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【Netflix版カウボーイビバップ】たった2つの大きな間違い

ネタバレ全開で書いていこう。

11月19日、カウボーイビバップの実写ドラマがNetflixで公開された。
本作は1998年に放映されたカルト的な人気を誇る伝説のアニメ「カウボーイビバップ」が原典だ。

かくいう私もアニメ版に対して並々ならぬ愛がある。私のバイブルといっても差し支えない作品だ。
今回の実写化については、アステロイドベルトの天体よりも多すぎるほどの不安を隅に追いやり、
努めて寛大に、本作を鑑賞した。

今回の実写化には正直な話、期待していた。
オープニング(Tank!)のアレンジメントや、日本語吹き替えのPVを見て「これは安心できるかも」と夢見たほどだ。
だが、話数を重ねるごとに気づいてしまった。
いつの間にか、夢は醒めていたんだ。

▼決して悪くない実写化ではあったが…

最初に断っておくべきは、本実写化は駄作とは断じづらい
クリエイター陣の原典に対するリスペクト、ファンサービスもしっかりと抑えている。
主演陣の配役も、受け入れ難いものではない。
特にジェット役のムスタファ・シャキールは予想以上にハマっていたし、
アニメ版からの声優が続投していた中で、ジェットを演じきった楠大典さんには最大限の賛辞を贈りたい。

原典のエピソードに忠実ながらも、50分というドラマ枠をフルに使って背景説明をしたり、
キャラを立たせようとする努力は決して無視していいものではない。
少なくともこの実写化には目に見える愛があった。
本作を好きになってほしいという愛くるしさがあったことは、忘れてはいけない。

改めて全話視聴後に振り返ってみると、特に最初の2話の完成度が高かった。
いやホント、アステロイド・ブルースとテディ・ボマー回はワクワク感が凄かったというか、原典らしさがあったというか。
空気感、エッセンスは最初の二話が完璧と言える。

本作はアニメの実写化とすれば駄作とは言いづらい。
SNSを見ると、好評の意見が多く見受けられるように、成功と言える実写化なのだろう。

だがしかし、だがしかしだ。私は本ドラマの最終回を受け入れることが出来ない。
たった2つの違いなのだ。原典との2つの違いがドラマとアニメを分断している。
そしてそれは、いうなればたった2つの大きな間違いである。

▼家族を失ったものは家族を求めるのか

実写化における大きな違いの1つ、それはジェットに家族があることだ。
アニメ版はたいてい皆女運がないキャラばかりのビバップだが、
実写版ではジェットに娘がいて、しかも妻の名前がアリサという、そりゃもうアニメ版知ってる人からしたらジェット大勝利な環境なのだが、
ぶっちゃけ言うと家族を持っているからこそ(元家族だけど)、ジェットは実写のほうが悲惨な目にあっているかもしれない。

この大きな違いが、回りまわって大きな間違いになっている点だ。
アニメ版のカウボーイビバップにおいて、ジェットは所帯を持ったことはあれど、それらはすべて過去のものである。
ゆえにジェットはドライであり、無敵の状態にある。
昔の女とよりを戻すつもりはなく、だからこそブラックドッグセレナーデのように、過去は過去として清算をつけることが出来る。

今回、実写ドラマ放映前にアニメ版のカウボーイビバップを振り返った。
そこで気づいたのは、スパイクとジェットという2人に限定しても過去に対する向き合い方に対比があることだ。

どちらも過去に残した置き土産がある。
スパイクはギャングの構成員としての過去。そしてジュリアという恋人だ。
ジェットは警察としての過去。そしてアリサという恋人や愛していた妻がいた。
どちらも過去から追いやられ、どちらも恋人は現れなくなった。

だが、2人の過去に対する向き合い方はまったくもって違う。
スパイクはジュリアが目の前で死ぬその時まで、過去を取り戻そうとした。
ジェットはアリサが目の前にいようが、過去を振り払った。
結果、2人は全く違う結末を迎えたのだ。

思い出や過去は、スパイクにとって醒めない夢だった。ジェットにとってはガニメデの海に投げ捨てた止まり続けた時間だった。
スパイクは過去にとらわれた男だったし、ジェットは今を生きようとする男だった。
ジェットは過去への執着がないからこそ、無敵だったのである。

実写版ではジェットに明確な弱点が生まれたということである。
また、家族の存在によってジェットが持つビバップ号のルールも変化している。

アニメ版におけるジェットの方針は「来る者は選別するが、去る者は追わず」だった。
アニメにおけるビバップ号とは、いわば無宿人の寄合所である。
そこにウェットな関係はなく、もっとドライでビジネス的な関係がモットーだった。
もちろんそれは途中で変化して、言葉には出さないものの疑似家族になっていくわけだが。

だが、実写版は殊更に同乗者を「家族」だったり「相棒」だったり明確に言葉で表そうとする。
ジェット自身が家族という過去を捨てられていないからこそ、ビバップ号に最初から家族を求めている。

実写版カウボーイビバップの大きな間違いの1つがこれだ。
カウボーイビバップは、枠に当てはまったバディもの作品だったろうか。
それとも家族でご覧いただくようなファミリードラマだったろうか。
確かにそれも原典に含まれていた要素かも知れないが、それはカウボーイビバップの一側面でしかなかった。

実写ドラマ版はキャラクターが活躍する機会を増やすために、要素をプラスしてしまったのだ。
だからドラマ版最終回の「スーパーノヴァ交響曲(実質堕天使のバラッド)」において3人が離散。
フェイが自分のルーツを探しに出奔し、ジェットがスパイクを見放すという最悪の結末を迎えることになる。

自分が組織に所属していなかったことを言わなかったスパイクも悪い部分はある。
だがしかし、家族に執着し、ビバップ号にも勝手に家族を求めていたジェットが、
勝手に信じ、勝手に裏切られたというだけに見えて仕方がない。

アニメ版「堕天使のバラッド」では結局、ジェットとスパイクはお互いの過去についてすべてを明かさなかった。
だが、3人はビバップ号に戻ってきた。それは結局のところ、ビバップ号が居場所だったからである。
誰も言葉には出さずとも、そこは紛れもなく家だった。
だがドラマ版はそうはいかなかった。家庭崩壊エンディングだったのである。

▼スパイク・スピーゲルは「失恋したカウボーイ」だったのか

本ドラマのショーランナーであるアンドレ・ネメックは海外メディアのSYFY WIREでこう語っている。

"Spike Spiegel is a cowboy with a broken heart, that really is who he is at his core,"
「スパイク・スピーゲルは失恋したカウボーイであり、それこそが彼の核心です」

えっと…本当にそうだったか?
いやもちろん、このショーランナーが感じ取った感想は否定したくない。
だが、本当にカウボーイビバップは失恋したカウボーイの話だったのだろうか。

スパイクが求めているのは過去に残した愛ではない、自由に生きるということだ。
だが、本当の自由のためにはジュリアという核が必要だった。というだけの話である。
スパイクが必要としていたのは、ジュリアと一緒に自由に生きることなのだ。

演者がそろい、旅を繰り返す中で、いつのまにかビバップ号は疑似家族のような関係性になっていく。
ジェットはそのような関係性に一定線を引いていたが、スパイクはそう見えなかった。
ましてや、素直に関係性を受け入れていたように見える。
「はねっ帰りの女とガキとケダモノが嫌い」と言いながら、なんだかんだ助けに行くスパイクは、
本人としては居心地の悪さや渡世の仁義という形で片付けていそうだが、そういった感情こそが疑似家族特有の感情だと思える。

スパイクが望んでいたものは自由だった。
自由だけでは死んでいるものも同じだった。そこで生きる実感をもたらすのがジュリアだった。
だが、スパイクとビバップ号のかかわりを見ると、ジュリアじゃなくてもよかったんじゃないかと思える。
マフィアの構成員として戦闘に生の実感を得る代わりに、スパイクが見つけた新しい生きる実感とは、
恐らく、誰かと一緒に生きるということだったんじゃないだろうか。

スパイクは失恋をしたわけではない。ただ自由に生きても生きる実感を失っていたカウボーイである。
だからこそスパイクは最後に「自分が生きているかどうか試しに行く」と、疑似家族であるビバップ号から立ち去るのである。

待ち合わせに来なかったのは、生きるために仕方なくビシャスにジュリアが従ったからだ。それだけの話である。
それを失恋というイメージで捉えるよりは、やっぱり「生きる意味を失った」と捉えたほうが腑に落ちる。

第2の大きな間違いはスパイクの核心に対する認識のずれだ。

おかげでスパイク・ビシャス・ジュリアという本作のメインストリームが大混乱を起こしている。
やっぱりビシャスとジュリアが夫婦関係になってるの、全体を振り返るとこの改変が一番よくなかったんじゃないかな…
ドラマ版では義兄弟になっているスパイクに彼女を寝取られて、駆け落ち未遂までされるのに結婚してるのは異常だ。

前半は「あぁこれは誰でも人間不信になるね」という分かりやすい描写をしたんだな、と思っていたものの、
ジュリアが言ったに親友に寝取られた女性を妻として迎えるとか滅茶苦茶頭おかしい。

スパイク・ビシャス・ジュリアこの人間関係がアニメとドラマで根底的にとらえ方が違うのだ。
スパイクとビシャスがジュリアという女性を起点に運命を狂わされるのがアニメ版だが、
スパイクとビシャスがジュリアによって言葉通り狂わされて、最終的にジュリアが一番狂っていたというのがドラマ版である。

重要人物の捉え方が変わったことによる、ドラマ版最終回の「スーパーノヴァ交響曲」
堕天使たちのバラッドの改変要素がとても受け入れがたいのだ。

▼続きを作るなら納得させてくれ

本投稿を書く前、まだエピソード3ぐらいまでしか見てなかった時点では、高評価寄りの文章を書いていた。
が、最終話まで見た瞬間に一気に評価が逆転した。

ドラマ版最終話は「スーパーノヴァ交響曲」というタイトルだ。だが構成は「堕天使たちのバラッド」である。
アニメ版ではスパイクの恩人のマオ・イェンライに賞金がかけられ、過去を紐解いていきながら真相に近づいていく。
フェイを人質に取られ、自分に対する招待状と受け取ったスパイクは教会でビシャスとの決戦に赴くという流れだ。

一方ドラマ版はジェットの愛娘がビシャスに人質に取られ、一芝居打ってスパイクとジェットが救出するも、
逆にはめられてしまい、教会に拉致されてしまう。そこをフェイが助けに来るという逆の展開になっているともいえる。
ドラマ版はこれらの表のシナリオの裏で、ジュリア側にも動きがあり、ビシャスの部下のリンが裏切り、
ジュリアの身柄を開放するという動きがある。

総括するとこの最終回が徹底的に受け入れがたい内容だ。
それが前述してきたような大きな2つの違い。

1つめはジュリアが権力に狂い、スパイクを突き落とし、ビシャスを狂わせるというオチ。
2つめはフェイが離れ、ジェットがスパイクに愛想をつかし、ビバップ号のクルーが離散するというオチ。

これらが最終回を受け入れがたいものにしている。
正直な話、ただの厄介オタクのヒステリーなのかもしれないが、どうも私には受け入れがたいのだ。

これらを受け入れるには、シーズン2を何とかうまく作ってくれるしかないと思っている。
頼むから。ジュリアが完全に敵対するなら色々できるはずだ。
例えば明確に言うとアニメ版の最終回は、ドラマ版のタイムラインでは絶対にありえないことになる。
疑似家族のビバップ号を捨てて、過去に流され借りを返しに行くスパイクは存在しないことになるのだ。

シーズン1だけではどうも腑に落ちない。
シーズン2を作って、清算をしてくれないか。
そしてホントにその気なら、アニメ版とは変わったエンディングを見せてくれると期待させてくれないか。
そうじゃなければ、こんな実写化なんてなかった方がいいんじゃないかと、思ってしまうのだ。

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