随筆20 心さえ潔白であれば身の苦しみなど何ともない
沢庵宗彭
以下、ウキウキペディアより
8歳のとき但馬山名家は織田信長の侵攻に遭い配下の羽柴秀吉に攻められて滅亡し、父は浪人した。沢庵は天正10年(1582年)、10歳で出石の唱念寺で出家し春翁の法諱を得た。
φ(・ω・*)フムフム…なるほど、1582年って本能寺の変のとき。沢庵が起こした説も考えられるな✨でも8歳なら秀吉に拾われた可能性もあるか…。なんて妄想したりして。
慶長4年(1599年)、石田三成が居城佐和山城の城内に亡母の供養のために瑞嶽寺という一寺を建立した際、三玄院の建立以来親交があった春屋に住職の派遣を依頼した。春屋が薫甫を住職に任命したことで、師である薫甫と共に沢庵も佐和山城に同行し、翌年までそこで過ごした。
ふ~ん。なら三成側になるのか。家康とは対立している立場になるのかな。
関ヶ原の戦いの結果、佐和山城が陥落すると、薫甫と沢庵は共に城を脱出し、春屋のところに落ち延びた。この後、春屋と共に、処刑された三成の遺体を引き取った後、三玄院に葬り、手厚く弔っている。
おぉ~。それなりの立ち位置にいることが伺えるね。そう考えると秀吉と親交が深かったりしたのかな。
慶長6年、薫甫が亡くなった後、和泉国堺に出て、文西洞仁の門下に入った。その文西が慶長8年(1603年)に亡くなった後は南宗寺陽春庵の一凍紹滴に師事し、32歳になった慶長9年(1604年)8月4日、遂に大悟し、沢庵の法号を得た。
32歳あたりで沢庵になったのか。じゃあ、短編14は沢庵になったばかりの物語になるのか。それにしても法号…縁のないことだけど、どんな気持ちなのか気になるな。
法号とは受戒した者に師から授けられる名。また、死者に僧が与える名。法名。戒名。
あとは、ちょっと長いから気になった事を抜粋しよう。
幕命に反するものとして、有罪となり、出羽国上山に流罪となった。配流先である上山藩主が心を打たれた沢庵の生き様。
“心さえ潔白であれば身の苦しみなど何ともない”
上山藩主は沢庵に草庵を寄進するなど厚く遇した。
格好いい。言葉ではないようだけど、他人から見てそう思われるって凄いな✨
享年74。死に際し、弟子に辞世の偈を求められ、「夢」の一文字を書き、筆を投げて示寂したという。「墓碑は建ててはならぬ」の遺誡も残しているが、円覚山宗鏡寺 (兵庫県豊岡市出石町)と萬松山東海寺(東京都品川区)に墓がある。
夢か…僕のテーマでもある夢ね。これも縁なのかな。果たして短編14は僕に何を伝えたいのか。続きが気になってきた!✨いくぞっ!沢庵!