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確率論的に僕もあなたも無限にある可能性の扉を開けている
タイトルから既に宗教っぽくなっちゃいました。
素粒子で構成されている自分と多元宇宙論の存在を考えてたら、そういうフレーズになってしまいました。
そもそも「確率論的」ってどういう意味よ?と自分でもツッコミ入れたくなります。
これもふわっとしたイメージで使った言葉にすぎません。
素粒子が確率的に存在するということは、無数にある多元的宇宙=多元世界が存在するというのに何となく繋がるなぁと。
こういう事をふと考えてしまうのが、普段のマイカーで通勤中とかですね。
「今、車を運転している自分」が次に待ち受けている世界は…
→①次の信号で事故を起こす自分
②急に仕事行きたくなくなって家に引き返す自分
③途中のコンビニに寄ってコーヒーを買う自分」
④タイヤがパンクして泣きたくなってる自分」
な~んて感じで。
今ある自分が次どの世界の自分、どの世界の扉を開けているのだろうか、もしくはどの世界へ突き動かされているのだろうかと考えるわけです。
何を選択したらどの世界に行くのか、選択したつもりがなくても思いもよらない世界に行く事もあるのだろうか?
先を読む人、どうすべきかを知っている人というのは、意識しなくとも多元世界の中から選ぶべきところにたどり着く方法を知ってるだろうと思います。
まだ上手く言葉で表現できないのですが、自分がいる世界はゼロであり1でもある量子が作り出しているから、選択肢が無限にあり、しいては可能性が無限にあるという事なのだろうと。
逆にゼロか1でしか表せない世界だったら、どうあがいても限定された選択肢から逃れられず、可能性があるなんて言葉も虚無でしかないという事かもしれません。
「素粒子が確率で存在する」=「素粒子で構成されている自分も確率で存在する」
すなわちどの世界に存在するかも確率であり、それは常にエネルギーとして運動しているのであれば連続して存在しているとういことではないでしょうか。
科学は全くのド素人ですが、こんな感じで自分なりに解釈を付けて楽しんでおります。
最後に今回も注意書きしておきますが、決してスピリチュアル系の話しがしたいわけではありません。
どちらかというと、その手のヤツは苦手というか嫌いな方です。
スピリチュアル的な思考や手法が問題を解決するというなら、北九州で刺殺された女子中学生だって救ってあげる事ができるはずだから。
鏡の法則とかポジティブ思考とか色々言う人もいますが、もしそれが本当なら、ただマクドナルドで注文を待ってただけの中学生が何故理不尽に殺されなければならなかったのかを説明して欲しいものです。
スピリチュアルも占いもそういう意味で、ご都合主義ではあると思っています。