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26年振りの、帰郷
1995年2月20日にアメリカ合衆国で産まれた私は、3歳の時に日本に帰国したため、出生国であるアメリカの記憶をほとんど持たない。
そんな私は今日、26年という年月を経て再びアメリカを訪れようとしている。渡米を決めたのにはいくつか理由がある。
私は来年、30歳になる。20歳の時にも似たような心境を抱いた記憶があるが、30歳というのは人生における一つの「節目」だ。この節目を私は「ただ何となく」迎えたくはなかった。
四つ上の姉が30歳の時に、長く続けていた仕事を辞め、住む場所もろくに決めないままにアメリカ移住を決断したことも、私に少なからぬ影響を与えたのだろう。当時の私はそんな姉のことを無謀なことをするものだと半ば呆れていたものだが、血は争えない、ということだろうか。奇しくも私も当時の姉と同じ年齢と心境に立っているのだ。
渡米に際して、2年間勤めた会社を先月退職した。
文学部文学科の卒である私がITという分野でシステム開発の仕事に携わることができたのは、何という巡り合わせだったのだろうと思う。
一緒に働かないかと声をかけてくれた会社の代表と初めて会ったのはアフリカのモザンビークという国にあるペンバという小さな島だった。
スラム街で暮らす子どもたちと共にミュージカルの映画を撮影するというワークショップに参加した時の私は未だ二十代半ばの青年で、後の上司となる彼はまだ大学生だった。
そんな日本から遠く遠く離れた異国の小さな島で繋がった縁がまさか、将来一緒に働くことになろうとは夢にも思わなかった。つくづく縁に生かされている人生だな、と思う。
この2年間、私にとって未知の世界であったITという分野で私は全身全霊を持って闘ってきた。そして、少しばかり疲れたのだと思う。
他にも幾つかの兆しもあり、私は人生における一つの節目を迎えるに当たり、「私が生まれた場所、私自身のルーツをこの目で見る」ことを決意するに至った。
多くの友人はこの決断を喜び、祝福してくれた。
「相変わらず自由だね」「甲斐君らしいね」そんな言葉をここ数ヶ月間、何度か耳にした。
私の人生はきっと「自由」な色に彩られて映っていることだろうと思う。
自由奔放に、常識に囚われず、年齢も気にせず、やりたいと思ったことをやる、人生を謳歌している。
実のところ、不安で堪らない。
アメリカは今、生活コストが上がり、失業率も増え、ホームレスになる人の数は過去最高だという。そんな中で大した貯金もない上に、住む場所も仕事も決まっていないで渡米することに対してどうして不安を抱かずにいられようか。
ささやかな貯金でさえ、かつてない円安の影響でその価値を著しく損なっているのだ。
仮にアメリカでの生活を満喫できたとしよう。帰国後はどうだろうか。30歳を超えて、三年以上の勤続経験を持たない、資格もない、そんな人間がまともなキャリアを今後築いていけるのだろうか。
私は「苦労」や「弱音」を他人に見せるのが嫌いだ。私は何の苦労もせずに人生をちゃらんぽらんと、でもそつなくこなして生きているのだと周りには思われていたい。
しかし、同時にこの「苦労」と「弱音」を自らの内にだけ秘めておくことも出来ない、何とも腹立たしい私自身の性(さが)なのだ。
そんな私にとってnoteは私の「弱さ」を吐露することができる失いがたい場所なのだ。
だからこそ、この場で打ち明けよう。私だって不安で堪らないんだよ。ただ楽しいだけに見えているだろうか、人生をその時その時の「楽しそう」という単純な感情のみで舵をとっているように見えているだろうか。そうじゃあないんだよ。悩んで、葛藤して眠れない夜があるんだよ。不安なんて抱えきれないほど抱えているんだよ。恐怖なんて目を背けたくなるほどに大きいんだよ。
でも、やっぱり後悔はしたくないんだよ。
今回の渡米はこれまでの留学やワーホリや、旅行とはまた違う心象風景を私に見せてくれている。
26年振りの帰郷は私にどんな光景を見せてくれるのだろうか、どんな縁と巡り合うのだろうか、その後の私が進むべき道を果たして導いてくれるのだろうか。
希望と、高揚と、不安と、緊張と様々な感情を胸に19:45東京羽田発ロサンゼルス行きのAA 026便搭乗口、148番ゲートへと私は今、向かうのだ。