていた、ということを実感させてくれた。これだけ悲しい思いをしても、出会わなければよかったとは微塵も思わない。悲しいのは、大切だからだ。
だから私は今ある「持っている物」全てが愛おしい。今日が、今が幸せなんだと実感する。そして、「手放した物」「持っていない物」を数えることもまた、幸せなのではないかと最近思うようになった。
「手放した物」ー愛猫の死が私に教えてくれたように、手放した先に得た物も必ずある。
「持っていない物」を追い求めることで得れる物も必ずある。挑戦する決意や、得るための知恵、努力、人との出会いや今までにない考え方…etcだ。
そうやって、経験や能力、思い出、繋がり…いろんな要素が絡まって人生を図太く、面白いように紡いでいく。「足るを知る。」ことで「足らない物が何か」を知って、求めるか、求めないか…どちらにせよ
また一回り成長する足掛かりとなる。
豊かさとは、それら全ての可能性だと私は思う。足るを知った時の充足感。足らない物を追っていくときのワクワク感。足りてたはずが、失った時の喪失感や絶望感。足りた時の高揚感。
人生は面白い。