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量子論の面白さ
【量子論の不確定原理とは】
量子論を語る上で外せないのが不確定性原理というもので、これは量子の位置と運動量を同時に知る事は不可能というものです。
ちなみに、量子とは波と粒子両方の性質を持つ物質の事を言い、原子や電子、光子、ニュートリノなどの素粒子があります。
量子の位置を知ろうとすると運動量が分からなくなり、運動量を知ろうとすると位置がわからなくなる。
我々が体感している世界では、例えばサッカーボールの動く軌跡は視認できるし、シュート速度だって計測もできるのが当たり前です。
しかし、これが量子の世界になると何故か位置と運動量を知る事が出来なくなってしまいます。
これを説明するのが観測問題。
簡単に言うと、観測する行為が量子の存在に影響を与えているというものです。
この説が本来とはかけ離れた捉え方になって、スピリチュアルによるものだとか、人間の意識によって引き起こされているといったトンデモ論なっている気がしますが。
【量子論における観測問題】
通常、例えば我々が手にしたスマホを認識できるのは、光がスマホに反射し自分の目に届くからです。
「認識」=「見る」=「観測」というのは、このように光の反射が絶対条件となります。
これは裏を返せば、この世の物体や事象は光の反射無しに見る事が出来ず、実際のありのままの姿は誰も見た事が無いという事です。
そう考えると、それはそれで恐ろしい気もしますね。
粒子を観測するためには、目で直接見る事は当然出来ませんので、電子顕微鏡を通して見る事になります。
こうした精密機器でも光を粒子に当てて、初めて見られるようになります。
ここで問題になるのが、スマホと違って粒子は観測するにはあまりに小さすぎる事。
観測に必要な光自体もフォトンと呼ばれる粒子であり、質量もある事がわかっています。
それを観測対象の粒子に当てますから、当然影響が出ます。
光も波なので、波長の長短を調節して強くしたり弱くしたりできますが、強ければ対象の粒子を飛ばしてしまうし(運動量がわからなくなる)、弱ければ光が粒子を通過してしまって見えなくなります(位置が分からなくなる)。
こうした理由から、粒子の位置と運動量を同時に観測するのは不可能、というのが先ほどの不確定性原理です。
もう単純に観測するための技術的な問題ですよね。
【2重スリット実験】
観測は出来ないけど、粒子の位置と運動量は実際は決まっているのではないか、そう仮説を立てればいいのにとも思います。
しかしながら、量子論の変なところがあって、それが観測至上主義と呼ばれるもの。
「観測してないものは位置も運動量も決まっていない。何故なら観測していないから」というのがそれ。
どうしてこんな観測至上主義になったのか。
そのきっかけが2重スリット実験です。
どんなものかというと、2つのスリットが空いた板へ向けて電子銃を撃ち、後方のスクリーンに電子銃から放たれた粒子がどこに現れるか観察する実験。
この実験では、
①電子銃から機関銃のように大量の粒子を同時に発射すると、スクリーンには縞模様ができた。
②電子銃から一つだけ粒子を発射すると、スクリーンには1つの点ができた。
③電子銃から一つずつ何度も発射すると、スクリーンには縞模様ができた。
という結果が得られました。
①は、電子が互いに干渉しあって縞模様を作ったのだから波であることを示した
②は、電子が粒の性質を持っている事を示した
③は、電子が互いに干渉し合ってないにも関わらず縞模様を作った
うん?となるのは③。
①と②は粒子が単体では粒でも、たくさんあると干渉して波になるというのが何となく理解できます。
しかし、③は単体での発射で干渉が無いにも関わらず波のようなものとして観測されたわけです。
つまり、粒子単体でも波の動きを示すとしか考えられない。
これらの結果を矛盾なく説明しようとしたのが、観測の有無で性質が変わるというコペンハーゲン解釈で、観測至上主義にも繋がっていきます。
(他にも色んな解釈がありますが、今のところ一番支持されているのがこれ)
【量子論における解釈問題】
電子は波なので、電子銃から発射していた粒は実際には波であり(観測前)、スクリーンに映る(観測後)と粒になるという解釈。
これを①~③に当てはめると、
①は、発射した粒子は観測前は波なので、干渉が発生し観測後のスクリーンに縞模様で映った。
②は、発射した粒子は波だが、1つだけだったので観測後のスクリーンには点で映った。
③は、発射した粒子は観測前は波だから、干渉が発生し観測後のスクリーンに縞模様で映った。
この解釈では、電子の本質は波で観測されると粒子になるというものです。
最初の方で書いた、「観測=光の反射」で言い換えると、光の反射など相互作用があると粒子になるという解釈。
重要なのは、あくまでそういう解釈だというところです。
結局のところ、観測前の電子の姿は誰も分からないし、これからも見る事が出来ない。
観測すると姿を変えてしまうのだからどうしようもないのですね。
光を反射しなければ、本当の世界が見えない私たちの目と同じ。
解釈によって成り立っているのが量子論とも言え、それ故、古典物理学では到底あり得ない考え方になります。
(そこが僕のような一般素人にも興味を惹かれるポイントなのでしょう)
これについては、かの有名なアインシュタインも到底認められるものではないと公言していたほどです。
量子論は、こうした曖昧さや解釈によってどうとでも捉えられるため、スピリチュアル系や宗教的な方向へ持っていかれやすいとも言えますね。
そうした解釈問題がありながらも、コンピューター技術などに既に応用しているのが人間の凄いところかもしれません。
これは自転車の乗り方は説明できないけど自転車には乗れる、というのとよく似ていて、同じような話しでは飛行機が何故飛ぶのか分からないけど飛ばしているというのもありますね。
今回はこのぐらいで。