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論語と算盤①処世と信条 7.人は平等なるべし

才能の適不適を察し、適材を適所に置くということは、多少なりとも人を使う者の、常に口にこれを言う所であって、しかしてまた常に心にこれを難ずる所である。さらにまたおもうに、適材を適所に置くということの陰には、往々にして権謀(けんぼう、臨機応変のはかりごと)の加味されている場合がある。自己の権勢を張ろうとするには、何よりも適材を適所に配備し、一歩は一歩より、一段は一段より、漸次(ぜんじ)に自己の勢力を扶植(ふしょく)し、漸次に自己の立脚地を踏み固めて行かなければならぬ。かように工夫するものは、遂によく一派の権勢を築き上げて、政治界に処しても、事業界に処しても、ないしなんらの社会に処しても、厳然として覇者の威を振るうことができるのである。しかし左様な行き方は、断じて私の学ぶ所ではない。
わが国の古今を通じて、徳川家康という人ほど巧みに適材を適所に配備して、自家の権勢を張るに便じた権謀家は見当たらない。居城江戸の警備として、関東は大方譜代恩顧(ふだいおんこ)の郎党をもって取り固め、箱根の関所を控えて大久保相模守を小田原に備え、いわゆる三家は、水戸家をもって東国の門戸を抑え、尾州家をもって東海の要衝を扼(やく)し、紀州家をもって畿内の背後をいましめ、井伊掃部頭(いいかもんのかみ)を彦根に置いて、平安王城を圧したなんど、人物の配備は実にその妙を極めたのである。その他越後の榊原、会津の保科(ほしな)、出羽の酒井、伊賀の藤堂(とうどう)にしても、且つは中国九州はもちろん、日本国中到らぬ隈なく、要所には必ず自家恩顧(じかおんこ)の郎党を配備し、これはと思う大名は、手も足も出ぬように取り詰め、見事に徳川三百年の社稷(しゃしょく)を築き上げたのである。かくして得たる家康の覇道は、わが国体に適うものであったか否かは、私があらためて批評するまでもないが、ともかくも適材を適所に置くという手腕においては、古今家康に企及(ききゅう)し得るもの、わが国史にはその匹儔(ひっちゅう)をもとめがたいのである。
私は適材を適所に配備する工夫において、家康の故智にあやかりたいものと、断えず苦心しているのであるが、その目的においては全く家康にならう所がない。渋沢はどこまでも渋沢の心をもって、我と相ともにする人物に対するのである。これを道具に使って自家の勢力を築こうの、どうのという私心は毛頭も蓄えておらぬ。ただ私の素志は適所に適材を得ることに存するのである。適材の適所に処して、しかしてなんらかの成績を挙げるとは、これその人の国家社会に貢献する本来の道であって、やがて、またそれが渋沢の国家社会に貢献する道となるのである。私はこの信念の下に人物を待つのである。権謀的色彩をもってその人を汚辱し、自家薬籠(じかやくろう、手中にあっていつでも使えて役立つもの)の丸子(がんし、丸薬のこと)として、その人を封じこめてしまうような、罪な業は決して致さぬ。活動の天地は自由なものでなければならぬ。渋沢のもとにおりて舞台が狭いのならば、即座に渋沢とたもとを分かち、自由自在に海濶な大舞台に乗り出して、思うさま手一杯の働き振りを見せて下さることを、私は衷心(ちゅうしん)から希(こいねが)っている。我に一日の長あるがために、人の自らいやしゅうして私の許に働いてくれるにしても、人の一日の及ばざるのゆえをもって、私はその人をいやしめたくない。人は平等でなければならぬ。節制あり礼譲(れいじょう)ある平等でなければならぬ。私を徳とする人もあろうが、私も人を徳としている。畢章(ひっきょう)世の中は相持ちと決めておるから、我も驕(おご)らず、彼も侮(あなず)らず、互いに相(あい)許して毫末(ごうまつ)も乖離する所のなきように私は勤めておる。

本節では、渋沢先生自らは権謀家には興味がないといいつつも、家康公の適材適所の巧みさには感服され、その故智にあやかりたいとおっしゃっています。家康公の場合は争いの絶えない日本全土の武家を力をコントロールすることでどう安定化させるかという適材適所でありましたが、渋沢先生の場合は目的は全く異なるとおっしゃっています。先生は、全国にいる自らと相ともにする人たちと節度があり礼儀をもつ平等を保ちながら、お互いの徳を信じて国家社会に貢献してくれる人物を適材適所を見極めながらうまく支援したいとおっしゃっているように思われます。

一方、私の場合、大学教師としての立場と民間会社のCTOという立場でこの渋沢先生のおっしゃるところの適材適所を実現したいと思っています。

大学は元来自由な学問の場なので何かにしばられることはなく教育や研究内容は自由であるべきです。しかし今のご時世、特に地方の私立大学では実学を教えたり、実践することで大学自身が地域に貢献したり、卒業していく学生が社会で活躍できる素地を教えることが期待されています。そういう実学を教える民間の人材ということで私にもお声がかかったと感じています。そこで自由と実学を両立させるにはどうするかというと、具体的な教育内容や実学で使用するツールについては必要に応じて決められる自由度をもちつつ、普遍的なプロセスを元に教育を行うのが適切なわけです。

例えば私の所属する学科で大切としている「人間中心設計」の本来の意味は「ユーザが満足することを第一に考え商品やサービスのデザインをする方法」のことで、誰がどこでいつ何をするのかを常に考えます。具体的には、人間中心設計が規定された「JIS Z 8530」ではプロセスが規定されていて、「①利用状況の把握及び明示」、「②ユーザ要求事項の明示」、「③ユーザ要求事項を満たす設計案の作成」、「④要求事項に対する設計の評価」の4つの活動を繰り返し行うこととなっています。ここでは作成することが好ましい成果物が規定されているものの、具体的などのようなツールを使うとかテクニックを使うといったことは明示されておらずここに学問の自由がちゃんと用意されているわけです。そのため、大学にて本来やるべきことは普遍的な考え方やプロセスは一にするものの適材適所で授業を配置して学生に選ばせればよく、一つのツールや一つのアルゴリズムに固執してそれを教師や生徒に独裁的に強制すべきではないのです。

また、CTOとしてお手伝いしている会社では、スマホアプリなどからインターネット経由で処理依頼を投げるとJSONというデータ形式でレスポンスを返してくれるREST APIというしくみを専門としてそのプラットフォームを作っていますが、私自身の健康上の問題もあるので最近ではほぼすべて後輩たちにまかせています。これも最初からほったらかしにしていたわけではなく、年の功ということで初めにデザイン原則と方針を決めて大枠の設計を終わらして、それをうまく適材適所で部下たちに分配して仕事をしてもらっています。もちろん相当特殊な技能なので最初からみんなが作業できたわけでなく、学習してもらいながら進めているのですが、こちらも少しハードルが高いくらいがちょうど若いエンジニアもやりがいがあるらしく、いまでは相当なレベルのエンジニアに育ってくれています。頼もしいものです。

このように締めるところは締める、自由なところは思いっきり自由にして適材適所の人材にまかせる、といったことが大事であるという教えでした。



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