
島津荘、島津家発祥の地、都城
この地図はGoogle Mapの都城の衛生画像ですが、これを見て改めて愕然としました。
広大な水田地帯
今は人家や建造物が集中している都心部は、その昔は水田地帯だったということです。中心部を除く外周部は今でも水田が広がっています。都城はとても広いのですが、これが昔は全て水田だったと思うと、とてつもなく広大な水田地帯だったと分かります。もちろん集落もあったでしょうが、それは水田の面積からすれば僅かな面積だったと思います。
それだけこの地帯は肥沃だったということです。そしてそこが日本最大の荘園と言われる島津荘の発祥の地だったと言われると「さもありなん」と思わせるだけのものがあります。

お米=お金
古代・中世はお米=お金でしたから、都城はお金(財)を産む地帯だった訳です。となると、人が集まりますよね。当時やその遥か昔の権力者達が喉から手が出るほど欲しい場所だった筈です。多くの遺跡や出土品からはるか縄文の時代からここには多くの集落があったようです。川があるから物流も盛んだっただろうし、集落も多くあった筈です。国道10号線の近くに横幅6mほどの官道(律令時代に整備された)の跡があるようです。
縦に流れる大淀川、その支流となる川の横の流れを考えると、ここは天然の水田耕作地帯であったと思います。周囲の山々から自然濾過された美味しい水がこの平地に流れてきます。支流にも流れていきます。何もしなくても最初から用水路が出来ていたようなものです。そこから実際の用水路を引くのは他の地に比べるとそこまで大変じゃなかったのでは?と思います。
都城は太古の時代、元は沼or湿地だったのが霧島や周囲の山々から土砂や火山灰が堆積して平地(盆地)になったのだそうです。
島津荘の発祥の地、郡元
この地図の中央ちょい右の「イオンモール都城駅前」という文字のちょい上の国道269マークのあたり一辺が「郡元」で、ここが島津荘の発祥の地だったらしく、今から約1000年ほど前(平安時代の摂関期)に太宰府役人だった平季基が当時、島津院(日向國諸県群島津院?)と言われていたこの辺りを開墾して藤原頼通に寄進したのが島津荘始まりと言われています。
なぜ、自分で耕した田んぼなのに人に寄進しないといけないのか?疑問に思う人もいるでしょう。この時代は事情があったのです。理由は以下の寄進地系荘園の説明をお読みください。
但し、平季基は当時の文献で無主の荒野を開墾して・・・と記されてあるようですが、平安時代にこの辺りが荒野だっとは考えられません。すでに開墾されていたのでは?と思います。1100年前(平安時代)にはここには豪族がいたようですし、奈良時代より前に徐々に律令制が施行されるにあたり開墾が進んでいた筈です。
惟宗(島津)忠久
イオンモール都城駅前の「前」という文字のちょい上あたりが島津発祥の地として知られる祝吉御所のあるところです。惟宗(島津)忠久は平安時代末期に藤原氏分家の近衛家の家人でしたが、島津荘を管理する荘管(下司職)として都城にやってきて、そこにしばらく滞在したと言われています。ずっといた訳じゃなく目代(代理人)を置いて、目代がその役目を果たしていたのでしょう。当時の風景としては水田の中に祝吉御所があったと思われます。ただし、惟宗(島津)忠久の生まれ年(1179年)から計算すると、この時期(1185年)は幼年の頃なんですよね?そこはどうだったんだろう?と思います。でも1166年生まれという説あるので1166年なら19歳なのであり得ると思うのです。
北条氏直轄地
島津と名乗った前後?に島津忠久は鎌倉御家人の比企能員から源頼朝に引き合わせられ、御家人となります。そして源頼朝より地頭職=「中身は荘管(下司職)と同じ」を命じられ、その後、薩摩と大隅の守護・地頭にも任じられます。しかし、頼朝死後、北条氏が実権を握ると比企能員は謀反の嫌疑で殺され、島津忠久も比企との繋がりから嫌疑がかけられ、地頭を解任され所領も取り上げられてしまいます。しかし、暫く後に無罪となりますが、都城・大隅は北条氏が滅びるまで北条氏直轄地となり、その残りの薩摩だけが島津忠久の所領となります。鎌倉時代末期の北条氏が滅びると島津家は直ぐに都城を取り戻します。しかし、南北朝の争乱の時代に突入していきます。
守護ですが室町時代になると守護大名となっていきます。やがて戦国大名となり、江戸時代には藩となっていきます。
2025年2月21日