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ねこぢるうどん/街の光/ボルヘス

自宅の近くにあるT公園に行く。理由は無い。転がっていた石で花びらや蟻を磨り潰して遊んでいたところ、クラスメートのWくんがわたしに気付き話しかけて来た。泥のついたサッカーのユニフォームを着ており、練習帰りなのだなと思った。「面白いジジイが居るから来て」とWくんに言われついて行った。
T公園は小さな林のような一角があり、そこには何十人ものホームレスがテントを張って生活をしていた。冬場に凍死体を見たことも何度かあった。Wくんが紹介してくれたジジイも勿論ホームレスだった。肌も服も黒ずんでいたがよく見るとそこまで年老いておらず、自分の父親とそう年齢が変わらないくらいに見えた。
連れて来られるなり、「英語教えてやろうか?」と言われた。わたしが返事をする前に、ジジイは腹に巻いていた新聞紙を掲げ「新聞紙はニュースペーパー」、カラスを指差し「カラスはクロウ」と言った。どうでもいいなと思ったがWくんは興味津々の様子だった。それが嬉しかったのか、ジジイは「良いもの見せてやるよ」と言い一度ブルーシート製のテントに引っ込み、中から10冊近い漫画本を抱えて出て来た。「欲しけりゃ1冊ずつやるよ」という言葉にWくんは「え、いいの?」と目を輝かせた。わたしはこんなの持ち帰ったら親に怒られるだろうし、何より汚いから触りたくないと思い要らないと言った。するとWくんが「じゃあおまえの分も貰う」と言うので、それはそれで口惜しい気持ちになり、とりあえず貰って、あとで棄てることにした。手も洗えばいい。
Wくんは散々悩んだ挙句、一番卑猥な内容の漫画を選んだ。わたしはなるべく状態の良いものにしようとし、表紙にかわいい猫の絵が描いてある漫画を選んだ。他人が読んだ後の卑猥な内容の漫画に触れる勇気はさすがに無かったのだった。
ホームレスに礼を言って別れ、Wくんは自転車に乗り帰って行った。時計台のほうを見ると、門限まではまだ少し時間があったので、ベンチに座り先程貰った漫画を読んだ。『ねこぢるうどん』の1巻だった。夢中で読んだが、わたしは今なお字を読むのが人並み外れて遅く、半分も読み終わらないうちに文字が読みづらくなってきて、日が暮れ始めているのに気付いた。門限はとっくに過ぎていた。ただでさえ変えるのが遅くなっているのに、こんな漫画を持って帰ったら輪をかけて面倒なことになるだろうと判断し、仕方無く公園のゴミ箱に棄てて帰った。
普段帰宅時は開いているドアが閉まっていた。最悪の気分で何回かチャイムを鳴らすとようやく母が出、すぐに謝ったが不動明王の如き剣幕で怒られた。不貞腐れて居間に向かうと兄がファイナルファンタジーに打ち興じていた。この頃は父が居たが、まだ帰って来ていなかった。ゲーム画面を眺めながら、どうせあんなに怒られるならやっぱり漫画を持って帰ってくればよかった、とひどく後悔した。

昨日は歯医者に行った。虫歯治療では無く歯石除去なので、麻酔をかけなくても辛うじて耐えられる程度の、しかし願わくは今すぐやめて頂けますように、と願わずにはいられない鈍い痛みが続きつらかった。口を濯ぐ時、映画でしか見たことのない量の血を吐いたのは少し楽しかった。あとドリルの音が格好良かった。次回は録音したい。
歯医者を後にし、ミロンガに行った。初めて見たが扉を入って右側の席で宴会をやっていたらしく、いつもより騒々しかった。サタンレッドというベルギービールを飲んだ。
今日は午後に健康診断がある。健康診断が終わるまで水以外何も口に出来ない。先程自販機でバヤリースのりんごジュースに熱い視線を送りつつ水を買った。水を買う習慣(というほど買わないが)は海外旅行をするようになって身についた。初めて行った外国はニュージーランドで、水道から出る硬水があんまり不味く、歯を磨くにもスーパーマーケットで購入したペットボトルの水を使っていた。
ふと思い出したニュージーランドの記憶。早朝、一人バルコニーに座り山々に囲まれた小さな街を見下ろしていた。南半球の3月は爽やかな夏で、日中は暑いが朝晩は震えるほど寒く、重たい毛布を被っていた。夜の名残なのか朝の始まりなのか、一面淡いブルーだけに染まった景色の中で、ある瞬間、マッチを擦ったみたいに一斉にすべての街灯が点いた。朝に点灯するのはおかしいので記憶違いかも知れないが、この頭の中には確かにその景色が存在していて、自分だけが目撃したこの世で最も安っぽい奇跡のように感じた。再び眠気がやって来るまでずっとその灯りを見ていた。ちょうど10年前にあの時間、あの場所にあった孤独はとても好ましいものだったと今でも思う。

台風24号が来ている。早めに就寝したら結局こんな時間に目が覚めてしまった。風雨の音が怖くて眠れない。
昨日、ボルヘスとビオイ=カサーレスが編纂した『ボルヘス怪奇譚集』という文庫本が届いたので読んでいる。ボルヘスの書いた話は無いが、病的なまでの読書家(書淫)によって集められたアンソロジーはいうまでもなく面白い。怪奇譚と銘打っているが所謂心霊現象の類の話では無く、胡蝶の夢やカフカの小説など、古今東西の不条理で不穏で不吉な話がたくさん載っている。大抵数頁の引用で、中には1頁にも満たないものもある。小説には頁や行という小さな単位があるが、結局は「1冊」でしか存在し得ないというか、読んだことにはなり得ないと思っていたが、ボルヘスたちはこれら92の引用を「物語の精髄」と自信を込め述べている。彼らだからこそ可能なんだろうが、こういった読書の形もあるのだと知った。エピグラフが好きな人ならまず間違い無く楽しめるだろう。
それにしても洋の東西を問わないにも程があり、先述した二つの他にも、インドの伝説や葛飾北斎の逸話なんかもあり、無節操であることこの上無い。今でこそインターネットを介し様々な国の話を知ることが出来るが、彼らが生きた時代、南米人が東方の小さな島国の話を知り得るのは難儀であっただろう。そしてそれは、異国から非合法の薬物を密輸するかの如き愉しみがあったのだろう。漱石の『夢十夜』や百間の『冥土・旅順入城式』なんかも読んだら面白がりそう。などとぼんやり考えていたら2時半になってしまった。台風は弱まる気配が無い。風雨の音に混ざって救急車のサイレン音が聞こえる。自分は一人きりであると感じる。

無職を救って下さい。