第二章 苞蔵禍心 第十一服 宗寿相庭
宗は相庭を寿ぐ
常磐にと植へしも幾世松の葉の
塵より山のかげを並べて
相阿弥の庭と呼ばれる庭園が京の郊外・東山の青蓮院にある。この庭の中央に池泉と大石があり、石が龍の背に例えられることから池は「龍心池」と名付けられた。その右手には「跨龍橋」と呼ばれる石橋が架けられ、池の対岸には「洗心滝」と呼ばれる滝石組が設えてある。これは石の組み合わせによって滝を表した見立ての妙だ。庭園の広さは一〇〇〇坪にも及んでおり、相阿弥の庭はその一画である粟田山の斜面を利用して、回遊できるようになっている。
青蓮院は山号を持たないが、天台宗三大門跡に数えられ、粟田口にあった。最澄が建立した比叡山延暦寺東塔の南谷にあった青蓮坊を起源に持つ。平安時代に山麓へと移転したが、鎌倉時代に白川の氾濫を避けて高台の十楽院跡へと動座した。また、足利義教公が義円と名乗っていた頃に門主を務めたことでも知られる。その誼で将軍家より格別の配慮を受け、門主の依頼で同朋衆筆頭の相阿弥が作庭した。
大永五年三月六日、青蓮院に於いて花会が開かれた。催したのは前門主――後柏原帝の第五皇子・尊鎮法親王である。尊鎮法親王は初名を清彦皇子といい、永正九年に青蓮院へ九歳で入ると清彦と呼ばれ、翌年得度して尊猷と名乗り門主となった。さらに永正十一年三月廿五日に親王宣下を受けると、尊鎮と改める。しかし、大永三年、東山知恩院と百万遍知恩寺との本寺論争に関わり門主を辞したため、今は門主が空位であった。しばらく高野山に隠棲していたが、皇太子の兄・知仁親王の勧めもあり青蓮院に戻り、門主として遇されている。
「青蓮院さま、本日は宜しゅうお願いいたします」
「何を申されるか、午松庵殿。世話になるのはこちらぞ? それに、今は門主ではなく、一介の僧なれば、ただ尊鎮と呼ばれよ」
一介の僧とはいえ、法親王。御年廿二歳の若さゆえか、僧籍にあるからか、身分の隔たりを気にしない人柄であった。午松庵と呼ばれた男は当年卌三歳の村田宗珠で、尊鎮へ親しみのある顔を向けている。二人は師弟ということではなく、身分と年齢を超えて親しく交流している間柄であった。身分制度の厳しい権門や武門とは離れた芸事の繋がりである。
「そうは参りませぬ。私とて法名を持つ身、それに貴方様は門主を退かれたとはいえ、皇子。法親王に居わします」
「ははははは! 貴殿はそう申されるとは思っていたが、誠に残念」
全く残念そうではない声で、尊鎮が答える。宗珠は静かに坐っていた。
法親王とは、出家したのちに親王宣下を受けた皇子をいい、親王宣下を受けたあとに出家した皇子は入道親王や入道宮と呼ばれる。入道親王は、三条帝の第四皇子師明親王が寛仁二年に出家して入道親王と呼ばれたことに始まった。法親王は、承徳三年に白河帝の第二皇子で出家して僧籍に入った覚行が親王宣下を受けて法親王と呼ばれたことに因む。覚行は真言宗仁和寺の第三世門主となり、仁和寺に皇室から門主を迎え入れる素地を築いた。同じように青蓮院も仁和寺ほどではないものの歴代門主に度々皇子を迎えている。
門跡は本来、日本における仏教各宗派の開祖の正式な後継者の意味であったが、鎌倉以降、位階の高い格式ある寺院を指すようになった。皇室や公家が寺社と結びつくためや、家督争いを避けるために子弟を住職に送り込んだこともあって、それらの寺格が上昇したことによる。室町にはいると武家の子弟にも同様に出家する者が増え、寺社の勢力が伸長する一因ともなった。門主は座主と同格とされ、座主が退くと次代を門主の誰かが受け継ぐことが多い。
粟田口とは、京と街道を結ぶ京七口の一つで、三条白川橋から九条山までを指す。九条山から東は東海道と呼ばれ、三条白川橋より西は三条大路に続いていた。近江南部から瀬田の唐橋を通り、山科を経て洛東に入るため、関所が設けられている。中心地は東山で、義政公の隠居所の東山殿――歿後、義政公の号である慈照院と呼ばれるも翌年、慈照寺と改められた銀閣寺があった。銀閣寺というのは江戸時代、鹿苑寺の舎利殿を金閣と称したのに対して、慈照寺の観音殿を銀閣と呼んだ俗称である。
花会は、室町後期に盛んになった方丈に花を活け鑑賞する会合である。方丈とは一丈四方のことで、古代印度の富豪で仏教を深く信じていた毘摩羅詰の住んでいた家がそうであった。これに因み、同じ広さをもつ部屋や建物を指ようになった。毘摩羅詰は維摩居士ともいい、居士とは在家の弟子のことを言う。この方丈を畳敷きにしたのが京間四畳半であり、のちに茶室の事実上の標準となった。
花会は庭や花を愛で、方丈で食餌を出し、茶を振る舞う宴席で、その場の趣向で歌会となることもあった。これは、室町殿が禅宗の寺社饗応を取り入れて式正の饗応を定めたことで、饗応の典礼が規格化され、そこから武家や寺社の格に合わせた略され方が行われるようになり、現代の茶事――懐石料理を伴う茶会の源流ともいえる本膳料理の式次第が整ったことによる。
その中で花というのは、元々神に捧げる献花や仏に供える供花であったものが、書院飾りの一部として花立・香炉・燭台――三具足の一つとして飾られたのが始まりとされる。その後、天台宗頂法寺六角堂の僧侶・池坊専慶が出て、書院の床に飾る独立した立ち花――現在の立花を確立した。
相阿弥は池坊の流れではなかったが、義政公にその才を愛され、その教えは等持院に伝えられている。青蓮院でも相阿弥流の華道が好まれ、尊鎮もこれを学んでいた。相阿弥が出稽古に来る日は、村田宗珠を招き、共に花と茶を愉しんだという。
この日は相阿弥の庭の完成披露である。その観賞を主旨として、尊鎮らが活けた花を品評することが会の目的であったが、なにより尊鎮と昵懇の村田宗珠が茶席を添えるとあって、新し物好きの京雀らの関心を鳩めていた。
村田宗珠の茶とは、将軍家を中心に武家の間で広まっていた書院の茶――数少ない唐物だけを愛でる茶の湯ではなく、「和漢の間を紛らかす」草庵の茶――日本の焼物であろうが唐渡の品であろうが、良きものを取り上げた世俗の茶の湯である。唐物だけで組み合わせた道具組みが基本の書院の茶に対し、唐物以外とも組み合わせて飾る新しい風流であった。これを「侘数寄」といい、宗珠の岳父・村田珠光が始めたものである。ちなみに広義の唐物とは渡来の品を指す言葉ではなく、渡来の材や渡来の技術によって日本で作られた物も含まれた。
その村田珠光も文亀二年に亡くなっており、珠光の弟子らは婿養子の宗珠をして一派を為し、武家の書院茶を伝える東山流に対して奈良流ともいえる勢力を築いていた。その筆頭が、因幡山名氏に仕え、ついで管領の畠山政長に仕えて隠居したのち、奈良に移り、上洛して四条東洞院に住した松本珠報である。他には、同じく畠山政長に仕えて千本に住した石黒道提、香道の祖・志野宗信、目利きの達人・藤田宗理、宗理の弟子十四屋松本宗伍ら京都の豪商などであった。
唐物とはなんであるかを説明せねばなるまい。一言でいうと「伝来のある良品」だ。字面からすると舶来物を指していそうだが、違う。唐物とは「舶来品が著名な人物に愛玩されたり、所持されたりして次第を整えられて伝えられた名品」も意味するだけで、舶来品の代名詞ではない。
特に小壺などの茶陶における「唐物」とは藤四郎――加藤四郎左衛門景正が唐から持ち帰った土で作られたものだけを指し、唐渡の物を「漢作唐物」と呼ぶ。加藤景正は鎌倉前期の陶工で、室町後期には既に伝説の人物だった。
唐物の反対語は和物と思うわれるだろうが、これも違う。和物とは国産品のことではなく、渡来素材と同質またはそれ以上の国産素材を用いて作られた名品を指す。また、和物は唐物の一種であり、特に茶陶における和物というのは、初代藤四郎から四代藤四郎までの窯で焼かれた物だけを指した。
唐物には他に、朝鮮半島から渡ってきた高麗物、南蛮貿易によって東南アジアや交趾・呂宋・琉球などから渡ってきた嶋物がある。これらはもう少し時代を下ってからのことで、宗珠の時代には和物が唐物に含まれる――ぐらいの許容であった。
小壺には牙蓋と仕覆が付く。牙蓋は象牙で造った蓋の裏に金箔を施したもので、仕覆は名物裂と呼ばれる舶来の生地で作られた点前用の袋だ。仕覆に包まれた小壺は盆――五〜六寸半ほどの小振りの黒塗または朱塗や犀皮、倶利、存星、青貝などの珍しい漢作や和作の唐物盆を組み合わせ、茶杓は節のない真形を点前に用いるのが決まりである。
犀皮とは堆漆――漆を何百層に重ね塗りをしたものに彫り込んだ彫漆の一種で、朱塗のみのものを堆朱、黒塗のみのものを堆黒、色漆など二色以上の漆て作られるものを犀皮といい、唐草文様は倶利や屈輪と呼ばれ、宋王朝時代に徽州で作られ皇帝に献上されていた。存星は漆地に色漆で文様を描くか、文様を彫って色漆をつめこみ、輪郭や細部に沈金を施したもので、存清とも書く。青貝は螺鈿細工の一種で、白蝶貝を薄く切り出したものを象嵌したもので、厚手の螺鈿細工よりも難しいとされた。
盆に添える茶杓には象牙を用い、こちらは牙杓と呼ばれたが、珠光の頃から竹材の物が出始めている。足利義政公謹製の茶杓「笹葉」は史上初の竹茶杓として名を知られており、珠光作の「茶瓢」とともに煤竹に拭漆が施されていた。
この頃の茶道具は第一に大壺――現代の葉茶壺で、次いで小壺が珍重されていた。どちらも高値で取引されては居たが、大壺は数が少ないため、必然的に取引はこの小壺が中心となっている。
小壺は主に濃茶に用いる茶器で、濃茶とは〇.九匁に四半杓のお湯で点てる抹茶を指す。茶の湯では茶といえば濃茶のことであり、薄茶は「お薄」と呼んでいた。
抹茶は、茶ノ木に覆いを被せて育てたもので、茶葉を摘み、碾茶炉で碾ばし、大壺で半年熟成させたものを石臼で挽いて微粉抹にしたものを云う。三年以下の若木の葉を使ったものは、熟成のための詰め物として用いられ薄茶に、四年以上の老木の葉は袋に入れて熟成させ濃茶に用いる。挽いた抹茶を容れるための器が茶器だ。現代では濃茶は専ら茶入に入れるが、この時代にはそのような決まりはない。主となる濃茶点前において、客の関心を最も蒐めるのが茶入で、大名らは唐物を使うことで社会的地位を誇った。
宗珠が用意したのは珠光所持の文琳で、台子の上に飾られている。漢作唐物の大名物であり、青地金襴の仕覆に包まれた茶入が総朱の在星雲龍四方盆に載っていた。釉薬の垂れが一筋強く畳付きまで走っており、右脇に腰のあたりまで釉が垂れている。口は繰口でやや小さく、牙蓋も小さい。文琳に於いては珍しく下がすっきりとしているのが特徴であった。文琳とは林檎の雅称で唐の第三代皇帝高宗の御代、李謹が見事な林檎を帝に献じたところ、帝は喜んで李謹を文琳郎の官に任命したという『洽聞記』の故事による。
「これが珠光坊が所持したという文琳……」
村田宗珠は、奈良屋の二代目で、侘数寄の完成者と言われる。長享二年、奈良の興福寺の尊教院に珠光が訪れた際、宗珠を気に入り還俗させて女婿とした。珠光はこの後京に移住して奈良屋を興している。宗珠の代には村田家といえば洛中の豪商の一つに数えられるようになっていた。宗珠は奈良屋四郎を名乗っていたが、珠光の女である義妹の子で姪の三郎右衛門を女婿として身代を譲り、大永元年、四条の邸内に午松庵という四畳半の草庵を構える。母屋にある六畳の数寄の間と午松庵の二つの座敷で、侘数寄を完成させた。
「あれが奈良屋四郎はん」
「今は身代を譲らはったそうで」
連客が初めて宗珠を見たのか密々話をしている。食餌をしながら私語に勤しむのは公家たちだけではなく、京都で名を知られた豪商たちもであった。次客に坐った灰屋紹引や曼殊院の良源法親王がその筆頭であり、連歌や和歌を好み、花を活け、茶を嗜んで、尊鎮と共に村田宗珠を後見した。
そんな中、灰屋紹引が椀を眼尻に斉えてしげしげと眺めいる。
「この家具は法親王さまのお好みですかな」
「いや。午松庵殿に勧められたものを寺の常什にしたのだ」
「ホホゥ……これは曼殊院にも欲しい」
「それでしたら、曼殊院様には別の文様の物をお届けいたしましょう」
すかさず宗珠が答える。良源は満足気に頷いて、愉しみにしていると宗珠に催促していた。
家具というのは、御膳に用いられる膳や椀などの一揃のことで現在の懐石家具にあたる。現代の懐石家具には、懐石膳とも呼ばれる折敷を使うが、これは幕末頃からの流行であり、この時代は高足膳であった。しかも、膳は大きさの違う五種の膳があり、大きいものから一の膳・二の膳・三の膳・四の膳・五の膳と呼ぶ。
五種の膳には様々な椀を載せるが、特に飯椀・汁椀・平椀・坪椀を四つ椀という。他には楪子・豆子・猪口が付き、楪子は椿皿ともいい干鮑の煮戻しなどの現在の向附を、豆子は壺椀ともいって菜の物――野菜の酢の物まままや和え物の精進なます、猪口は蓋のない容器で鱠や膾《なます》――魚や肉を用いた生食で細かく刻んだ料理を入れて出す。
汁椀は三つあって、一の膳につく汁椀は味噌汁、二の膳につく汁椀を二の椀と呼んで清汁、三の膳につく汁椀を三の椀といって潮汁を出した。平椀は煮物椀、坪椀は吸物椀である。
御成にもなれば七の膳まで出されることもあり、膳には酒が付きもので、配膳の前後に亭主が銚子を持って格の高い客から順に注いで廻るという礼講の風景が一般的だ。現在の預け徳利などは、武家の無礼講が変化したものだろう。
「総黒の器も悪くないが、この隠れた朱が派手すぎず、それでいて、花の華やかさに導いてくれているようで、こうして花を愛でるのによ以下と思いましてな」
尊鎮の言に良源が大きく肯く。宗珠は商人らの明け透けな質問にも、淀みなく答えていた。使われている応量器は宗珠が奈良の松屋から取り寄せた物で、のちの吉野塗と呼ばれる漆器の源流にあたる。朱塗の上に黒漆を重ねたためか温かみのある朱が黒の向こう側から深みを感じさせた。晩春とはいえ、花冷えの季節であるから、この温かみは人の心を落ち着ける配慮であった。
「いやまさに! 流石は尊鎮さま」
「いや、褒めるべきは午松庵殿よ」
「ははははは、尊鎮さまは奈良屋贔屓でございました。宗珠殿、お見事でございます」
「全ては門主さまのご配慮なれば」
席主たる尊鎮も正客たる良源も一座建立の和やかさに喜びを隠さないが、宗珠は浮かれるでもなくニコニコと笑みを返すだけだった。末客が開けた菓子椀に入れられた白い饅頭に、笑みを零す。
「これは慈照院さまがお気に召された饅頭屋の物にございますか?」
「はい。本日は塩瀬の饅頭屋に水屋へ入ってもらっております」
塩瀬といえば、老舗中の老舗で、初代林浄因が唐より来日、奈良に住し日本で初めて餡入りの饅頭を作り売り出したのが始まりであった。唐では肉食が禁止でなかったため、肉入りの饅頭を食べていた師匠に饅頭を美味しく食べてもらうために小豆を炊いて饅頭に詰めたという。
林浄因は貞和五年紫庭に上がり、後村上帝より宮女を賜わるとこれと婚姻し、男子二人を設けた。その結婚の際に紅白の饅頭を配ったといい、これが今日の紅白饅頭の始まりとされている。饅頭屋林氏は、奈良太郎家と京都次郎家に分かれ、京都の饅頭屋も北家と南家に分かれた。両家とも応仁の乱で焼け出され、北家が疎開した先である三河国設楽郡塩瀬の地名を名乗ったものである。南家は奈良に戻り、そのまま京に戻ることはなかった。応仁年間に足利義政公より【日本第一番本饅頭所林氏塩瀬】の看板を賜り、乱終結後に京へと戻っている。本姓を林、名字を塩瀬として、饅頭屋を号した。
ちなみに紫庭とは、帝の居場所のことを紫微垣ということからの呼び方で、宮中の庭のことである。当時の天文学においては、天球を三つに分けた内の天の北極を中心とした部分を紫微垣といった。ここには天帝の紫微宮があるとされ、転じて皇宮のことを指すようになり、紫が高貴な色とされた所以でもある。
蒸したての饅頭は菓子椀の蓋を取られると湯気を出し、暖かくなった弥生の初めとはいえ、心をホッとさせた。椀の色で温かみを視覚的に感じさせ、湯気の演出で触覚的と嗅覚的に温かさを演出し、食べた甘さが心を温める。その上、春の日差しの温かさが、客を庭へと誘うという導線になっており、流石は村田宗珠であった。
「道具の演出、菓子の湯気、ほんに、宗珠はんは京随一の数寄者ともいうべきお人や」
「言うなれば、数寄の長者やな!」
酒もいくらが巡り、食餌を終えた客たちは相阿弥の案内で庭を廻りはじめる。宗珠は、席を改め、茶席としての体裁を調えていった。今日は花を飾らぬが良し――これだけの花々に囲まれて、侘びた花を見せるなどと野暮をしたくはない。そうなれば、書院の床には、唐物花入を飾るとしようと宗珠は思った。花を入れずに、各々印象に残った花を思い描いて貰えばよい。猫脚の大振りな香炉卓の天板には翡翠の空香炉を載せて、砧青磁の双龍耳花入を合わせた。日取りは上巳の節供が終り、盛春になったばかりの日であった。
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