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シリコン・レクイエム ①―AIバブルが呑み込んだ12兆ドルの真実―(第1章)
※本作品はフィクションです。
第1章 午後3時、-2,180万ドル
イーライ・モリスは、マンハッタンの高層マンションで朝を迎えていた。窓の外では、1月の冷たい雨が降り続いている。トレーディングデスクに向かい、ブルームバーグの端末を開いた。
「NYTX(ニューヨーク・テクノロジー指数)、また史上最高値更新か」
彼は満足げに微笑んだ。画面には鮮やかな緑の上昇チャートが踊っている。特に、彼が大量の信用取引で保有するオメガ・インテリジェンス社の株価は、前日比7.2%上昇の2,347ドルを記録していた。
「天才だな、俺」
ウイスキーのグラスを傾けながら、イーライは自分の投資判断の軌跡を思い返していた。
2年前。彼はシリコンバレーの中堅AIスタートアップでエンジニアとして働いていた。給料は悪くなかったが、毎日の退屈な会議と締め切りに追われる生活に、彼は次第に疑問を感じ始めていた。
そんな時、オメガ・インテリジェンスのIPOが発表された。「次世代AGI(汎用人工知能)の開発に成功」という見出しが、世界中のメディアを駆け巡る。最初、イーライは技術者として懐疑的だった。新しいアルゴリズムの改良に過ぎないものを、誇大に宣伝しているように思えた。
しかし、日々の業務の中で、彼の認識は少しずつ変化していった。自社でも新しいAIモデルのテストを行っていたが、その進化の速度は目を見張るものがあった。わずか数ヶ月で、画像認識の精度は人間を上回り、自然言語処理の能力も飛躍的に向上していた。
「もしかしたら、本当に何かが変わり始めているのかもしれない」
同僚のマイケルが、オメガ株を少額購入したと話したのは、そんな時期だった。
「実験データを見てると分かるだろ?今のAIの進化は、もう誰にも止められない」
半信半疑ながら、イーライも給料の一部でオメガ株を購入してみた。それが、運命の分岐点となった。
株価は上昇を続けた。最初は月に10%程度の上昇だったが、オメガが医療診断システムの実用化に成功したというニュースが流れると、上昇ペースは加速した。イーライの投資額も、少しずつ増えていった。
「AIの研究者として、この革命の意味が分かるはずだ」
彼は次第にそう確信するようになっていた。実際、日々の業務を通じて、AIの可能性を肌で感じていた。画期的な研究論文が次々と発表され、実用化の成功事例も増えていく。懐疑は次第に確信へと変わっていった。
2025年の春、決定的な出来事が起きた。オメガが発表した新しい言語モデルが、医学や法律の専門家試験で人間を上回る成績を記録したのだ。株価は一日で30%上昇。イーライの資産は、給与の数年分に膨れ上がった。
「これは、人類の歴史を変える瞬間なんだ」
その日、イーライは上司に退職の意向を伝えた。
2025年の夏から秋にかけて、市場の熱狂は頂点に達していた。オメガ社の時価総額は1兆ドルを突破。イーライの資産は、信用取引の効果も相まって、うなぎ上りに膨らんでいった。
マンハッタンの高級マンションを購入し、高級車のコレクションを始めた。ソーシャルメディアには連日、豪遊の様子を投稿。「AI投資の天才」を自称し、オンラインセミナーまで開催するようになっていた。
「AI革命は、まだ序章に過ぎない」
そう主張する彼の言葉は、数十万人のフォロワーによって熱狂的に支持された。株価の上昇が、彼の主張の正しさを証明しているかのようだった。
年が明けて2026年。イーライの資産は1,500万ドルを超えていた。さらなる利益を求めて、彼は住宅ローンを担保に新たな借り入れを決意する。「AI革命の波に乗れば、借金など取るに足らない」
そう考えていた時、市場に最初の亀裂が入った。
午後2時15分、G-ネクサス社の四半期決算が発表された。AI関連プロジェクトの収益化が「想定より遅れている」という。
「一時的な調整だ」
そう言い聞かせながら、イーライは震える手で新たな注文を入れる。しかし、売りの勢いは止まらなかった。
午後2時45分、オメガ株は-12.4%まで下落。彼の体は冷や汗で濡れ始めていた。
「なぜ下がる?AI革命は止まらない。絶対に...」
取引チャットには、パニックの声が溢れている。
「マジでやばい。オメガ株、一気に溶けてる」 「#AIバブル崩壊 が現実に?」 「信用取引してた奴、死んだだろこれ...」
午後3時、決定的な一撃が訪れた。
「速報:オメガ・インテリジェンス、AGI開発の進捗に『重大な技術的課題』」
画面が真っ赤に染まる。 オメガ株:-35.6%
「マージンコール発動。追加証拠金が必要です」
警告画面が点滅する。イーライの視界が歪み始めた。手足が震え、呼吸が荒くなる。
「資産評価額:-2,180万ドル」
マイナスの数字。借金だ。全てが終わった。
喉から嗚咽が漏れる。机を強く叩こうとした手が、痙攣のように震えている。汗が額から滝のように流れ落ちる。
「嘘だ...嘘だ...」
彼は椅子から崩れ落ちた。床に這いつくばったまま、吐き気と戦う。アルコールと胃液が逆流し、高価なカーペットを汚す。
「うっ...うぅ...」
パニック発作だった。呼吸が追いつかず、胸が締め付けられる。視界が狭まり、意識が遠のく。そして、温かい液体が股間から広がっていくのを感じた。
高級スーツのパンツが濡れていく。しかし、もはやそんなことを気にする余裕すらなかった。
スマートフォンが鳴り続けている。おそらく証券会社からだ。しかし、イーライには電話に出る勇気がなかった。
「すべて...なくなった...」
窓の外では、1月の冷たい雨が、変わらず降り続いていた。
どれくらいの時間が経っただろう。イーライは薄暗くなった室内で、まだ床に横たわっていた。スマートフォンの着信は30件を超えている。証券会社、銀行、そして彼の「投資セミナー」の受講生たち。画面に表示される名前の一つ一つが、彼を現実に引き戻そうとしていた。
「イーライ・モリス様、緊急のご連絡です」
マンションのインターホンが鳴り響く。
「本日午後3時までに入金が確認できなかったため、お客様の全ポジションを強制決済させていただきました。なお、−2,180万ドルの債務が発生しております...」
機械的な声が続く。
イーライは吐き気を催しながら、スマートフォンを手に取った。Twitterを開く。彼のタイムラインには、かつての熱狂的な支持者たちの罵声が溢れていた。
「詐欺師が!」 「家族の貯金を全部溶かした。絶対に許さない」 「奴のセミナーを信じて借金した。人生終わった」
画面をスクロールするたびに、新たな憎悪の言葉が踊る。数時間前まで彼を「天才投資家」と崇拝していた人々が、今や復讐に燃えていた。
イーライは震える手でウイスキーボトルを掴んだ。グラスに注ぐ余裕もなく、直接口をつける。アルコールが喉を焼く。それでも、現実から目を背けることはできなかった。
翌朝。 目を覚ますと、全身が悲鳴を上げていた。激しい頭痛と吐き気。口の中は乾ききっている。
彼は這うようにしてバスルームに向かった。鏡に映る顔は、もう昨日までの「AI投資の天才」ではない。充血した目、伸びた髭、シワだらけのスーツ。
洗面台の上に、かつての栄光の象徴が並んでいる。18万ドルのパテック・フィリップの腕時計。12万ドルのカルティエのブレスレット。全て借金で買った。全て無価値な見せかけだった。
スマートフォンが再び鳴る。証券会社の番号。もう逃げることはできない。
イーライは震える手で電話に出た。声が出ない。喉から絞り出すように、かすれた声で語る。
「は、はい...モリスです...」