ルター
今日はふと、ルターの「信仰によって(のみ)義とされる」
の意味を得心した気がする。
彼が、自ら聖化しても出来なかった年月を得た後、その着想を得たらしいが、おそらくそれは、
たまに来る至福状態を、永続的なものにすべく努めて来たが、それはほぼ不可能事だと、もう自ら努める気が自然に1ミリも発せられなくなった状態で、キリストがやったことを振り返り、
彼が死に、復活したという伝承を、実際にホントに起きたことと、ある意味真に受けて、→彼は死を克服した、それも神の力によって
→彼は、「私は私の下に来る者を一人も追い出さない」と言っていた
→聖化の不可能な自分でも受け入れてもらえ、なお且つ、死の後すぐ復活させてもらえるし、彼があらかじめ人類の罪を背負ってくれたから、こんなだめな自分でも、無条件に「信仰のみ(おそらく復活への)」で義とされる(救われる)あるいは、彼が死んだ時点で、救いは決定されたという、思考を辿ったような気がする。(分かりづらい長文すみません)
そしてキリスト教においては、聖化(至福状態の持続か永続)
と、救いは全然別のことで、救いはある程度、(表現が良くないかもしれませんが)簡単に感覚的に実感として?得られるものとわされているのかもしれない。
キリストの死によって、全然ありのままのだめな自分で義とされていることの得心。
その救いの感覚(?)が得られないとすれば、
救いは、至福状態の永続というある意味の勘違いを持ち続けていたり、さらに自分の事は自分の力とやり方で救えるぞ!という気概や自負心が邪魔しているのかも。
まぁこういうことはかなり微妙な問題だと思うし、
明日になれば自分の考えも変化しているかもしれないので
保留で。
載せるようなことでもないかもしれませんが
一応日記代わりに載せておきますm(_ _)m
皆様に安らぎがありますように💐💐💐