第一章 動乱前夜 第六服 二虎競食
二虎を食み競う
今日はまた咲き残りけり古里の
あすか盛りの秋萩の花
義晴公の典厩邸御成から半年ほどが過ぎた同年秋・八月末ころより、畠山義宣挙兵の噂が立っていた。義宣は先年亡くなった畠山総州家前当主・畠山義英の子で、昨年家督を継いで、上総介を名乗っている。
畠山家は、総州家と尾州家で当主の座を争い、この家督争いに将軍が介入することによって将軍家さえ二つに割れ、細川氏と山名氏の全面対決となり応仁の乱が起こった。その戦乱の波は瞬く間に畿内から全国へと飛び火する。その後、敵味方は常に入れ替わりつつ現在まで続いており、義宣は細川讃州家と結び、尾州家稙長は細川野州家――すなわち高国に属いていた。
大永四年九月十日、細川本邸の寝殿に細川高国と弟の虎益丸、そして、高国の三人の子らが共に夕餉を取っていた。虎益丸・聡達丸は元服前で、虎益丸は父・政春亡きあと野州邸ではなく、父親代わりの兄・高国やその家族と共に本邸で暮らしている。一座は食餌を済ませ、濁酒を飲み始めていた。無論、聡達丸も虎益丸も土器の盃を片手に、舐めるようにしている。二人とも大人振りたい年頃なのだ。
初めは聡達丸や虎益丸も世情の話に加わっていたが、畠山義宣挙兵の噂に及ぶに従って静かになり、じっと耳を欹てて聞いていた。
「やはり、河内の火種に備えねばなるまいのぅ」
「父上がお出ましになるほどのことでは御座いますまい。ここは某にお任せあれ」
高国の右に坐して胸を張る若武者――細川六郎太郎稙国は弱冠を過ぎたばかりである。明年、京兆家の家督を譲られることになっており、本人としてはそれまでに当主に相応しい戦功を挙げておきたいということであろう。些か逸っている様子が窺える。
「ならば兵三〇〇〇ほどを率いてもらおうか」
「はっ! 総州が首級、必ずや持ち帰ってご覧にいれまする!」
稙国が高国に向き直って一礼した。大言壮語した稙国であるが、若さゆえか、些か肩に力が入り過ぎている。それを見た高国は、総大将を任せるとはいったものの副将らの選定に迷った。安富や荒川らなどでは、稙国の抑えにならない。武略に秀でた評定衆を付けるならば、香西元盛と柳本賢治に補佐させるのが良かろうかと思案顔だ。稙国は総大将を任されたことに喜ぶあまり、父の表情を見逃していた。
(まだまだよのぅ……)
そう心の中で思いながら、養父であった政元のことを思い起こす。稙国にはもう少し感情を抑え視野を広く持ってほしい所ではあるが、若き頃の高国も政元の目にはそう写っていたのかもしれぬ。いや、あの養父に限ってそんなことはあるまい、と思い直した。事実、政元は毛ほどの関心も高国には寄せず、修験道と衆道――しかも稚児にしか興味を示さなかったのだから。妻を迎えぬ政元へ、一門衆が煩く言ったために元服前の高国を仕方なく養子とした。その後、政元が九條家との融和路線――公武合体を目指した段階で新たな養子――九條政基の末子・澄之を迎えると、あっさりと野州家に戻された。そんな高国へ目を掛けるはずもない。故に、政元が高国をみた目と、高国が稙国をみる目とが、同じ訳がなかった。見守ってくれたのは、実父の政春である。政元に対する昏い思いを振り払うかのように頭を振った。
「此度の戦は気負わんでよい。尾州殿も既に下向されておる。義宣奴の身印は彼奴が獲ろうぞ」
「されど!」
手柄を見逃せと言われているようで納得がいかぬのであろう。稙国が膝を乗り出して、高国に迫ろうとするので、手を前に出し宥めるように手をひらひらとさせた。
「そう逸るな、六郎。おぬしはもっと大きな目を持て。兵を損のぅことなく、勝てばよいのじゃ」
「左様、左様。甥御殿は次の京兆家の当主でござる。槍働きなど、家来らのするものぞ」
六郎は京兆家当主の通名である。家督すれば六郎太郎ではなく六郎と呼ばれることを意識しての呼び方だ。稙国の自尊心を擽る響きでもある。稙国の母は細川典厩家の政賢の女で岳父政賢の離反により離別していた。持国や聡達丸の母は継室で、政賢女との離別後に迎えた丹後守護一色義有の女である。そのためか、高国の子等は一門からあまり支持されていなかった。稙国が武功を焦るのもそこに因がある。
高国の窘めに大人びた口を挟んだのは、虎益丸である。虎益丸はまだ九歳で、稙国の十二歳年下、野州家先々代当主細川政春晩年の子であり、元服前にして野州家現当主で、今も高国の左に坐っていた。稙国にしてみれば叔父と言われても、一周りも年下で子供の頃から面倒をみているため、弟としか感じない。
「虎益叔父上! 大人の話に口を挟むな!」
「よいよい。今は身内しか居らぬ。虎益も早く元服させてやらねばのぅ」
「甥御は叔父の話を聴くものじゃ~」
高国の手前、叔父上と付けたものの、虎益丸が勝ち誇って悪巫山戯を吐いたが故に、稙国は顔を真っ赤に染め上げた。怒る稙国も大人気ないが、虎益丸を少しばかり甘く育てすぎたと高国は顔を顰める。二人の弟たちは稙国の赤ら顔を見て笑いを噛み殺していた。
「二人ともいい加減にせよ。……とみに太郎、そなたは明年家督する身。これしきのことで顔色を変えて如何する。大将は凶報であっても眉一つ動かさぬものよ」
此度は、畠山稙長の後詰が目的だ。戦をするのは稙長である。それに、畠山義宣が挙兵するとすれば、地盤の強い奥河内――錦部郡の日野や長野の辺りであろう。彼処ならば、尾州家贔屓の高野山金剛峯寺にも近い。そこまで兵を入れて万が一にも稙国に土を付けさせる訳にはいかなかった。如何にして義宣を引きずり出すかが肝腎である。
(五郎左衛門尉ならば、その辺りの機微も分かろうて)
最も信頼する香西元盛は猪武者であるが故に、戦功も多いが怪我や兵の消耗も大きい。こうした駆け引きには向いていない。細川尹賢に属いて戦を重ねた柳本賢治ならば、適切な対処が適うだろう。
(あとは……)
二人の抜けた穴をどう埋めるかであるが、ここは義晴公の信任厚い武田元光に警固を頼むとしよう。それには義晴公から書簡を出してもらうのがよい。
(儂からは発心寺殿に軍催促を頼むとしよう。さすれば、上様よりの警固を断れまいよ。発心寺殿さえ警固に来てくれれば、後顧の憂いなく河内・和泉を睨めるというもの)
高国の意識は河内に向いた。
河内国は、現在の大阪府南東部に位置する国で、河内源氏――清和源氏の嫡流が本拠とした国であった。源氏の本拠は石川荘にある。
旧くは和泉国を含む国であったが、天平宝字元年和泉国が分立すると、生駒山地・金剛山地の西側に沿った南北に細長い地域となる。河内東部は両山地で大和国と隔てられ、西部に広がる平野は和泉国へと続いていた。南には和泉山脈があり、その向こうが紀伊国である。和泉山脈と金剛山地は続いており、紀見峠がその分岐点となる。北部は山城国と摂津国と接しており、近江から続く街道や川筋は一度河内を経由するため、全国屈指の交通の要衝であった。それ故に戦火も絶えない。
古代に淀川・大和川から流入する土砂が堆積して広がって潟湖を形成し、新開池と深野池という広大な水域が北河内に残る。山城国八幡を基点とする東高野街道は、洞ヶ峠から入って河内国を南北に縦貫し、奥河内の長野で西高野街道と合流して高野街道となり、紀見峠を抜けて橋本を経てると高野山へ至る。西高野街道は堺に通じており、途中で四天王寺から繋がる下高野街道、平野から出る中高野街道と合流する商人の道だ。官道であった東高野街道と違って、発展が速い。商人らが金を出し合って街道を整備した結果、それぞれが堺との結びつきを強め、河内は大和川を境に北と南で経済圏が別れることとなった。
国内は、北河内の交野郡、茨田郡、讃良郡、中河内の若江郡、河内郡、高安郡、大縣郡が大和川の北岸にあり、南河内の渋川郡、志紀郡、安宿郡、古市郡が南岸に並び、丹比三郡の丹南郡、丹北郡、八上郡がある。そして、奥河内の石川郡、錦部郡と五つの地域に郡が十六もあり、人口が多い。物産も豊かで、野菜や米の宝庫となっている。後の太閤検地では二十四万石とされているが、戦乱の中心地であってこの石高である。高い生産力が伺えた。国力等級は大国、距離等級は近国である。
この地に畠山氏が入ったのは畠山国清が最初で、この系統はのちに金吾家と呼ばれて畠山氏の嫡流となった。金吾とは執金吾の略で、衛門府の唐名であり、畠山満家・持国が左衛門督であったことに因む。
ただし、畠山国清は足利義詮と対立し、畠山家は弟の義深が継ぐ。義深の子・基国が鎌倉公方から室町殿の側近となって以後、畠山家は在京するようになり、能登守護に任じられるようになって、紀伊・和泉・河内・能登を治める守護大名として君臨し、細川氏と斯波氏の対立に割り入った。義満によって管領となると、細川氏・斯波氏と並んで三管領と称されるに至る。その後、満家・持国が管領となり幕政で重きを成したが、持国の後継を巡り畠山政長と畠山義就の子孫が互いに争い、和泉守護を失った。両畠山家は応仁の乱後も分裂したままであり、現在も内紛が続いている。
西軍であった義就流畠山総州家は、応仁の乱の最中に山名宗全と細川勝元が死去したのち、細川政元によって東・西両軍の講和が進められる中、畠山義就が講和に反対し、文明九年九月廿一日、畠山政長討伐のために河内国へ下り諸城を攻略、政長派の守護代遊佐長直を若江城から逐い河内を制圧した。また、義就派の越智家栄と古市澄胤らも大和国を制圧、政長派の筒井順尊・箸尾為国・十市遠清は没落し、義就は河内と大和の事実上の支配者となった。一方、京では義就が河内方面に下向後の十一月十一日、東西両軍の間で講和が成立し、西軍は解散した。文明十四年に幕府の命を受けた管領の畠山政長と細川政元連合軍が義就追討に出陣したが、義就はこれを撃退している。
義就の跡を継いだ畠山義豊は明応二年に将軍足利義材公と畠山政長を主力とした幕府軍の追討を受けるが、管領細川政元による明応の政変で細川政元と同盟し、逆に畠山政長を自刃に追い込んだ。政長の子・畠山尚順は紀伊に逃れる。しかし、明応六年、尾州家家臣の遊佐氏と誉田氏が内紛を起こし、これに乗じた畠山尚順が紀伊で挙兵、居城の河内高屋城を尚順に落とされ、義豊は山城へ逃亡、明応八年河内で戦死した。
義豊の子・畠山義英は細川政元に助力を求め、その後援の元、畠山尾州家との戦いを優勢に進めた。しかし、薬師寺元一の乱が起き、義英を支援した赤沢宗経が放逐されるに及んで、関係に綻びを見せる。畠山尾州家の尚順が和睦を申し入れると義英はこれを受け、結果、細川政元と対立、政元に攻められ高屋城を失った。義英は永正四年に起きた永正の錯乱直後に、高屋城を奪い返す。その後の両細川の乱において、義英は阿波国の細川澄元の女を子・義堯の妻に迎えて同盟した。義材公――改名して義尹、復職して義稙と改名した――を擁する細川高国、大内義興、畠山稙長に対して抵抗を続けるも、大永二年四月丗日、義英が歿して、義宣が家督する。
東軍であった政長流畠山尾州家は在京したままで、応仁の乱の後、山城守護となった畠山政長が管領に就いた。しかし、文明十七年に山城国一揆が起こり失脚、山城守護の任を解かれてしまう。その後、細川政元と対立する義材公に政長は重用され、明応二年には、遂に義材公による畠山総州家討伐の親征が実行された。だが、その遠征中に細川政元、日野富子により明応の政変が起こり、政長は子・尚順を逃して討死、足利義材は将軍の座を失った。
紀伊に逃れた尚順は、義尹公を擁し周防国から上洛した大内義興や細川高国と結んで船岡山合戦に参戦し、総州家の畠山義英を破った。しかし、管領には細川高国、山城の守護職は大内義興が任命された。京での活動に専念するため、尚順は領国運営を稙長に預ける。その後、高国と義稙公が対立すると稙長は高国、尚順は足利義稙に味方した。その後、尚順は紀伊に帰国したが、永正十七年国人衆に叛かれて堺に追放される。これにより、稙長は正式に畠山尾州家当主となった。
同年二月、父の宿敵である畠山義英に高屋城を包囲され、三月に城を落とされて逃亡したが、五月に高屋城を奪い返し、義英を大和へ追放した。同年六月から十月にかけて、高国と協議の上で大和に介入し、尚順派と義英派に分かれて争っていた筒井順興と越智家栄を始めとする大和国人衆を和睦させ、大和への影響を保つ。大永元年、尚順と結んだ義英が高屋城を攻撃するも、稙長によって撃退された。尚順は義稙を奉じ淡路において再起を図ったが翌大永二年八月十七日に病歿した。
大永三年には義稙公も死去し、前将軍・尚順・義英と敵がいなくなった高国政権は安泰となったが、尚順と義英の和睦で総州家と尾州家の尚順派の勢力が結びつくことにより、河内畠山氏の内訌は継続している。
錦部郡長野にある押子形城に、畠山義宣が兵を挙げたのが九月十五日である。
直ちに稙国を送り出した高国は、武田元光に軍催促の書状を出す。義晴公には、武田元光に在京して京の警備を願ってほしいと申し出て、書簡を添えていただいた。下命させては元光の反感を買うだけでなんの益もない。
(武田家は将軍家に対する忠誠心が高い。どんなに離れようと発心寺殿が画策しても、家臣共がそうはさせまいよ)
高国は一人北叟笑んだ。これで総州家を排除し、北河内に細川の楔を打ち込めれば重畳。そうでなくとも総州家を追い払えればそれで良し。これで稙長が増長するようなことがあれば、晴宣を使って畠山を内訌させるか、乗っ取ってしまえば良いと考えていた。しかし、現実はそうならない。
数日後の夕刻、稙国からの知らせが届いた。畠山稙長が敗走したという。畠山義宣は高国の予想とは異なり、東高野街道を使わず、中高野街道へと進軍する。これは明らかに罠であったのだが、稙長は誘い出されて和泉野田で伏兵に遭い、畠山義宣に敗れてしまった。しかも、稙国の着陣前に高屋城は戦らしい戦もせずに落城、義宣が入城してしまい、稙長は大和へと落ち延びた。
「なんということよ……」
高屋城に入れなかった稙国は、八尾城に入り畠山総州勢が高屋城より北上せぬよう警戒しているという。稙国はそれで良いが、転戦させる予定であった香西元盛と柳本賢治がそこに足止めされていることが問題だった。本来ならば、錦部郡の日野に稙長が攻め入り、稙国はその後詰めをする役割である。義宣を稙長が敗れば、そこから香西元盛と柳本賢治の両人と細川晴宣の軍勢で挟撃体制を整えることが出来たのだ。このままでは晴宣の手勢が手薄になってしまう。かといってすぐに増援に出せる手駒はない。
ならば、城の守りを稙国に任せ、二〇〇〇を残し、香西元盛や柳本賢治は直属の兵一〇〇〇のみを率いて晴宣の援軍とするしかなさそうだ。
二人が居らずとも、守備だけならば稙国だけでどうにかなる。総州勢の北上は警戒せねばならぬが、奴らの意識は稙長が落ち延びた大和に向いている。何故なら元々総州家の地盤であった大和は赤沢朝経に奪われ、朝経の死後は尾州家に横取りされている。取り戻したいと考えない方が不自然だ。
つまり、この余勢を駆って八尾城や若江城に攻めてくることは考えにくい。大和に侵攻するためにも、まずは勢力の維持――すなわち国人らとの関係の回復を優先するであろうからだ。
「ならば、まだ手はある!」
大内義興が去って以後、高国の政権はなかなか安定しなかったが、ようやく落ち着きを見せたばかりなのだ。世の中を理解せず、徒に戦を続けなければならないような政しかできぬ讃州家の田舎者どもに幕府は任せておけぬ。義晴公を戴いて、やっと幕府の栄光を取り戻す一歩を踏み出したのだ。此処で躓く訳にはいかない。
「左馬助を偏殿に」
稙国は八尾城から動かさず、義宣を排除するのと同時に岸和田城の細川元常を除かねばならぬ。義宣の蜂起と元常の岸和田城復帰は連動しているに違いない。ならば、尹賢にその繋がりを断たせればよいのだ。
(このまま澄清如きにいいようにされてたまるか)
澄清とは澄元の実子・六郎のことである。本来、京兆家当主の仮名である六郎を公に名乗っており、将軍家より一字拝領も受けられず、当主の通字も用いられず、六郎元と名乗っていた。だが、高国は六郎が澄元の子であることを以て、貶めるために渾名を付けたのである。それが澄清であった。
「必ずや、あのわからず屋どもを逐って、義晴公の許に天下泰平を成し遂げて見せる!」
高国の想いは唯一つだ。養父政元が起こした将軍家の分立を解消し、幕府の威光を取り戻すことである。そのためにも、六郎には負けられなかった。