続:自己紹介
苫米地式コーチング認定コーチの萩原崇です。
以前に自己紹介を書いてみましたが、今年1月に対談動画を撮ったときにも別のエピソードがありました。
そこで話した内容を膨らませながら、続:自己紹介として書いていこうと思います。
本当に東京大学しか知らなかった
東京大学に現役合格したエピソードの中で、担任の先生が(とても親身な)ドリームキラーであったことを話しました。
中高一貫の進学校だったので、高校1年の冬に進路指導の個別面談がありました。担任の先生は中学1年生のときから担任をしてもらっていた英語の先生で、今でも大変尊敬しています。
卒業して以来お会いしていないので、ずーーと心残りになっている謎が一つだけあって。
中学1年か2年の英語の授業で、命令文(Don't be afraid.とか)を初めて習うときに、
「Not be ~.」と板書に書き始めて授業を5分10分くらい続けて、
突然話が止まったかと思ったら少し考え出して、「Don't be ~.」でした、と訂正したんですね。
そのときは先生でも間違えることがあるんだなぁ、くらいにしか感じてなかったのですが、思い出として振り返ったときに中々ありえないミスだなぁと思ったんですよ。
新人教師というわけでもなく、ご年齢から推察しても教壇に立って10年は経っていたと思うので。
こうして今も、当時のちょっとした謎が頭の片隅に籍を置いている程に、思い出のある先生です。
その担任の先生との進路指導面談のときに、
「志望校は・・・東京大学です」
と口から出た瞬間から、
先生は大変真剣に、嘲笑は一切なく、如何にmission impossibleか、を論理的に説いてくれました。
どうしてそのときに東京大学と口にしたかというと、本当に東京大学しか知らなかったんです。
中高一貫校で高校受験もしないまま高校1年生に上がったので、高校の名前も通学経路にあった都立高校とTVの高校野球で甲子園出場している高校くらいしか知りませんでした。
さて大学はというと、箱根駅伝の出場校くらいは耳にしたことがあったかもしれないですが、東大京大早慶上智のような偏差値ランクも知らないので、どの出場校も「大学名」としてまったく印象に残っていませんでした。
唯一、大学の名前として認識していたのが、赤松健先生の「ラブひな」で登場していた東京大学でした。
※「ラブひな」が連載していた週刊少年マガジンを読み始めたのは「金田一少年の事件簿」がきっかけで、これはまた別の機会に。
農学部だけどIT技術
農学部は「のーがくぶ」と話しても一定割合で「こうがくぶ」と間違えられます。人気のある学部はうらやましいですね。
農学部のイメージは、北海道大学の農学部や、荒川弘先生の『銀の匙 Silver Spoon』が一般的なイメージに近いと思います。
私の所属していた専攻は、農業工学に近くて、土壌物理学や水利工学といった講義があり、
農耕トラクタの遠隔操作研究や、衛星画像を解析して河川の氾濫を検知する研究などありました。
フィールドワークとして田無演習林(東京都西東京市)で実習したり、建設中の滝沢ダム(埼玉県秩父市)の見学もあったし、使わなかったけど山中湖(山梨県南都留郡山中湖村)にセミナーハウスもあるみたいです。
実は学部生のときと大学院生のときで専攻を少し変えたのですが、学部のときはこのような専攻でした。
大学院に進学を考えているときに、高校の友人から「バイオインフォマティクス」という分野を教えてもらって、大学院は「生命科学 × 情報科学」の分野に進学しました。
苫米地博士との(遠い)接点
大学院からの研究室はいわゆるドライラボで、研究室の奥にPCクラスタマシンが置いてあるような所でした。
ドライラボ(dry labo)は、ウェットラボ(wet labo)に対比する用語で、実験室を持たない研究室のことです。
遺伝子配列情報や膨大な研究データなどをビッグデータとして扱い、解析を行う研究室です。
ここで大学院修士課程の研究として、バイオベンチャー企業との共同研究に従事していました。バイオベンチャー企業の実験室で測定したデータを用いてその解析の一部を行うというものです。
解析手法として、ディープラーニング台頭以前に人気があった機械学習手法の一つである、サポートベクターマシン(SVM)を用いて解析プログラムを組んでいました。
その研究発表として、日本バイオインフォマティクス学会にポスター発表で出たときに、類似の研究をしていた慶応大学冨田勝教授の研究室の方からいろいろと質問をされたのでした…。
※冨田勝先生は、その技術でヒューマン・メタボローム・テクノロジーズ株式会社を創業して、2013年に東証マザーズに上場しました。
その冨田先生が(当時はそこまで存じ上げていなかったですが)苫米地博士の大学時代の先輩の冨田先生でした。
不思議なご縁を感じます。