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絶賛映画製作勉強中の学生が語る「映画をツクる」の困難と喜び

 いきなりだが、映画がどうツクられて、どう人々の目に届かれるかを説明する。

 まずは、映画には企画書と脚本が必要だ。企画書はどういうストーリーの映画かを、脚本は”文字”でどういう映画かを表現する、まさに映画の設計図だ。

 この二つが固まったら、次にキャスティング、ロケハン、美術品の用意だ。

 監督、俳優、カメラマン、音声技師、照明技師などの人選をして、脚本から世界観と似た場所を探す、そして、脚本をもとに使う美術品を用意する。

 その後に現場での動きをまとめた香盤表というものが作らられ、現場での撮影となる。

 大きな現場では百人規模で動き、映画製作とはかなりの体力勝負である。

 撮影がおわれば、編集作業、そして宣伝をして、やっとの思いで劇場公開となる。


 かなり、ざっとした説明となったがこれが”映画をツクる”ということで、規模が大きな映画ならば千人が映画に参加する。

 しかし、日本の自主制作映画では、製作費があまり多く使えないし、スタッフもそんなに多くはいない。

 この文の筆者である私も自主制作映画を何本か監督し、何回も痛い目に合い、何度も映画製作なんてやめたいと思った。

 しかし、なぜそんなつらい映画を製作するのか、、、。

 誰がなんと言おうと、映画にはロマンがあるからだ。毎年世界中でたくさんの映画が公開されている。製作規模は誰もが知ってる大手スタジオから、誰も知らない三か月分のなけなしのお小遣いでカメラを買った映画好きの高校生までもが映画を作る。すべての映画に共通するのは、映画をより良いものにしたいということ。

 だからこそ、世界がどんな危機にあろうと映画はなくならない。なぜなら映画を愛してやまない、映画馬鹿達がごまんといるから。

 もし、あなたが映画が好きで好きで、映画を撮ってみたいと思ったら映画を撮ってみて欲しい。

 著者である自分も何者でもない大学生だが、何者でもないからこそ何にも気にせずに自由な映画が撮れるはずです。

 いつも僕が映画製作にかかわらずにキツイと感じたときは、「地獄の黙示録」という映画のことを思い出す。

 監督は「ゴットファザー」などを製作したフランシス・フォードコッポラという監督で、この映画と監督は製作面においてとてつもない困難に見舞われる。

 主演俳優だったはずのハービー・カイテルは二週間前に降板し、新たに起用されたマーティ・シーンは心臓麻痺で一時生死をさまようほどに。出演者であるデニス・ホッパーはドラッグ中毒でセリフを覚えてこないが故にコッポラと衝突、挙句の果て、敵役のマーロン・ブランドは予想以上の肥満により、予定されていたシーンが撮影できない上に自己中心的な主張を繰り返す。

 予定されていた製作費は1200万ドル(当時の日本円で約35億円)が、結局、3100万ドル(当時の日本円で約90億円)へと膨らんだ。その資金の一部を監督であるコッポラが払った。

 そして、公開されるとたちまちこの映画の賛否は別れ、時間がたつほどにこの映画はカルト化していった。

 こんな世界的映画製作の大失敗を思い出せば、人生の大半の心配事など気にせずにいられる。

 だからこそ、今、世界がどうなろうとも著者である私は自分の表現に妥協せずに好きなことを追おうと思う。撮影地であるフィリピンのジャングルで必死に映画と向き合った映画監督フランシス・フォードコッポラのように。


 

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