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蔵書は増え、そして散逸し、循環する

文庫・新書の値段が上がっている

最近読んだニュースの中で割とショッキングだったのは「文庫本もはや安くもコンパクトでもない 1冊1000円超える時代、売れ行き不振に頭抱える出版社」というものである。この記事で興味深いのは、「中高年向けがメインになって、(老眼のせいもあり)文字フォントが大きくなり、活字がゆるく組まれるようになって、頁数が増えている」という記述である。用紙代、印刷代、配送費などのコストが上がっていることもあり、文庫の単価が上がり、発行部数も少なくなっているので、ある種悪循環になっているといえる。

もちろん、文庫化して売れた『百年の孤独』(新潮文庫)のような本もあるのだが、紙の本での継承という観点から見ると、今の若い世代がたくさん娯楽や無料のコンテンツがある中で、新刊をバンバン買って、読んでいくという購買行動にはならないのは、明らかだろう(これは中高年でもそうだが、相対的に考えるとまだ中高年の方が書籍を買う、このあたりが参考になる)。その意味で、書籍文化自体は維持されるだろうが、先細りになっていくだろう。

本が売れないという状況は、蔵書の次世代への継承問題に大きく絡む由々しき問題である。発行部数が少なくなるということは、それだけ将来古書でも流通しなくなる。そして有り得る将来のシナリオの一つは、本を読まない世代が増えて、「紙」という媒体にこだわりがなければ、本は散逸し、ごみとして将来消失していくことになる。継承してくれる世代がいなければ、本は死滅していく。もちろんデジタルアーカイヴなどの形で残されていくだろうが、物体としての書籍の存在というのは大きい。なので公共の共有財産としては残されるかもしれないが、完璧な形で残されずに、失われていくのだろう。古書で流通している分も、需要する人がいなければ、成立しなくなるだろうし、先細りしていく可能性も考えていく必要がある(クラークの『幼年期の終わり』のオカルト本棚ネタが出来なくなる…)。

紀田順一郎先生の体験から

蔵書家が自分の本を死後どうするのか問題は、紀田順一郎『蔵書一代: なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか』(松籟社)を読んで以来、脳裏から離れない。自分にとっては生態系ビオトープも他人にとってはただのゴミに過ぎない。家族が理解があれば、古書店に引き取られることもあるだろうか、個人のコレクションは基本的には散逸し、古書市場を通じて循環していく形にしかならないだろう。運が良ければ公共的な財産として保存されることもあるだろうが、維持費用を考えると現実的ではない。蔵書の処分について、蔵書家の方々がどうしているのかを知るきっかけになったのは、『蔵書一代』だったのだ。

実際、ふと自分の机周りを見てみると、大量に積まれた本の山と資料の山に囲まれている。読み終えた本、読んでいる本、積ん読になってしまっている本、完全に埋もれてしまった本の山を見て、「この本の山が無くなっても死なない」が、仮に蔵書を処分したら紀田順一郎さんの感じた「本を通じた自己存在の喪失」に陥るのかもしれない。

『蔵書一代』は老齢(紀田さんは2025年現在89歳、本書を執筆したときは82歳)の域に達した紀田さんが、やむを得ない家族の事情によって3万冊の蔵書を古書店に売るところから話が始まる。紀田さんのような著名な文筆家でも、ご自身の蔵書を保持するのは困難で、大量の蔵書を処分あるいは破棄する状況が描かれている。大量の本をどうするのか解決するための最終手段が、破棄あるいは古本屋への売却しかないという現状を勘案すると、改めて「蔵書の寄贈」が難しい日本の現状に戦慄を覚えるのでした。

紀田さんはご存知のようにミステリ、怪奇文学などにも精通されている日本を代表する評論家・作家でもあり、創元推理文庫から出ている『古本屋探偵の事件簿』『M・R・ジェイムズ怪談全集』などで有名で、名前を知っている方も多いかと思う。『蔵書一代』では、紀田さんが自分の3万冊の蔵書をキープできなかったことに対する無念の気持ちを感じることができ、ささやかながら蔵書を持つ身としては本当に悲しい気分になったのでした。

『蔵書一代』を通じてわかったことは、住宅事情を勘案すると蔵書をキープする単価が高い日本では個人が蒐集した書籍は散逸の運命にある。また苦労して蒐集した書籍は自分自身の価値判断のもと入手したものであり、その価値は決して他人の評価とは同じにならない。だからこそ一部の著名人の蔵書も、特別な場合を除いて散逸や破棄を免れることは難しいということにある。その例として、ジャーナリストで有名な知の巨人立花隆さんの猫ビルも遺産相続で売却に出される時代である。そんなわけで、市井の蔵書家の本が古書市場に出てくるのは理解できるだろう。

ではどうするのか?

自分の嗜好や仕事等に応じて増加する蔵書はある種、自分のアイデンティティであり、自分の知のビオトープを形成する作業である。つまり本を手放すことは自分のアイデンティティの喪失である(これは、蔵書だけではなく、理解ない人に自分の蒐集コレクションを捨てられて茫然自失するケースである)。本人以外にとっては、本は場所をとり、危険で(積んでいると崩れてけがをすることもある)、古本独特の匂いがするなど、心地よいものではないだろう。蔵書をきちんと棚差しできる場所がある間は良いが、そうでなければ探すのに様々な労力を使ったりするので、非常に厄介なものになる。以前自分の本を実家の建て替えの際に処分したり、移動させたことがあるが、とにかく体力を使う。まだ若いうちならいいが、体力の衰えた老人になったときに、この本の山と格闘するのはけがのリスクもあるし、危険になってしまうと感じている。そのため、本を保有し続けるコストもまた考えないといけない、ということになる。

本の価値の変容

本が売れなくなってしまってのは、読書自体が昔とは異なり、値段のせいで代替される趣味になってしまったということだ。正直、奢侈品であるともいえる。スマートフォンで楽しめる娯楽による代替がなかった時代、本は昔の人たちにとって娯楽であったり、教養を深めるものであったといえる(そのあたりの経緯は、三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』 (集英社新書)に詳しい)。

今のSNS時代の隆盛で目立つのは、専門知を信じない人が増えて、「オレノカンガエル○○」を声高に主張し、専門家に文句をつける層が増えている。その結果、硬派な学術書の価値自体が落ち、時間をかけて読書するという行為自体が失われつつあることも本の価値を失わせしめているのかもしれない。また新古書店の台頭により、本の稀少性よりもむしろ、状態のみで本の売買がなされることにより、貴重な本が散逸し、失われていく(一部の本は破棄される)。そして買取のプロセスで失われる本もあるため、一部の本は本当に貴重なものになってしまう(需要と供給の問題である)。つまり我々のメンタリティ自体が変化してしまい、蔵書を持ち、保持するということ自体に意味を見いだせなくなってしまったことにあるのかもしれない。

蔵書を保有するということは、(本の内容の観点から見る)資源配分の効率性からは外れた行為である。つまり、読みたい人のところに行かず、手元に保持するからである。しかし蔵書自体は、その人の嗜好や思考形態を反映しているがゆえに、蔵書をアーカイヴとしてできる限り残すということは意味がある。蔵書をもつということと、処分するということの間の難しさがここにある。

例えば江戸川乱歩のように運よく保持されることで後世に伝えることができる例は稀で、例えば定年退職間際の大学教員の蔵書は引き取り手がなく、破棄されるという状況にあると聞く。専門書は市場では価値がつかず、単に破棄されることになる。本を大量に保有するということは、給与水準がなかなか上がらない現状で、蔵書を補完する場所を必要とする現在ではなかなか難しいといえる。紀田さんも岡山に運よく家を建築して、蔵書を一時期キープできたが、結局それを手放することになった点も踏まえると、よほど本好きの金持ちでないかぎり難しい。

結局のところ、日本は震災大国のため、資料や蔵書をアーカイヴするということが難しいのだろう。だから古書店を利用して、次世代に受け継いでいくしかない。特に今の子供たちの世代は、本ではなく代替メディアに慣れ親しんでおり、本好きになるのはごく一部である。本の大切さを伝えるという困難さはある中で、まとまった個人蔵書を散逸した形でも、次世代の読み手に継承するということがスムーズにいくかどうかが、未来に書籍を残すためにも重要なポイントになる。読書離れが進む中で、いかにして本を読むということに興味を持ち、主体的に読書を進めていくのかは、SNSの発信等も含めて今後の課題として考えていきたい。読書文化という土壌を肥沃なままにするためには、新規参入する人たちに継承されないと難しい。『蔵書一代』最後の一文は、身につまされた。蔵書からいつ手を引くのか、引き際というのは本当に難しい。

私は地下鉄神保町駅の階段を、手すりにすがりながら一段一段おりた。この階段をおりるのも今日が最後と思ったとき、足下から何かがはじけた。

紀田順一郎『蔵書一代』より


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