第一章 動乱前夜 第一服 三午生休
午三にして休を生む
さかひこゑ ちぬなぎぬれる 馬の子は
千世のむつきを かさねうるかな
雲一つない晴れた日であった。
鳥が小さく実のなった梅の枝に留まって啼いている。障子に映し出された影が、少し揺れた。シュンシュンと、切合の風炉に置かれた釜から松風の音が聞こえている。
風炉は火鉢に風通しの窓を空けて炭の火が消えぬよう工夫した道具である。この風炉はその左右に鬼の顔をした耳があり、丸い金属の環――釻を咥えていた。銅に錫や鉛などを混ぜた古銅とも言われる唐銅で出来た鬼面釻付で、唐銅鬼面風炉という。切合とは、まるで一つであったものを切って合わせたようなことをいい、風炉と釜が対になっていた。風炉の天面には立ち上がりがあってそこに釜が掛かるようになっている。専門的には釜は懸けるもので、掛かるものではないが。
釜は流行りの芦屋の真形釜で、風炉は京の金工に作らせた写物だろう。元々あった釜に合う風炉を拵えなければこのようにぴたりと隙間なく合うものではなかった。真形釜は半球のような形で、腰の辺りに羽と呼ばれる出っ張りがぐるりと一周付いていて、切立にピタリと嵌る。元は飯炊き用の釜であったともいうが、あまり信憑性のある話ではなかった。
男は茶の湯に興じている割に、落ち着きがない。何処か心此処に在らず、といった雰囲気だ。男の名は田中与兵衛という。堺の納屋衆に名を連ねる「千屋」の若当主である。
堺は元々摂津国(大阪府北中部から兵庫県南東部)と河内国(大阪府南東部)、和泉国(大阪府南西部)の境にある方違神社付近から西に発展した街で、交通の要衝であり、鎌倉・室町を通して貿易の津として発展した。荘園とも結びついており、堺北庄が摂津に、堺南庄が和泉にあり、街自体は両国に跨っている。
文明八年、応仁の乱で衰退した官津――大内氏に下げ渡された兵庫津の代わりに、幕府の命を受けた湯川宣阿によって、堺は対明貿易の拠点となった。摂津湾に面した海濱には納屋が所狭しと立ち並ぶようになり、今や海外と国内の物流が交差する日本最大の商業都市である。
納屋というのは貸倉庫のことで、堺には納屋を各種の問屋や座に貸し付けることで財をなした町衆が多い。納屋を生業とする家は油屋の伊達家、天王寺屋の津田家、能登屋の阿佐井野家、皮屋の武野家、銭屋の松江家、千屋の田中家、鉄屋の藤井家、薩摩屋の石川家、日向屋の池永家のほか、富那宇屋や和泉屋、納屋、木屋、臙脂屋、錺屋、茜屋、塩屋などがあるが、筆頭は備中屋の湯川家で、いずれも会合衆である。
堺の会合衆は十人衆を筆頭に、年々その数を増やし、現在三十六名を数えるが、大半が湯川一族か、その姻戚だ。この会合衆が町衆の中心となって、堺の町を治めている。会合衆は本来十人衆の呼び名であり、三十六人衆は納屋衆であるが、人々はこれも会合衆の控えであると会合衆と呼んでいた。
町衆はそれぞれの生業の座のようなものである。能楽師から、刀剣や鎧などを扱う武器商まで堺にはない座がない。その座の中で生き馬の目を抜くような駆け引きが、表向き和やかに繰り広げられていた。堺は商人の街ではあるが、盛衰の激しい街でもあり、血深泥の戦さは無い代わりに、商いもまた戦さである。直接血を流さずとも、明日をも知れぬ命であることに変わりはなかった。
当年二十五歳の与兵衛に、与右衛門はそろそろ身代を譲ろうかとも考えており、準備も整えて、もうしばらくは大旦那として後見をせねばなるまいと言っている。が、納屋の仕事も順調であり、会合衆への顔見せも恙なく終えていた。商いは順調で、与右衛門が居らずとも特に不都合はないのだから、単に仕事好きなだけだろう。
ちなみに屋号というのは扱い品目を示していることはほとんどない。それよりも先祖の生業や出身地を表していることが多い。千屋もそうである。与右衛門は仙波(大阪市中央区船場)の生まれであり、仙波は千波とも書かれるので、「千」の字を取ったのだと与右衛門は吹聴している。千屋の本家は斗々屋といい、与兵衛の母の実家であった。後世、魚屋などと書かれることもあるが、斗は柄杓枡のことであり、容量の単位でもある。二つの斗を通して量り売りをするのは油で、ゴミや不純物の混入を避けながら、量をきちんと量るための技術であった。与右衛門は入婿で、義兄・与左衛門が家を継いでいる。
千屋は、戦乱に巻き込まれ流浪して、斗々屋に入った与右衛門が先代の援助で興した商家である。才覚があったのか、瞬く間に商いを広げて納屋衆となり、三十六人衆に名を連ねた。近頃は与兵衛に店を預けられるようになれば、さっさと隠居して茶の湯三昧と洒落込みたいと零している。
子供は与兵衛だけであったから、大事にはされてきたが、与右衛門はあまり家庭を顧みず、仕事に明け暮れる毎日であったので、与右衛門が茶の湯に興味があったとは知らず、大変驚かされた。若い頃は京に居たと聞いているので、その頃に習ったものだろう。
茶の湯は近頃、堺の納屋衆の間で流行り始めたもので、元々は京都の武家の間で行われていた。闘茶から賭け事の要素を無くし、唐渡りなどの珍しい器物を観て、愉しみながら茶を飲むのを主体としている遊興である。これを大和(奈良県)から出た村田珠光という御仁が今様に改めて、町の衆にも馴染めるようにした。高価な唐物だけでなく国焼の茶道具が使われる茶の湯を侘茶という。
この頃、堺で一番の茶の湯巧者といえば、天王寺屋の津田宗柏だ。京都で村田珠光に茶の湯を直伝されており、弟子は四〜五十人ほどもいる。まだ息子が若く、隠居ができぬところ嘆いていた。表弟の新三郎も茶の湯が得意で宗伯の号を得ていた。
与兵衛も宗柏の手解きを受けてはいるが、身になりそうもないと、自分では思っている。ただ、納屋衆や大名家との付き合いに茶の湯は欠かせないため、仕方なくやっているに過ぎない。それ故、目利きや宗匠を目指そうとは思わなかった。
半刻ほどまえ、妻の紗衣が産気づき産婆を呼んだのだが、厳しい顔で長く掛かると早々に母屋を追い出されて所在なく、書院に籠もった。
一番上の多呂丸が今年六歳になったとはいえ、二番目は二歳にもならぬ内に鬼籍に入り、三番目は生まれてまもなく母親を連れて逝っていた。男寡夫では不都合が多かろうと周りに言われ、二年前、斗々屋の親戚筋から紗衣を後添えに迎えて、初めての子供なのだ。
若い与兵衛にも悩みはある。それは兄弟が居らず、子が少ないことだ。身内が六歳の子供が一人では何かあったときに困るし、商売は兄弟がいた方が心強い。分家するにも身内が安心だ。備中屋の湯川家は代々子沢山で現在では十六の分家すべてが会合衆に名を連ねている。田中家もそう有りたいと与兵衛は思っていた。
その上、後添えとはいえ正妻である紗衣のことも考えれば、長男には別に店を構えさせ、新しく生まれる子供にこの店を譲るのが無難だろうかとも思えた。いや、逆に紗衣とその子を分家させるか。
「まだ……男子と決まった訳やあらへんけどなぁ……」
しかも、多呂丸はまだ六つである。海の物とも山の物ともつかぬ童だ。与右衛門健在の今、事を急くこともありはしないと独り言ちて頭を振った。
紗衣がまだ子をなしていないころ、使用人の中には「後添えさまは石女でございましょう」などと、多呂丸に追蹤するものがあった。多呂丸は歳相応の正直な性格であったから、そのまま与兵衛に伝えたのである。
商人としては、その正直さが、莫迦正直にならず、誠実さになればいい。そうは思うが、自分ならばどうするか。阿る使用人は毒になるとそやつを信用しないのも一つ、窘めるのも一つ、ただ、そういう奴は世間の噂話を拾ってくるのに長けているから、耳目として重宝するというのも間違いではない――などと考えながらはたと気づく。
「多呂丸はまだ六つぞな」
与右衛門はいつも羨ましそうに津田宗柏の二人の孫の話をしていた。孫がほしいのは分かるが、自分が子を沢山作らなかった所為でもあろうに、責任をこちらに押し付けるのは辞めてほしいと与兵衛は不満だらけである。
「子をなさなんだのは親爺殿やないか……」
好々爺然として、女子に手をつけることもせず、兄弟姉妹を設けなかった与右衛門を嘆いてみせる。だからこそ、気は急く。先の三好の御当主であられた之長殿が亡くなられた折、跡取りの長秀殿は早くに身罷っておられたから、元長殿は二十歳で御当代になられたのだ。それがたった二年前の話である。
近年は将軍跡目や管領家の家督争いから戦が頻発しており、近隣諸国では戦火に巻き込まれた商家も多いと聞く。堺だけが戦火の外に在ると言ってよかった。
ふと気づくと、松風が老けすぎて遠浪になっていた。随分とぼんやり考え込んでしまったものである。
松風は釜の音の一つで、釜の音にはいくつかの段階があった。「無音」「松風」「遠浪」「岸波」「蚯音」と、音の大きさで呼び方が変わる。無音が音が最も小さく、岸波が最も大きい。低い風切りの音が次第に甲高い音を、鳴金という釜の内底に据えられた鉄片が奏でるのだ。この内、最も茶の湯に適した湯の音は松風である。つまり、茶の湯の釜の湯温は沸騰するほど熱くないことが分かる。
その他に「蟹眼」「連珠」「魚眼」という湯相の呼び方もある。これは、泡の大きさのことで、最初は小さい蟹の目のようであるものが、連なった真珠のような泡が出て、最後は魚の目のような大きな泡がボコボコと出てくることを意味していた。湯相としては連珠となるのがよい。これは好く炭が盛らず枯れず燃えていることを表している。後世の流派においては湯相と湯音が混ざって語られるようにもなる。
「いかんいかん。茶の湯の最中に考え事とは」
手に取ったままの柄杓を横に構え直し、合を水指の中ほどまで沈め、清らかな水を取ったところで、汲み上げる。釜の口に運んで、水を差すと、幾分遠浪の音が無音となり、再び松風を奏で始めた。水指とは水を入れておく陶磁器製の五寸ほどの筒桶のことである。合とは竹でできた柄杓の先にある筒状の受けのことで傾けた状態でほぼ一合入ることから、合と呼ばれていた。
さっと、柄杓を釜底までくぐらせ、合が鳴金に強く当たらぬように止め、温められたばかりの湯を取って、湯返しをする。
「茶でも飲んで落ち着かな」
独り言ちても与兵衛の心はまだ落ち着かぬ。
茶は心を落ち着かせると言われているのだが、落ち着くのではなく、落ち着いてやらねばならぬのだろうと与兵衛は思っている。子供の時分は「遊興に金など使っていられるか」と見向きもしなかったが、代替わりして会合衆に名を連ねるともなれば、そうも言っていられなかった。商家の当主ともなれば、風流を解さぬは無粋と蔑まれる。二十代になると茶会などに招かれるようになり、与兵衛も少しは茶道具を集めていた。但しここにあるのは与右衛門の道具であり、自分のものは茶垸だけである。
千屋にある殆どの茶道具は天王寺屋を通じて手に入れたもので、宗柏の好みなのか与右衛門の好みか、青瓷の物が多かった。
耳を澄まして母屋の様子を伺うが、紗衣の子は、まだ生まれそうにもない。
凪いだ松風が、再び荒々しく鳴りはじめた。
与兵衛の目の前には青瓷の茶垸が黒塗に青貝の天目台に載せてある。この当時、茶垸といえば天目や天目形の物を指す。正しくは石偏に完と書くそうだが、この字は残っていない。茶垸は艶のない黒く深い漆塗――真塗の台子の手前、唐銅鬼面風炉の前に置かれ、台子には青瓷の皆具が並ぶ。皆具とは並べられた道具が一様の素材で出来ていた。後世では同じ作家の同手の物を指すが、この時代にはまだ無い。寄せ皆具と言って、違う作家のものを寄せ蒐めて似たような色調のものを見つけるのである。青瓷水指に青瓷杓立。共に陽刻の唐草文が釉薬の下から精緻な造形を覗かせている。器膚の色の似た道具はなかなか揃わぬものだが、どうして手は幾分違うものの、余程の目利きが揃えたのだろう、違和感がない。それだけに唐銅で深鉢形のこぼしがそれに添えられているのが惜しかった。こぼしとは後世の建水のことで、湯や水を棄てるための器である。与右衛門も青瓷のこぼしを探してはいたが、気に入る物がなく、色も合わず、仕方なしに無難な物で済ませていた。いずれも唐物だが、名物とは言えぬ。ただ、与兵衛は気に入っていた。高価すぎるものは分不相応であり、気軽に使えぬものだ。色の合う青瓷のこぼしが見つかれば、茶会でも開いてみようなどと思うかもしれぬ。
与兵衛は抹茶が飛び散らぬよう、茶の脇に湯を垂らし、おもむろに茶を煉り始めた。今で言う濃茶である。天目での濃茶は力を入れ過ぎれば天目が揺らぐ。優しく丁寧に茶筌の柄を振った。天目台にしっかと押し付けるように左手を副え、右の臂で点てていく。
柔らかい上品な茶の香りが立った。照りも申し分ない。満足げに笑みを浮かべて、茶筌を置き、少しばかり湯を足すと、再び茶筌を手にする。客が居る訳ではない。手持ち無沙汰な上に落ち着かぬゆえ、無聊に茶でも点てようかとはじめたのだ。が、やはり心ここに非ずである。
じっと、点てた茶を見つめると、清水のような茶垸に抹茶が写り込んでいた。ゆっくりと茶筌を引き上げ、一呼吸、茶筌から垂れないように心付けて、茶入に並べる。
茶垸の高台は熱い。特に青瓷は熱を遮らぬ。それも好い青瓷ほど薄いため、掌に熱湯を押し付けられているようになる。故に与兵衛は懐中から帛紗――現代では古帛紗と呼ばれるもの――を取り出し天目を載せると、そのまま一口茶を喫もうとした。
その時、急に陽が翳りをみせる。雲一つなかった空がみるみる暗くなった。
ポツリ。
空から雨が落ちてきたかと思うや否や、夕立かと見紛うばかりな雨である。まだ、昼九つ(正午)を過ぎたばかりだというのに。
「……むぅ」
与兵衛は急に不安に駆られた。それを圧し殺すかのように一口喫む。
舌の上にどろりとした抹茶が広がった。心を洗うような香りが鼻腔をくすぐり、爽やかな茶の甘みが口当りを軽く感じさせる。そして深いコクのある渋みが喉を通り、与兵衛を満足させた。流石に栂尾と並び称される宇治七茗園の一つ、祝茗園から取り寄せたものである。
「ふぅ……」
続けて二口。飲み干すように上を向いた。
時折聞こえる大声は、産婆のものだ。まだ、産声は聞こえない。いや、まさか。茶垸から口を離して頭を振った。
(悪うことを考えれば、その通りになるやないか。きっと元気な男子が生まれるよって……)
急に変わった空模様に感じた不吉さを振り払うように、天目台に茶垸を戻す。改めて湯を取り、茶垸に注ぐと、薄茶のような残り湯になった。茶垸を取り上げ、ゆっくりと三度湯を廻す。解けるように、吸い痕が消え行き、元の清水のような青瓷の器膚が姿を現す。そして、ゆっくりとこぼしに湯を空けた。
雨は激しさを増している。激しい風と雨であった。終いには雷が鳴った。
ニャァァァ――ニャァァァァ――
雷の音にも関わらず、微かに聞こえた猫のような声。これは産声に違いない。そして、母屋に挙がる歓声。おそらく安堵の声に違いない。続いて、ドタドタドタという足音が近づいてきた。
「与兵衛! 与兵衛! 男子じゃ、男子が生まれたで!」
晴れやかな与右衛門の声が廊下の向こうから聞こえる。与兵衛は、願いがかなったことを知って、思わず柏手を打った。その手に茶垸を持っていたことなど、すっかり失念して。
ガチャン!
バンッ!
甲高い音がして、天目がこぼしに中る。それと同時に障子が開いた。そこには喜色を浮かべる与兵衛の姿の脇に、欠けて転がる青瓷茶垸があった。与右衛門は啞然とする。
「与兵衛……」
与右衛門の声に、我に返った与兵衛は、与右衛門の視線の先を辿る。そこには、唐銅のこぼしにあたって口造りが欠け、ニュウの入った茶垸があった。
「それは先日、ぬしが宗匠から譲って頂いた大事な茶垸であろ?」
「はい……。思わず手ぇ放してしまいました……」
与兵衛が首をすくめて笑ってみせると、与右衛門もつられて笑う。若い頃は細身であった与右衛門も、體は丸みを帯びて、中年相応になっている。欠けてしまった茶垸は十貫で譲ってもらった唐物だ。しかし、今は惜しいと思う気持よりも、男子誕生の喜びが勝っている。
「このカケをみる度に、志郎丸の生まれた日ぃを思い出すやろ」
笑いながら、欠片を茶垸の中に入れ、茶垸を天目台に載せた。
与右衛門が見上げた与兵衛は既に茶垸を忘れ、赤子のことだけを考える父親の顔だった。駆けだしたいほどの喜びを抑えて、静かに母屋へと戻る息子の後ろ姿に、与右衛門は思わず笑みをこぼした。
「志郎丸か」
与右衛門は多呂丸に弟ができたことを喜ばしく思いながら、火の始末もせず、母屋へ向かった与兵衛の後始末をするべく、道具を片付け始めた。外はにわか雨であったのか、再び雲は消え、五月晴れの蒼穹が戻っている。土が湿り気を帯び、雨の名残りだけがあった。
大永二年五月朔日、干支は壬午年丙午月丙午日の午の刻。午の四変、まさに神馬の誕生である。
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