虚構は現実であり、現実は虚構である なぜ我々は虚構作品を現実のように想像して理解できるのか。
○はじめに
自分はどのぐらいの量の映画がこの世にあるかが気になり調べたところ現在世界中にある映画の量は200~300万とされており、非常に多くの情報が世界に出回っていることがわかる。
この中には漫画や小説をもとにした作品も数多く存在し、更にはシリーズになっていて巨大な枠組みを形成し、ファンなどから多大な人気を誇っているシリーズなども多くある。
それらの作品はファンたちの理解を促進させるためにファンたち自らが考察や理解促進のための動画などをYouTube上や雑誌、本などによって想像だけで構築された「虚構作品」を理解することができるようになっている。
今回のレポートにおいて、自分は全世界の人々から何十年もの間愛され続けているMARVELSTUDIOの作品を紹介を含めながら、参考とし論を展開していく。
○MARVEL作品から読み解く「虚構と現実の間」
MARVEL作品は原作、アニメ版、劇場版、コミック版などの複数の媒体によって提供されており、これらの中には設定が異なり同じ世界のことを描いている作品もあれば、世界線が共通していない作品もある。
今回は主に映画版について触れていくが、そこでまずはじめに注意してほしいのが、映画版は原作をそのまま映像化したわけではないということだ。映画版はマーベル・シネマティック・ユニバースという多くの媒体からのMARVEL作品に関する情報を映画版の独自の世界線で描いている。そのため、完全に他媒体のMARVEL作品と話が一致しているわけではないということに注意してほしい。
MARVEL作品における映画版は2008年に公開されたロバート・ダウニーjr演じる兵器開発富豪トニー・スタークがアイアンマンとなり自らがテロなどに立ち向かう「アイアンマン」上映から2019年に公開された「アベンジャーズエンドゲーム」まで多くの年月をかけて終了した。
しかし、ここであまりMARVELに詳しくない人々は「もう、MARVEL作品は終わったんだな」と思うだろう。
しかし、まだMARVEL作品は終わっていない。正確に言うと2019年におわったのはアベンジャーズシリーズであり、MARVEL映画作品はまだ始まったばかりなのだ。
MARVELSTUDIOが考えるMARVEL映画版は
フェーズというもので章分けされており
2008~2012 ①
2013~2015②
2016~2019③
2021~④
とさらにこれからもフェーズは増えていくことになっている
自分がMARVEL作品において注目したのは
フェーズ③からのMARVEL作品の作品傾向の変化だ。
フェーズ③からは魔法や物理学的な要素が多くなり始め、特に世界一の魔術師である
ドクター・ストレンジと
世界一の魔女である
スカーレットウィッチ/ワンダ
の登場が大きな作品傾向変化につながっていると思った。
○マルチバース理論と虚構、現実
この二人が登場してから、「マルチバース理論」という理論がMARVEL作品の主な主題となっている。
このマルチバース理論というのは宇宙はいま自分たちがいる宇宙だけでなく、様々な可能性が、あるごとに増えていっているという論だ。
更にわかりやすく言うとよく耳にする「世界線」や「パラレルワールド」、「別次元」などもこれらの論による言葉で、なにかをするかしないかで、した世界線としなかった世界線、というように可能性が増えるごとにその可能性に応じて世界線が増えていくという論だ。
MARVEL作品では「what if…?」というアニメ版作品を皮切りにもし、このときこうしていたら
という考えに応じて映画版を別視点から見ている作品だ。
ドクター・ストレンジやワンダは魔法によりこの別次元への結界を開いたりすることができるため、MARVEL作品は他の多くの作品と比べて「作品の中の主世界」が複数あるという点がおおきな異点である。
もしこうだったらという世界線は別の世界線から見れば虚構の世界であるがその世界線の視点から見ればれっきとした現実であり、逆に言えばその世界線からみた、自分たちの世界線は虚構の存在であるといえる。
ここで自分が言いたいのは虚構というものは存在しない、ということだ。
○嘘と現実は分別できない
もしこうだったら、という世界線が存在するのならば、何か嘘をついたときの「嘘」が現実になっている世界線も存在すると言えるため、たとえこの世界からその事柄が嘘であっても、嘘が現実になっている世界では「現実」なのだ。
しかし、この世界はすべて原子からできているため原子を構築する原子以下の物質は絶対に存在できない。
なので、世界線は「物理法則が許す範囲」でしか存在できないため、すべての可能性に応じて世界線があるとは言えない。
そうすると、すべての嘘が現実になることは難しいが、ほとんどの嘘が現実化することは可能であるだろう。
このレポートにおいての疑問点は「なぜ自分たちは虚構の作品を理解し想像しながら読めるのか」という点であった。
このMARVEL作品の作品性から読み解く、その疑問への自分の考えは「虚構と現実は自由に入れ替わることができるから」だと思う。
我々が映画だけでなく、なにかフィクション作品を鑑賞する際にそのフィクション作品はなにか一つでも我々に共通することが必ずあるはずである。
例えば動物が主人公である「ズートピア」や「シング」「ミニオンズ」などの作品も作品を鑑賞する際の言語、その映画でのキャラクターたちの生活環境、服、など作品のスタイルが、実写、アニメなど異なっていてもこのように共通する点がある。
この意見を考える際になぜマルチバース理論について、さらにはMARVEL作品を交えて言及したかをここからは説明していく。
○第四の壁から考えるこの世界と向こうの世界
MARVEL作品の中にはデットプールなど鑑賞する人々にスクリーン内から語りかけてくる
いわゆる第4の壁を超えてくるキャラクターなどもいる。
そのキャラクターが我々鑑賞者にむけて話しかけているということは「映画内の次元」と「映画外の次元」が、共通化していることを指す。
たとえば「そこにいる君、今僕を見ているね」と鑑賞者が映像内の人物を見ていることを映像内の人物が理解していることを描写するときや「おっとここでストップ」などその次元の中での時間を「映像時間」という映画外の「編集」という概念を操作し、止めることのできるキャラクターなどがある。
これらのキャラクターは自分たちの次元を理解しつつも自分たちを見ている次元のことを更に理解できている。
この事例をふまえると逆のことを考えることができる。
自分たちは別次元である「映画内」で起こる事柄を「スクリーンやテレビ」などを通して見ることができる。これらは映画内の彼らが自分たちに話しかけることができるのと同じなのではないだろうか。もう少し簡単に言うと、彼ら側から見ると彼らには自分たちを見ている人びと(映画や作品を見る我々)が見える、ということだ。
ファニーゲームという映画を第四の壁についてさらに例に上げ、映画紹介サイトの考察をもとにすると
あらすじ
閑静な別荘街で2人の青年が意味無く、バケーションでやって来た一家をなぶり続ける。途中で反撃され1人が殺されてしまうと、ビデオのリモコンで劇中の世界を巻き戻し、反撃を未然に防いだりと第4の壁を破りながら、最終的に一家3人と飼い犬まで含めて皆殺しにしてしまう。2人はヨットに乗り、次の犠牲者宅へ向かう。その途中でこんな会話が交わされる。
「彼は引力に打ち勝って、サイバースペースの典型的な投影によって虚構と現実を判別したんだ。」
「へぇ。じゃぁオマエのヒーローはどっちの世界にいる?」
「家族は現実で、彼は虚構側だ。」
「虚構は現実だろ? 現実の映画もある。現実みたいに生々しい虚構だよ。映画にだって映画の現実がある。」
「……くだらないよ。」
この会話は、虚構における行為そのものはあくまで虚構だが、虚構を生み出した人間の本質は現実のものだという意味にとれる。
『ファニー・ゲーム』劇中の青年2人はそれが虚構の世界だと理解した上で、残虐の限りを尽くす。行われている行為そのものは虚構なので実際に人は死んでいないが、この青年2人(青年2人を作り出した作者)の本質は現実のものだ。
と論じている。
ようするに、映画の世界にも映画の世界からみた虚構=我々観客の世界という我々の世界のような常識が存在するということだ。
○虚構は現実であり、現実は虚構である
映画内の世界で人が消えた場合、自分たちからみるとそれは虚構で実際に人は消えていない。
しかし、映画内の人々からするとそれは事実であり、とうてい虚構だと捉えることなどできない。そのため、我々の世界も別次元の誰かの想像により生まれた可能性から発生した世界線であるとすれば、我々が日々感じている現実は、その「誰か」の世界線からすれば、想像から生じた架空の世界の「虚構」にすぎないのだ。
○最後に
話を最初の方に戻すと、MARVEL作品はMARVELSTUDIOから出た原作からできているため原作の作者が考案した世界線はどこかに存在する可能性がある、ということだ。このような論はSFチックで少し信用ならない点があるが、第四の壁とマルチバースを混ぜて考察して見るとこのような話も現実的である。
我々の考える虚構はときには現実になる。こうして「嘘がホントになる」ことによって我々は虚構を理解し、想像することができるのだと思う。