キリスト教の祈りとは何か。
執筆日:2024年1月16日(火)
更新日:2024年1月16日(火)
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弟子
【弟子】:新約聖書の福音書に出てくる主イエスの弟子たちは、ルカにによる福音書を書いたルカが続いて書いた使徒言行録で、「使徒たち」と呼ばれるが、使徒たちと呼ばれる人がいなくなると、キリスト者全部を「弟子」と言うようになる。日本語のキリスト者は、英語のクリスチャンであるが、聖書の本来の呼び名は「弟子」である。この呼び名は、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイによる福音書28:19)からわかる。さらに、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハネによる福音書13:14)の「師(師匠)」に対する「弟子」からも言える。つまり、キリスト者であり、キリストの弟子は、主であり師であるイエスのまねをすることができるようになったのである。ルカによる福音書が語るように、弟子たちは、主イエスの祈る姿をまねたいと願ったのでしょう。
主の祈り
主の祈りは、まず父を呼ぶ言葉から始まる。加藤常昭氏は、鎌倉雪ノ下教会の人たちが自分たちの信仰を言い表している書物『雪ノ下カテキズム』※1で、救われた者の喜びとは何かについて、「『アッバ』と私の父、私たちの父と呼ぶことができる喜びに尽きる」と書き記している。神を信じるとは、神を父と呼ぶことであり、祈りは父を呼ぶことから始まる。そこで、求道者を指導する場合、大切なことは神を求めることであり、「天の父よ」と呼べる祈りができるようになることである。
※1:加藤常昭著『黙想と祈りの手引き』キリスト新聞社, 2006, p.20
祈りの基本である主の祈り。その前半は、神のための祈りである。ルカによる福音書では、次の①から②、マタイによる福音書では、次の①から④である。①神の御名が崇められ、②神の御国が来るように、③神のご支配が確立され、④神のご意志が地上で実現するように祈る。神が神として尊ばれるように、まず私たちはこの祈りに集中する。これらの祈りは、神ご自身のために求められる。私たちの助けなど全く必要としない神が、私たちの祈りを求めているのである。
主イエスは、ルカによる福音書にて、主の祈りを祈るようにと教えてくださった後、以下のたとえ話をなさった。
この主のご命令に従い、求めること、探し求めることなどが主の祈りで大切なことである。主はそれを持っておられる。では、何を求めたら良いのか、それは、子どもに役立つ「良い物」である。神の子である私たちにとって良い物とは、何か。それは、「聖霊」である。
聴かれる祈り
祈りを考えるときの問題には、祈りが聴かれるか聴かれないか、ということがある。その時に、改革者ルターが『今日、ルターと共に祈る』※2の中で、以下のように語っている短い祈りを思い出して欲しい。
この短いルターの祈りは、願い求めるとき、その祈りが必ず聞きとどけられると信じることを神が命じられている。そして、自分の存在を神にお委ねすることが、祈りであることがわかる。最後に、何を祈り求めているかを語っている。私たちは、聖霊が与えられたとき、正しい信仰が生まれるが、時として、信仰が狂ったり、間違えたりする。だからこそ、間違わない正しい信仰を「与えてくださる」と信じているのだ。その語尾は、「与えてください」ではなく、「与えてくださる」と、神を信じていることが断定できる。
ルターの祈りの手掛かりは、次の主の言葉、聖書の言葉からもわかる。
山が動く?山が海に変わる?一般的な常識では考えられないこのたとえ話を通して、主の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになると断言している。主は、祈りがやがて聴かれるということではなく、祈っていることはすべて既に成就していると、約束してくださっているのである。「そうすれば、そのとおりになる」と、祈りの確信を表現している。祈りは聴かれる。必ず願いは聞きとどけられると信じることを神は、命じている。だからこそ、すべてを委ねて祈りは、聴かれるのである。
ミニマムな祈り
「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(マタイによる福音書6:7-8(新共同訳))と、主が命じられているように、私たちの祈りは長すぎるし、くどすぎるかもしれない。教会では、順次皆で祈るときがある。人前に祈ることを苦手とする人は、私を含めて多かれ少なかれいらっしゃると思う。加藤常昭氏が祈らなくてもいいからと、受難週に毎日朝夕行われる祈祷会にてある求道者を誘った際、「神さま、信じさせてください。私は信じたいのです。アーメン」※2と、その求道者が祈ったと言うのである。加藤常昭氏は、「神さまを信じたい、それでいいのです。これもフランチェスコの祈りに重なる。フランチェスコもすべてを捨てて、羊飼いである神の名を呼ぶだけでした。『おお、神よ』と。」※2と、自著で述べている。このミニマムな祈りは、冒頭で述べた主の祈りの始まりである「天の父よ」と呼ぶことと、同様と言える。そして、洗礼を授かれていない、キリスト者ではない求道者に対して、主を信じたいと、願い求めることが祈りの真理であり、すべてである。
※2:加藤常昭著『黙想と祈りの手引き』キリスト新聞社, 2006, p.141
黙想と祈り
加藤常昭氏は、「黙想は祈りではない。しかし、祈りは黙想を必要とし、黙想は常に祈りとなる。祈りは、神との交わりである。神との言葉の交わりである。神の言葉を聞き続ける。そのとき求められるものは沈黙である。しかし、言葉は発しないが、内的には集中的に、激しいほどに神の言葉を味読する営みである。」※3と、語っている。また、デンマークのキリスト者で優れた思想家でもあったキェルケゴールの祈りついて、次のように語っている。
※2:加藤常昭著『黙想と祈りの手引き』キリスト新聞社, 2006, pp.64-65
黙想とは、神との対話であると言える。何も言わず黙っているように見えるが、神が語りはじめるのを待つときであり、神の言葉を聴く沈黙の行為と言える。祈りであり黙想は、「天の父よ」と、神を呼び、こころを開き、願い求め、神の言葉を聴くことである。このことは、祈りが、待ちつつ祈ることであるとも言える。主はすべてを知っていてくださり、必ず約束を果たしてくださる。まさに、コヘレトの言葉3章1節で語られているように、「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」と言える。
詩編119篇130節の神の言葉は、「御言葉が開かれると光が射し出で 無知な者にも理解を与えます。」と、語られている。この御言葉は、すーっと、何も抵抗がなく、私の中に沁み込む感覚をもつ。天の父に祈るとき、私は一切の光が射し込まない暗闇の中に存在している感覚をもつのである。身体的に数多くの情報が取り込まれていても、その情報をシャットアウトし、神との対話だけに、意識を向けているのである。私の作品は、色彩豊かな作品でもなく、ただただ真っ黒な作品である。まさに、沈黙しているかのような作品でもある。表面的な印象は、白鳥が優雅に泳いでいるようで水面下では足をバタバタしているかのように、沈黙しているようで、神の言葉が光の矢の如く、私たちに放たれるのを待っているのである。まさに、待ちつつ祈っているのである。
つづく
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