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拝啓、10年後の私へ
今日、私は30歳の誕生日を迎えた。
三十路という言葉はかつては「はたち」という言葉と同じように「みそち」と発音していたそうだ。そこから音が濁り「みそじ」となり「路」という当て字を用いるようになったらしい。
この「そじ」という言葉はかつて物の数を10単位で数える際に用いられていたが、現在は年齢においてのみ使用されている。
二十路(ふたそじ)、三十路(みそじ)、四十路(よそじ)、五十路(いそじ)、六十路(むそじ)、と10歳ごとの名称はあるものの、最も頻繁に耳にするのは「三十路」だろう。
「路」という字を当てたために年齢の区切りを人生における一つの岐路のように感じる意識が芽生え、特に青年期の情熱の燻りと安定を求める堅実の狭間である30歳の時期に、より一層「人生の節目」を意識するが故に「三十路」という言葉が定着したのだろう。
私も人生の節目に立ち、私がこれまで歩んできた「路」を振り返ってみたいと思う。
アメリカ時代(1995-1998)
特に記憶はない。カリフォルニア州サンフランシスコ郊外にて甲斐家の第三子として生まれる。
覚えていることは何一つとしてないが、アメリカで生まれたという事実が今日、私がアメリカで生きている現在に繋がっている。
東京時代(1998-2006)
3歳の頃帰国。
東京というと都会を想像する人が多いと思う。しかし、私が住んでいたところは都会とはかけ離れていた。通っていた小学校の目の前には畑が広がっていた。ビルは一つも建っていない。マクドナルドもスタバも何もない。
今もあるのかどうか知らないがスリーエフとかいうコンビニがたった一つある程度だった。
当時夢中だったのは近所での川遊び、デュエル・マスターズカード、絵を描くこと、そして読書だった。
今はもっぱらミステリーばかり読んでいるがこの頃は冒険譚が私の心を掴んで離さなかった。『ロビンソン・クルーソー』『海底二万マイル』『十五少年漂流記』『神秘島』『ロスト・ワールド』、無人島や未知の世界に初めて足を踏み入れる興奮を私は本を通して体験した。
今思えば、この幼少期の想い出が私を旅好きにしたのかもしれない。「自分の知らない世界をこの目で見てみたい」という未だ尽きることのない好奇心は、この頃既に私の中で芽を出し始めていたのかもしれない。
熊本時代1(2006-2014)
小学六年生の時、祖父が他界したことを機に祖父母が住んでいた熊本に移り住む。その後大学を卒業する2018年まで人生で最も多くの時間を熊本で過ごす。
この熊本時代を私の人生における最大の転換点であるイスラエル留学を分岐とし、留学前と留学後とで分けることとする。
今でこそ、私は比較的豊かな人生経験を積んできたという自覚を持っている。しかし高校生まではそうではなかった。小中高と平凡な、いやむしろ平凡以下の学生生活を送っていた。
いじめと呼ぶほど悲惨なものではなかったが、周りにからかわれることや、思い出したくない扱いを受けることも多かった。
中学は野球部に所属していた。全学年合わせてようやく9人しか揃わなかった我が野球部はいわゆる「弱小」で、試合に勝利した記憶がないどころかコールド負けでない試合の方が少ないくらいだった。
高校受験は志望校に落ち、第二希望の私立高校に入学した。姉と兄が当時どちらも国立の学校に通っていたことで私は少なからず劣等感を覚えた。
通っていた私立高校は自宅から離れており、10km以上ある道のりを毎日自転車で通っていた。通学に時間がかかることに加えて、大学進学を目指すコースに所属していたため高校では帰宅部だった。
当時の高校生には珍しく私は携帯電話を持っていなかった。当時は家庭の経済状況を恨めしく思ったものだが、今振り返ってみると何と幸いなことだったのだろうと思う。多感なあの頃に現代ほど活発ではないにしろSNSに浸かる学生時代を送っていたなら私は劣等感に押し潰されていたことだろう。
私の人生に訪れた最初の転換点は高校2年生の時に参加した2週間の聖地巡礼、即ち初めてイスラエルという国に足を踏み入れたことだろう。
祖父母、両親共にクリスチャンの家庭で生まれた私は聖書の舞台であるイスラエルを訪れ、その神秘の一端に触れる機会を得たのだが、この体験がその後の私の人生を大きく変えることになった。
この体験がなければ私は自分の学力では及ばない大学に合格することも、大学入学後一年間のイスラエル留学を経験することもなかっただろう。
イスラエル時代(2014-2015)
私の人生における最大のターニングポイントであり、色褪せることのない輝きに満ちた人生最良の時。
イスラエルで私が学び、感じたこと、イスラエルの国が持つ魅力、私がイスラエルという土地と文化を愛し、ユダヤの人と歴史を愛している所以については以前書いたnoteの記事があるので、そちらを是非ご覧いただきたい。
熊本時代2(2015-2018)
一年間のイスラエル留学を終えた私は大学へ復学した。
留学を経て、私の行動原理は以前の私とは違うものになっていた。まだ見ぬ世界を目の当たりにすることに恋焦がれていた。困難にぶつかり、それを乗り越える達成感と充実感に渇いていた。
長期休みになる度に一人で旅に出た。
静岡県から広島県までおよそ640kmの距離を自転車で1週間旅をした。
ロードバイクが欲しかった私は静岡に住む親戚から1台を安く売ってもらい、そのままそのロードバイクに乗って熊本の実家まで帰ろうと無謀な旅を敢行した。
初日に自動車専用道に迷い込み警察に停められたり、雨でスリップし左半身を血まみれにしたり、雪で足止めを食らったり、広島に到着した頃には心身ともに疲労困憊していた。転倒した回数は数え切れないほどだった。今ほどネット環境が整っている時代ではない。県境に差し掛かるたびに圏外になることも多々あった。スマホのGoogleマップだけが頼りである旅において、それがどれほど不安を募らせるものであっただろうか。
そんなタイミングで、広島で泊めてもらった友人の知り合いが翌日に車で福岡まで行く用事があるという話を聞き、これは差し伸べられた救いの手だろうということで福岡まで自転車と一緒に乗せてもらった。そして父親に福岡まで迎えに来てもらい私の過酷な自転車旅はなんとか幕を下ろした。
自転車旅で懲りたものの、旅への渇望は変わらず抱いていた。
今度は原付に乗って東京を目指すことにした。
結論から言うと東京までは5日間で到着した。余談だが、原付で下道を走って熊本から東京まで5日で行こうと思ったら陽が登ってから沈むまでトイレ休憩と食事以外の全ての時間を原付の上で過ごすことになる。是非これを読んでいる皆さんにも試してみてほしい。本当だから。
目的地である友人の家まで残り3kmというところで走行車線違反で警察に捕まってしまった。免許証を提示した時に熊本から来た旨を話した時の警察官の驚愕の表情は今も忘れない。
さて、大変だったのは帰り道だ。自転車旅は「片道」だった。東京へ向かう旅路も目的地に近づいていく実感が原付を走らせる心理的ガソリンになっていた。だがしかし、今回は「復路」があるのだ。つい先日やっとの思いでなんとか走破してきたあの道を、今から「引き返す」のかと思うと想像を遥かに超えてペースは落ちた。結局大阪から北九州までフェリーに乗るという大幅なショートカットを駆使したにも関わらず帰りは1週間以上を要した。
「帰り道」の脅威を存分に理解した私は次なる旅を「片道」だけにしようと決めていた。
今度は徒歩で熊本の実家から長崎に住む友人に会いにいくことにした。といっても徒歩だけで長崎を目指すとなると直線では辿り着けない。そこで熊本の実家から港までの40kmを歩き、フェリーで長崎に上陸しそこから長崎市内までの40km、合計80kmの道のりを歩くことにした。
今回の旅の目的の一つは「野宿」だった。これまでの旅ではありがたいことに、多くの人たちに助けられ、一宿一飯に預かる機会が多かった。宿が見つからない時にはネカフェやカラオケで夜を明かした。そこで一度は野宿を経験しておきたいと思いリュックサックに寝袋だけ詰め込み、歩き出した。
徒歩での旅というのは想像よりも過酷なものだった。
景色が流れていかない。自転車や原付の時にはどんどん視界に映る景色は変わっていった。しかし、徒歩というのは視界の景色の変化に乏しい。乗り物を操作する訳でもなく足を動かすだけなのでより時間の経過が遅く感じる。孤独との闘いだった。
10時間歩き続けてようやく港に到着し、長崎上陸を果たした。そして私は絶望した。バケツをひっくり返したような雨が降っていたのだ。野宿が目的なのに天気予報を確認しなかった自らの愚かさを呪いながらも雨宿りできる場所を探した。
しかし、当時の港周辺は本当に何もなかった。飲食店どころかコンビニの一軒もない。歩き続けたことで空腹だった。携帯の充電も心許ない。私は腹を括るしかない、と思った。
ぽつりぽつり、と点在する民家。田舎だから夜も早く灯りを落としている家の方が多い。わずかに残る明かりの灯る民家の戸を叩き、今晩泊めてくれないかと頼むことにした。
これまでもそれなりの場数を踏んできたつもりだったが、流石にインターホンを押す自分の指が震えているのが分かった。
2、3軒訪ねたが案の定、断られた。
仕方なく、雨の中を歩き続けた。踵は靴擦れで擦りむけていた。
数十分歩いたところでスナックの看板が鈍く光っているのが見えた。空腹も充電も限界が近かった私はとりあえずスナックの扉を押した。
雰囲気ですぐに察した。常連客しかいない。恐らく地元のじいちゃんたちの溜まり場なのだ。20歳そこらの見るからに余所者である私の「余所者」感は店内に足を踏み入れた途端にその色を濃くしたように思えた。
アウェイ感をひしひしと感じながらもおつまみとビールを頼み、携帯の充電をお願いした。
空腹が落ち着いたところでようやく今の状況を楽しむ余裕が出てきた。近くにいたじいちゃんたちと一緒にカラオケを歌ったりしている内に、今晩実は泊まるところがなくて困っている、という話をしたら、「俺の家に来い」と言ってくれた。その横にいたじいちゃんは「明日の朝、俺の家に寄ったらいい」と言ってくれた。そして出会って2時間のじいちゃんの家に転がりこみ、雨の野宿を回避することができた。翌日、もう一人のじいちゃんの家に行くと長崎ちゃんぽんのお店だった。じいちゃんはちゃんぽんを無料でご馳走して私を送り出してくれた。一人寂しく野宿する心づもりで歩き始めた旅路は、出会いに恵まれた旅となった。
朝からちゃんぽんを食べた私はそこからまた10時間かけて長崎市内まで歩き続け、友人と再会を果たすことができた。合計80kmの道のりを20時間かけて歩いた私は、当初から計画していたように高速バスに乗って快適な「帰り道」を窓から眺めた。
そんな旅を続けていたある時、TABIPPOという旅を広める活動をしている会社が主催するBackpack Festaというイベントに参加することになる。
きっかけは高校時代の友人がこのイベントスタッフを務めていたことだった。DREAMという世界一周をテーマにしたプレゼンテーションの大会。その優勝賞品こそが「世界一周航空券」だった。
このDREAMへの参加が、イスラエル留学の次に訪れた私の第二の人生のターニングポイントとなった。
DREAMは三次審査まであり、三次審査を勝ち残った3名のファイナリストがBackpack Festa本番会場のステージにてプレゼンし、オーディエンスによる会場投票によって優勝者が決まる。
幸運にも私は審査を勝ち進め、ファイナリストに選出された。
私はステージの上で語った。私の人生を変えたイスラエルのことを。
メディアの発信するイスラエルという国の持つ危険なイメージと、私がこの足で歩き、この目で見てきたイスラエルという国の美しさとのギャップを。
この世界にはまだ見ぬ世界も、「知ったつもり」になっている世界もたくさんあるのだということを。
この足で歩き、この目で見る以外にこの果てしなく、美しい世界を知る術はなく、その経験は自分の世界をも変える力があるのだということを。
我々の前には平等に「橋」が一本架けられているのだと。橋は脆く、頼りなく映るかもしれない。足を踏み外し、暗い谷底に落ちる恐怖に足はすくむかもしれない。しかし、橋を渡る以外に対岸に辿り着く手段はない。橋を渡るために必要なのは「踏み出す勇気」だけであるのだと。
そして、恐怖を乗り越え辿り着いた対岸には見たこともない景色が広がっているのだと。
この我々の前に架けられた一本の狭い橋こそ我々の生きる「世界」なのだと。恐れずに踏み出す勇気を持ちさえすれば必ず素晴らしい景色と出会えるのが、我々の生きるこの世界なのだと、私はステージの上に立ち、緊張に震える足で踏ん張り、2000人近い観衆を前に語った。
手応えはあったが、「世界一周」のチケットにはあと一歩届かなかった。
しかし、このDREAMへの参加を通し、多くのかけがえのない生涯の友人と出会った。
優勝はできなかったが「世界一周」は既に、私の次なる挑戦として私の内に確かな形を成そうとしていた。
私は大学卒業後、自分自身で世界一周の旅をするのだと、自分でも明確に意識しないまま心に決めていた。周りは慌ただしく社会に出るための支度を整え始めている時期だったが、私は就職活動を一切することなくバイトを掛け持ちし、旅の資金を貯め始めた。
いよいよ大学卒業が近づいてきた時、私はどの国をどのくらいの期間旅するのかを具体的に計画し始めた。そしてその時、ただ各地を見て回るのではなく、その国々でその国に住まう人たちと交流し、その文化に触れることなくして私の旅は旅たり得ないことに気づいた。
私は急遽、計画を変更し英語を学ぶためにオーストラリアへ飛ぶことを決めた。
オーストラリア時代(2018-2020)
オーストラリアへ発つ前に、日本の友人たち、DREAMで出会った仲間たちに挨拶をしようと思った。鹿児島、大分、福岡など九州の各地に会いたい人たちがいたので、丁度いいからヒッチハイクで九州を周ることにした。
5日間で24台の車に乗せてもらうことができた。
ヒッチハイクというのはこれまでの一人旅と異なり、人との出会いがなければ前に進めない。旅を続けるほどに必然的に人との出会いがあった。私を拾ってくれた人たちだけではない。「車じゃないから乗せてあげることはできないけれど」そう言ってコンビニでおにぎりとお茶を買って手渡してくれた人がいた。出会いの数だけドラマがあった。旅の道中、亡くなった祖父の存在を近くに感じるような不思議な巡り合わせもあった。その全ての物語をここに書き記すことはできない。
しかし、またあんな旅がしたい、そう思わせてくれる素敵な出会いに満ち溢れた楽しい旅だった。
オーストラリアには合計で18ヶ月間滞在した。
最初の9ヶ月間は学生ビザで入国し、メルボルンという都市にある英語学校に通った。最初の1ヶ月間はホームステイを申し込んでいた。
異国の文化に触れ、馴染むのにはホームステイは最良の手段だという確信があった。期待に胸膨らませ家の門を開けると、出迎えてくれたのはフィリピン人のご夫婦だった。当然オーストラリア人の家庭にホームステイするものだと思い込んでいた私は、まったくガッカリしなかったといえば嘘になってしまうだろう。
私の他に2人のブラジル人、チャゴとカイオーがホームステイしていた。チャゴは日本が大好きで、日本語も多少話せるので私と日本語で話したがった。カイオーは全く英語が話せなかったが、ポルトガル語の他にスペイン語を話した。フィリピン人の旦那さんは少しスペイン語が話せた。
つまり、一つ屋根の下で公用語は英語でありながらご夫婦はフィリピンの言語であるタガログ語で会話し、ブラジル人同士はポルトガル語で会話し、チャゴと私は日本語で会話し、カイオーと旦那さんはスペイン語で会話するというグローバリズムを展開していた。
バイト探しは苦労したが、英語の勉強は楽しかった。言語も文化も価値観も異にする人たちと机を並べ、意見を交わし合う空間は刺激的だった。
メルボルンはコーヒーとアートの街として知られ、授業後にはカフェでコーヒーを飲みながらおしゃべりをしたり、ビリヤードをしたり、週末にはレンタカーを借りてドライブを楽しんだ。
勿論、世界一周の準備期間として英語習得を志していた私は、英語の勉強に時間を惜しまなかった。
8ヶ月間の学習の成果として私はケンブリッジ英語検定FCE(TOIECの650〜750点程度)に合格することができた。
学生としての滞在を終えようとしていた頃、DREAMで出会った友人が立ち上げたNPO法人LES WORLDが私の帰国するタイミングと時を同じくして、アフリカにあるモザンビークという国でスラム街で暮らす子供たちとミュージカルの映画を撮影するワークショップを行うという報せを目にした。
これまでもワークショップの情報を目にするたびに参加したいという希望はあったものの、オーストラリアに滞在していたこともあり、なかなか機会に恵まれなかった。
しかし、今回は帰国のタイミングと重なる。参加の意思を友人である法人代表に伝えた。
問題だったのは航空費だ。アフリカまでの航空券は高額だった。学生ビザでは労働時間に制限があるので仕事を見つけるのには苦労していた。イタリアンレストランで皿洗いや、ケータリングのバイト、ウーバーイーツドライバーなどしていたが、モザンビーク行きの航空券を賄えるほどの貯蓄はない。
私は治験に参加することにした。未だに正式名称まで正確に記憶しているが「真性赤血球増多症に関する新薬の治験」に参加した。人生で初めての治験だったが10日間の入院及びその後10回の来院検診で確か20万円近くの報酬だったはずだ。とにかく退屈でやることがなく、もう2度としないと固く誓ったことを覚えている。
モザンビークまでの旅費を手にした私には、もう一つ重大な問題が残っていた。モザンビークに入国するためにはビザが必要なのだが、そのビザを申請するためにパスポートを日本の大使館に郵送する必要があったのだ。
(海外滞在経験がある方は海外でパスポートを手放す心細さを十分に理解していただけることと思う。)そのパスポートを郵送してから2ヶ月以上経つのに一向に返送されてこない。まだかまだかと待っていた。何とオーストラリアを出国する当日になってもパスポートは私の手元に戻って来てなかったのだ。朝から郵便局に電話を掛け、私のパスポートがあるという郵便局に直接取りに行った。郵便局に駆け込み、事情を説明するとたった今、配達員が配達に出たという。急いでその配達員に電話してもらい、遂に私はパスポートと再会することができた。
安堵に胸を撫で下ろし、駅に向かい、バスで空港に向かおうとしたところで異変に気づいた。私のスーツケースがない。郵便局にパスポートを取りに行く間だけだからとお金をケチってロッカーに鍵をかけなかったせいで、警察に危険物を疑われ回収されてしまったのだ。
私は再び大慌てで警察に行き、スーツケースを回収することができた。正直この辺りはパニックすぎてあまり記憶がない。なにせ私はもうこの日で国を出るつもりで、家も引き払い貯金もほぼなかったのだ。帰国できなかったら路頭に迷う以外にない。
どうにかこうにかスーツケースを取り戻し、もう飛行機に乗り込むだけだと安心していた。しかし、まだ終わりではなかった。
私はあらゆる手段を用いて格安の航空券を予約していた。そのせいで乗り継ぎは2回あるし、とんでもなく時間もかかる。しかし問題はそこではなく格安の航空会社を2社使って帰国するルートだったのだが、預け荷物を予約していたのが1社のみで、オーストラリアから出発する飛行機に預け荷物は含まれていないというのだ。スーツケースを預けるには当然、お金がかかる。しかし私はほぼすっからかん状態。終わった、と思った。もう荷物は全てここで捨てて身一つで帰国する以外にない。そう覚悟した。そして念の為、デビットカードの残高を確認した。私は目を疑った。丁度スーツケースを預けられる程度の金額が表示されていた。後で分かったことだが、数ヶ月前に借りたレンタカーのデポジットがちょうどその日に返金されていたのだ。
こうして私がかつて経験したことのない、これから先も経験することのない(というよりしたくない)、超絶滑り込みギリギリ帰国を成し遂げたのだ。
モザンビークでの日々は、毎日があまりにも非日常だった。
これまでに私が旅してきた国の中で間違いなく生活水準が一番低い国だった。
屋外に設置されたトイレ兼浴室には壁が3方向にしかない。天上もない。つまり部屋の体をなしてすらいない。用を流すのも身体を洗い流すのも貯めた雨水を使う。
夜は蚊に悩まされた。しかも蚊はマラリヤを始めとする病原菌の媒体の可能性があるので痒いだけではすまされない。
そんな環境に身を置きながら子供たちとミュージカル映画の制作に挑むというのは、あまりにも刺激的だった。通訳を交えながら何とかコミュニケーションを図り、大した機材も持たず、スタッフも学生や若者が中心だった。撮影時間以外はひたすらに子供たちと追いかけっこをしたり、音楽に合わせて踊ったりしていた。一瞬一瞬が輝いていた。
トラブルも多かった。
最も印象的なのは、夜中全員が寝ていた頃に突然警察がやってきて、全員トラックの荷台に詰め込まれ、連行されてしまったことだ。外国人が大人数でやってくることなどない小さな島の小さなスラムだったので、近隣住人がテロリストではないかと通報したらしい。
想像してみてほしい。遠く離れたアフリカの島で、夜遅くに屈強な黒人警察官に突然連行される状況を。
私一人だったら恐怖で泣いていたと思う。
しかし、幸いなことにこの数日間濃密な時間を、苦楽を共にしている仲間たちと一緒だったためにこのハプニングを楽しむ余裕すらあった。その後もパスポートを全員没収されたり、警察署の敷地内に何時間も軟禁されたり、色々あったが何とか解放された。
病気も多かった。仲間の一人がデング熱で倒れ、また一人が腸チフスで倒れた。そして私も高熱で倒れた。私は一体何の病気だろうと気を揉みながら診察を受けた結果、医師からは「何の病気かはわかりません」と言われた。
色々あったが映画は何とか完成した。
グリム童話「ハーメルンの笛吹き」の後日譚として子供たち自身が考えたストーリー。「家族愛」をテーマにした10分程度の短い映画だが、是非多くの人に見てもらいたい。
さて、アフリカから帰国した私は再びオーストラリアへと舞い戻った。
世界一周の旅の資金を全て英語学校の学費に費やしてしまったので、再びお金を貯め直す必要があった。
今回はワーキングホリデーというビザに切り替えて、ブリスベンという街から電車で1時間ほどの郊外にある苺畑で収穫の仕事を始めた。
収穫の仕事は歩合制だった。多く摘めれば摘めるほど、多く給料がもらえる。
トロリーと呼ばれる足で押しながら進む三輪車のようなものに乗って、苺の畝の間を進みながら苺を摘んでいくのだ。
ハイシーズンと呼ばれる苺の収穫量が多くなる季節には朝、日の出前から陽が沈むまで苺を摘み続けた。そしてこのハイシーズンの季節は休みがない。広大な畑を100人がかりで三日かけて苺を摘む。四日目には一日目に摘んだ畑にまた新たな苺が実るのでまた三日かけて摘む。それを延々と繰り返す。肉体的にとてもハードな仕事だが、歩合制なので頑張れば頑張った分だけお金は稼げる。収穫量は毎日ランキング形式で発表され、上位10名を「トップピッカー」と呼んでいた。(収穫業務をピッキング、その従業員をピッカーと呼んでいた。)私は最初の2、3ヶ月はランキングの真ん中あたりをうろうろしていたが、コツを掴んでからはトップピッカーの仲間入りを果たし、最高で2位まで上り詰めることができた。
毎日炎天下の中で肉体労働するこの日々はハードではあったが、充実していた。休憩時間に畑の真ん中でかけっこしたり、仕事終わりに星空を見に車を走らせたり、たまの休みの日にはパーティをして酔い潰れたり、出会いや別れの多い楽しい日々だった。
ハイシーズンが終わり、収穫量の減りと共に稼ぎも少なくなったところで、アデレード郊外の精肉工場で働き始めた。
朝の4時から昼の12時まで、ベルトコンベアで流れてくる箱詰めの冷凍牛肉をただひたすらにパレットに積み上げていく仕事だ。
これまでに様々な仕事をしてきたが肉体的な過酷さで言えばこの仕事が最も過酷だった。何しろ絶えず流れて来る26kgの冷凍牛肉を、身長が177cmある私の目線と同じくらいの高さまで、ただひたすらに積み上げ続けなくてはならないのだ。
痛み止めを飲みながら働き続けて数ヶ月が経った頃、コロナが世界に蔓延しつつあるニュースを頻繁に目にするようになった。体力的に仕事を続けるかどうか悩んでいた時期でもあったために、帰国する決断をした。
結果的にこの決断は正しかった。
オーストラリアに残る友人も少なからずいたが、失職するだけでなくオーストラリアはロックアウトを断行したので、帰国が不可能になる友人もいた。アジア人というだけで攻撃的な態度をとられた友人もいたようだ。
こうして不意に私のオーストラリア滞在は幕を閉じた。
熊本時代3(2020-2022)
帰国した私は、コロナが落ち着いたらまた世界を旅しようと考えていた。そこで帰国後すぐに就職しようとは考えず、ひとまずコロナが落ち着くまでバイトをしようと考えた。
いくつかバイトの面接を受けたが、紆余曲折あり母の知り合いのツテで保育園で働き始めた。
これまでも私の人生は予想外の出来事の連続であったが、私が保育士として働くことになることは私自身全くの予想外であった。
最初はほんのお手伝い気分で週に何日か雑務を手伝いに行っていたが、子供好きの性分にも合い、仕事が楽しかった。子育て支援員という保育園で働く資格も取得し、フルタイムで働き始めた。
仕事は楽しかったが、「コロナがすぐに落ち着く」そして「また世界を旅できる」という考えが現実的ではないことに気づき始めていた。
私は正社員として日本で働くことを決めた。
保育園を退職した日に綴ったnoteもあるので興味のある人は是非読んでみて欲しい。
大学在学中に一切の就活を経験しなかった私にとって、最初の就職活動となった。初めはアプリを使って正社員採用をしている会社を見つけて履歴書を送ったりしていたが、あまり興味を惹かれる仕事は見つからなかった。
そこで考え方を改め、「募集している会社」を探すのでなく、まず「働きたい会社」を見つけて、そこにアプローチすることにした。
熊本で一番大きいホテルにメールを送った。
私は接客が好きだったし、これまで保育園でエプロン姿で毎日働いていたので、スーツを着てかっこよく働いてみたいという割と浅い動機もあった。
一度見学に来ないかという返信をもらい、その後働く意思があれば来春の新卒採用を受けてみないか、という話をいただいた。
そして2021年4月1日、同年代とは随分遅れて新社会人としてのスタートを切ることになった。
大学在学中にイスラエル留学のために学校を一年間休学した私は、同期とは少し歩く歩幅がずれ、彼らよりも一年遅く卒業した。卒業後は一般的な進路とは違う道を歩くこと決め、海外で生活していた私が、こうして再び「同期」を得ることができた巡り合わせは嬉しいものだった。歳が8つ下の同期も年下の先輩もいたが、学びの多い職場だった。
結果的に一年で転職してしまうのだが、私を非常に高く評価してくれていた。内定者代表者挨拶に選ばれただけでなく、一年間ある研修期間も6ヶ月間で終了し、ホテルの顔であるフロント業務に引き抜かれ配属された。
退職に際しては上司だけでなく役員、最終的には社長室に呼ばれ、社長自ら引き留めの説得を頂戴した。
残っていれば幹部の一人として将来が約束されていたことだろう。しかし、私は自らの決断と挑戦を後悔したことはないし、誇りに思っている。
転職のきっかけは私が書いたnoteの記事を読んだ友人がメッセージを送ってきたことだった。詳細は割愛するが、彼が立ち上げたITベンチャー企業で一緒に働かないか、という話になった。
このIT企業の代表を務める友人こそ、アフリカのモザンビークで一緒にミュージカル映画の撮影をした時の仲間の一人だったのだ。
つくづく、縁に生かされている人生であることを実感する。
モザンビークで一緒に時間を過ごしていた時は、まさか将来同じ会社で働くことになるとは夢にも思わなかったのだ。
福岡時代(2022-2024)
文学部文学科を卒業し、その後いちご畑と保育士、そしてホテルマンというテクノロジーとは縁遠い仕事をしてきた私がITの世界に飛び込むということはワクワクもあり、同時に恐ろしいことでもあった。
私が働いていた会社はインドと日本、二拠点を展開する会社で、インド人たちと共に仕事をしていた。日本語でもさっぱり分からないことを、英語でインド人と議論しなければならないのだ。
大変な二年間だった。しかし成長と刺激に満ちた、かけがえのない貴重な二年間だった。大変だったからこそ、得難いものを得ることができた二年間だった。2023年の秋には実際にインドに赴き、1ヶ月間滞在した。それまで画面越しにしか知らなかった仕事仲間と対面で会話し、彼らの日常に触れ、仕事以外のたわいもない会話をし、共に食事をし、彼らと共に時間を過ごせたことは素晴らしい体験だった。
そして30歳という人生の節目が近づいてきた時、私は私の生まれ故郷をこの目で見たい、そう考えるようになった。記憶には残っていない私の生まれ故郷を。
アメリカ時代2(2024-現在)
サンフランシスコ郊外にある私の生家を訪れた体験は、これまでの旅の感動のいずれとも違っていた。何とも形容し難い、不思議な感動が私を包んでいた。目に映る全ての景色はありふれているのに、何の変哲もない家、道路、街路樹であるのに、その全てが私にだけは「特別」なのだ。過去の生まれたばかりの私自身と対面したような不思議な体験だった。
私がアメリカに来る決断をした心境を綴ったnoteの記事がある。
この記事を読んでいただければ分かるが、私は希望と期待だけに胸を膨らませてこのアメリカの地に来たわけではなかった。
貯金もろくに持たず、住む場所も働く場所も何も決まっていない。「無策」と呼んで差し支えない状態でアメリカへ飛んだ。
アメリカに来た一つの目的「自身が生まれ育った家を訪れる」を果たした私は、今度はこのアメリカで生きていくすべを見つける必要に迫られた。
詳細は割愛するが、ノープランでアメリカに来てから1ヶ月の間に仕事を見つけ、車を購入し、シェアハウスに引っ越した。
車を購入したのは生まれて初めてのことだった。
そして気づけば今、こうして私はアメリカでショーカーを製造する会社でプロジェクトコーディネーターとセールスとして働き、30歳の誕生日を私が生まれた国で迎えることができている。
不思議なものだ。
高校生の時、イスラエルを訪れていなければ私は熊本大学に合格することも、イスラエル留学に行くこともなかっただろう。
イスラエル留学に行っていなければ、私はTABIPPOと出会い、DREAMという舞台に立つことはなかっただろう。
DREAMの舞台に立っていなければ、私は世界一周を志してオーストラリアに旅立つことも、LES WORLDと出会い、アフリカを訪れることもなかっただろう。
アフリカに訪れていなければ、文系の卒である私がIT企業で働くことはなかっただろう。オーストラリアで英語を学んでいなければ、インド人と共に働くIT企業で働くことは叶わなかっただろう。
IT企業でプロジェクトマネージャーとして働いた経験がなければ、今アメリカでプロジェクトコーディネーターとして採用されることはなかっただろう。オーストラリアで英語を学んでいなければアメリカでの生活は、仕事探しはもっと困難を強いられただろう。
全ては繋がっているのだ。私の歩いてきた「路」は人の縁によって開かれてきたのだ。
スティーブ・ジョブズも語っていた。「点と点を繋ぐ」という行為は「振り返ってみることでしかできない」と。高校生の時、たった2週間イスラエルを訪れたという「点」がその後の人生の「点」に繋がっていくことを、「その当時の私が理解する」ことはできない。今、私がアメリカで生きているという「点」がこれからどのような「点」と結びついていくのかを「今の私」が予見することなどできない。
私たちはただ、「信念」を持って行動することしかできない。今私たちが立つ「点」が必ずいつかどこかで一本の「線」になるのだという「信念」を。
二十歳の誕生日はイスラエルで迎えた。三十歳の誕生日はアメリカで迎えた。私の「信念」は四十歳の私をどこへ導いていくだろう。
拝啓、10年後の私へ
どうか本を読む習慣を続けていてほしい。読書はこれまでの私の人生を豊かにしてくれた。これからの私の人生もきっと豊かにしてくれると信じている。
どうか筋トレの習慣を続けていて欲しい。残念ながら私に筋トレの才能はない。しかし、もっと残念なことにそれは私が努力を怠って良い理由にはならない。
どうか何かに挑戦する姿勢を失わないでいて欲しい。私が唯一私自身を誇りに思うことがあるとするならば「物怖じしない姿勢」だ。それは「怖いもの知らず」とは似て非なるものだ。私は恐怖しないのではない。私は恐怖にその足を震わせようとも、踏み出してきたのだ。そのことを10年後の私もきっと誇りに感じていることだと思う。
どうかこれからも「今」を精一杯生きて欲しい。人生で最も大切な時間はいつか。それは過ぎ去った過去でもなく、誰も知る由もない未来でもなく、「今」この瞬間であることを、どうか忘れないでいて欲しい。先に書き連ねた過去とは私が生き抜いた「今」の積み重ねであり、未来とは私が立っている「今」の延長線にしか存在しない。「今」この瞬間を後悔せずに生き抜くことが私の「後悔しない生き方」だ。
10年後の私へ、きっと今の私が想像もしていない場所に立ち、想像もしていない事をしていることだろう。
そうであって欲しいと、私は思う。