第一章 動乱前夜 第五服 晴成厩府
晴厩府に成す
春来ぬとふりさけみれば天の原
あかねさし出づる光かすめり
細川右馬頭尹賢の邸は典厩邸と呼ばれ、細川京兆家の隣、百々ノ辻(現在の寺之内通り)を挟んで北側にある。寝殿落成の祝いであるとともに、前年の大永三年に細川武蔵守高国の命で狩野元信ら狩野派の絵師に描かせた洛中図屏風(現在、歴博にある甲本、俗に三条本と呼ばれる洛中洛外図屛風)の御披露目――即ち柳原御所の完成予想図披露を兼ねていた。
寝殿落成の儀も終わり、宴の上座で尹賢が義晴公より盃を賜っていた。介添役は勿論、高国である。昇進し、宰相中将となった義晴公の背には洛中図屏風が据えられていた。宰相中将とは左近衛中将と参議を兼務することを云う。
高国と尹賢の近くには細川一門が侍っている。高国の列には畠山尾張守次郎稙長の弟で高国派の和泉上守護家を興した刑部大輔五郎晴宣、淡路守護家の入り名字を受けた細川伊豆守彦四郎政誠の子・刑部少輔彦五郎高久、治部少輔彦六郎誠久、高久の子・又次郎晴広が並んでいた。尹賢の側には和泉下守護家の三弟・民部大輔弥九郎高基、外様衆駿州家の四弟・四郎左衛門佐賢政、高基の子・又九郎勝基と、尹賢の親族が控えている。また、末席には連枝衆として遠州家分家の玄蕃頭五郎元治入道一雲と孫の源五郎国慶の顔もあった。高国の隣には弟・虎益丸の姿もある。
「けっ! ったく、すましやがって」
「よせ、与四郎兄。武蔵守さまに聞こえる」
悪態をついているのは名を香西四郎左衛門尉|元盛という。六郎高国の直臣だ。
香西氏は鎌倉御家人・香西左近将監藤三郎資村を祖とする讃岐国司であった藤原北家の裔で、細川氏の内衆として仕えた一族である。元盛の先代は又六郎元長といい、細川政元に山城守護代へ抜擢され香西氏の惣領となった。その後、政元の養子・九郎澄之付きとなったが、謀叛を起こして討たれている。澄之は元関白・九条政基の末子で、母は武者小路隆光の女、九条家当主・左大臣九条尚経は異母兄にあたり、子のない政元の養子となって細川京兆家当主となる予定であった。しかし、細川の血縁でない澄之は内衆からの反撥を受け、また、政元とも反りが合わず敬遠されてしまう。家中で劣勢となった澄之を家督させるため又六郎元長は政元を弑逆し、永正の錯乱を引き起こしたのだ。
又六郎元長は、典厩家・右馬助政賢と淡路守護職・細川淡路守尚春と行動を共にした民部少輔高国によって澄之の邸宅遊初軒における戦いで討たれた。乱後は政元のもう一人の養子であった六郎澄元が当主に迎えられたが、足利義尹を奉じた大内周防介義興の上洛によって、澄元を民部少輔高国が逐って当主となる。
右京大夫となった高国は澄元についた内衆討伐をしたが、取り込みを図って後嗣のなかった香西越州家に近侍であった波多野孫右衛門元清の次弟・与四郎元盛を入れた。
香西氏にはいくつかの流れがあり、惣領家は在京して活躍した豊前守資清入道常建・豊前守元資入道常慶父子の流れであったが、元資は丹波守護代時代に違背が多く罷免され讃岐に下向している。子に豊前守元知・美濃守元章があった。在京の香西氏は和泉上守護家の守護代を務めた越後守元正の越州家(六郎家)と同彦二郎長祐の因州家、和泉下守護家の守護代を務めた藤井将監家、摂津住吉郡郡守護代を務めた五郎左衛門尉元忠の五郎家がある。又六元長は、越州家の出で、祖父が越後守元正、父は越後守彦六郎義成といった。
越後守元正は在京の内衆となって、山城国葛野郡にある嵐山城を授かった。元正も義成も、又六郎元長も嵐山を本拠としている。義成は応仁の乱での功績によって将軍より「義」の偏諱と「源」姓を賜ったという。嵐山城は幅一町弱もの曲輪があり、三か所の堀切に工夫を凝らした特徴がみられる山城で、丹波へと続く山並みを背に渡月橋を見下ろす尾根筋に立地し、嵐山や松尾のみならず、京が遠望できる要衝であった。
在地の香西氏は下向した豊州家で、その他に備州家(四郎家)があった。備州家当主となった備中守元直が弟・三郎二郎元顕を豊州家に養子に入れており、元顕は名を左近将監元綱と改めている。備中守元直の系統は備中守元継、次郎直親があったが、応仁文明の乱で断絶した。そして、元綱の子・豊前守元定か登場する。この系統を下香西家と呼んだ。
讃岐の中央部に位置する香川郡香西邑から阿野郡を領する下香西氏は東西讃州の要衝である。故に、讃岐回復の際には元盛を西讃の守護代に任じ、下香西氏を寄騎にすることで香西氏を一本化したいと高国は考えている。
現在、讃岐は阿波守護の細川讃州家が東部に進出しており、中央部に位置する下香西家の元定は大内氏に属して久しい。その上、元定は塩飽水軍を率い、朝鮮などと交易して下香西家の全盛期を築いていた。
管を巻く元盛を抑えているのが波多野三兄弟の末弟・柳本五郎左衛門尉賢治だ。還俗した長兄・孫右衛門元清に代わって仙甫寿登の弟子となったが、その後、高国の命で山科興正寺の寺侍である岩崎太郎左衛門吉永の養子となり与五郎吉治と名乗る。しかし、永正十七年(一五二〇)に大和の国人・柳本出雲守長治が嫡子弾正忠方治共々討死すると、その後嗣として高国の命で家督した。その際、細川尹賢の偏諱を受け五郎左衛門尉賢治と名を改めている。賢治は尹賢の家臣ではないが寄騎である賢治は、文官肌でありながらも知略に優れた尹賢を尊敬していた。それ故に、尹賢と反りの合わぬ元盛の対応に苦慮している。共に育った兄を大切に思っているのだ。
少し離れたところに次兄・元清があり、チラチラと三弟・元盛を心配しているのが伺える。やや粗暴なところのある元盛を案じているのだろう。波多野の三兄弟は賢治だけ母が違うのだが、早くに亡くなり、元清の母が引き取り養育していたため、異母兄弟という意識は薄い。
「わぁ〜ってる。与五郎は気にしすぎだ。あそこまで声なんざぁ、届きゃしねぇって」
「なんにせよ、静かにしてください」
声を落としたとはいえ、なおもブツブツと尹賢の悪口を呟く元盛に、小さい溜息を吐く賢治であった。
朝倉氏が土佐光信に描かせたという『一双画京中』に描かれた細川京兆邸と並んで豪華絢爛な典厩邸であるが、新たしく落成した寝殿は、義満公の北山山荘や義政公の東山山荘の舎利殿を模しており、六波羅風の独立した母屋であった。
典厩家というのは、細川京兆家――すなわち本家の執事であり、内衆と呼ばれる家臣団の取りまとめ役である。細川京兆家九代当主・右京大夫六郎持元を支えた右馬頭弥九郎持之が長兄・持元の跡を嗣ぐと、三弟・持賢が幕政に忙しい兄・六郎持之の代理として弥九郎を名乗り、内衆を仕切ったことから始まった。弥九郎は以後、典厩家の仮名となる。
内衆というのは在地の国人衆を取り仕切る守護代や直轄領の奉行を務める細川氏の直臣である。時代が下るに連れ、在地の国人衆を取り込んで半ば在地化するものや、国人から取り立てられた者も増えていた。香西元盛や柳本賢治のように直臣が国人衆の在京家の家督に入って家中を掌握することで、国衆との結びつきを強くすれば地盤が固めやすいという高国の思惑によるものでもあるが、完全に別家となっている家も多く、国人らを上手く取り込めているとは言えない状態であった。
これは、両細川の乱で家中が二分してしまい、在京家と在地家が分裂してしまっていることと、戦国の世となり実効支配が優先されたことによる。
尹賢は細川野州家の分家・細川中務少輔春倶の子として生まれた。兄は備中国守護となった国豊、弟は和泉下守護家を継いだ高基である。初めは外様衆で一門の細川駿河守政清の養子となり、政光と名乗っていた。養父の歿後に将軍義澄公より偏諱され駿河刑部少輔澄重を名乗った。
典厩家三代細川右馬助政賢は永正の錯乱で澄元を京兆家当主に推して当主に据え、澄元と高国が対立した両細川の乱で澄元が阿波に落ち延びると、京を離れ澄元に合流している。高国は典厩家の家督を空けておかず永正六年駿河守澄重を後嗣とした。これにより典厩家も二流に分裂する。
政賢は和泉下守護家から典厩家へ養子に入ったとも言われ、典厩家二代右馬頭政国の後嗣である。政国自身も野州家細川持春の子で、持賢の養子に入っていた。典厩家は養子が続いており、家というよりも当主の右腕が当主となるという側面が強い。
政賢は阿波国守護・讃州家の細川讃岐守彦九郎義春の女を正室に迎えており、嫡子弥九郎澄賢を産ませていた。また、女を高国に嫁がせているにも関わらず、両細川の乱で澄元陣営に奔ったのは、澄元が義春の子で、自身が妹婿であったことと、高国の室となった女が既に身罷っていたからであろう。
両細川の乱とは、京兆家直系が途絶えたことによる野州家出身の高国と讃州家出身の澄元の争い――分家同士の家督争いと見たほうが分かりやすい。
永正八年、船岡山合戦で、政賢が戦死すると、駿河守澄重は右京大夫高国を通じて将軍義尹公より一字拝領の栄誉を受け、名を尹賢に改めた。これにより、名実ともに典厩家を掌握する。子は宮寿丸(のちの細川次郎氏綱)が十二歳、宮禄丸(のちの細川四郎藤賢)が八歳、宮福丸(のちの細川六郎勝国)が生まれたばかりである。
尹賢の横に緊張した面持ちで坐っている男子が宮寿丸だ。所在なさげで、場違いな大人の場に連れてこられた感が強いが、将軍御成というのは武家にとって誉れであり、元服していなくてもある程度の年齢になればこうした場に出ることもある。ましてや、自邸への御成に嫡子が顔を出さぬ訳にも行くまい。
「宮寿は右馬頭に似て、賢い顔をしておる」
「上様のお褒めにあずかり恐悦至極に存じます」
尹賢がさっと頭を下げると、慌てて宮寿丸も頭を下げる。慌てたために烏帽子が少し斜めになって、床に付いてしまっていた。
義晴公は歳の近い宮寿丸のそんな様子に笑みを零す。親近感を持ったのだろうか。つい先年までの戦場に身を置いて明日をも知れぬ身の上を儚んだこともあったが、今となってはそれも遠い記憶である。
「確か高国の子も同じような年頃であったか?」
「はっ、宮寿と同い年になりますと、聡達で御座いますかな。いささか蒲柳の質では御座いますが」
蒲柳というのは楊柳のことで、蒲柳の質とは、唐国の南北朝時代、梁の簡文帝が同年の顧悦が若い頃から白髪であったことを尋ねた故事からの成語である。
蒲柳之姿 望秋而落 蒲柳の姿は秋に望みて落ち
松柏之質 凌霜猶茂 松柏の質は霜を凌いで猶お茂るがごとし
自分を楊柳に例え、皇帝を松柏に擬えて顧悦が答えたことに周囲は感服したという。顧悦は事実病弱であったが、無理をせず病に気をつけて暮らしたため、早世することはなかった。
高国の子は、長男・六郎稙国(幼名・聡明丸)、次男・八郎持国(幼名・聡叡丸)が既に元服しており、三男・聡達丸(のちの九郎高頼)だけがまだ元服していない。
「そうか、ならば年頃も良い。二人とも元服させては、如何か」
「上様のお声掛かりとなれば、光栄の至り。されど、我が弟虎益が未だ元服しておりませぬ」
「そうであったか。では、そのように取り計らい、宮寿を高国の猶子とすればよかろう」
「武蔵守様の猶子など、宮寿には畏れ多きことに御座います」
この時代、将軍より元服を勧められるのは誉れであり、近習取立てと同義である。それは将来政権の中枢に入るという将来が開けることでもあった。これを喜ばぬ親はない。その上、本家の猶子とは。尹賢は高国の顔色を伺う。尹賢が直接将軍家と結びつくことを高国に警戒されては排斥や最悪粛清される可能性もあるからだ。
「よいよい。私も宮寿を気に入った。猶子ならば問題もなかろうよ」
尹賢の心配を察したのか、高国がそっと耳打ちする。養子と猶子では意味が大分違うからだ。
義晴の考えは歳近い者たちを周りに置きたい一心であろう。高国は宮寿丸を己にとっての尹賢と同じ役割を担わせ、次の世代の舵取りをしやすくさせてやりたかった。出来れば稙国に付けたかったのだが、近頃病勝ちであり、万が一を考えれば虎益丸と宮寿丸に誼を作っておくことは悪いことではないと考えた。家督継承権のある養子では問題があるが、猶子であれば問題にならない。それに虎益丸を元服させれば野州家の当主となり、勢力強化にも繋がる。付き合いの長い尹賢には高国の思考が見えるようだった。
敏い――。
改めて高国の天才的な政治感覚に慄きながらも、高国を支えることへの歓びも一入である。
「さぁ、慶事に慶事が重なったぞ! 皆の者、今よりは無礼講といたす。自由に飲むがよい」
義晴公がそう宣言すると、一座が喜びにどよめき、至るところで酒の注ぎ合いが始まった。
無礼講というのは、「礼講を無くす」の意味である。礼講は神事で身分の高い参列者から順番に酒を飲む作法のことで、これが儀式にも転用され、序列順に注がれるまで酒を飲むことが出来ないものであった。無礼講の始まりは、悪党どもを味方に引き入れた後醍醐帝であるともいわれるが、これは軍記物の『太平記』の影響である。実際には、日野資朝と日野俊基が開いた茶会に分不相応な服を着て参加したのが史料に残る最初の無礼講である。その話を耳にした後花園帝は眉を顰めたという。
以来、儀式の後の宴では最も身分の高い者が無礼講を宣することで、各々が自由に飲む風潮が武家の間に広まっていった。決して何をしていいという訳ではなく、各自随意に飲むがよい――という程のことである。
ブツブツ文句を言いながら臨席していた元盛だが、無類の酒好きであり、この時を待っていた。
「よし! 飲むぞ。注げ、与五郎!」
盃を一気に空け、賢治の前に引盃を突き出す。賢治は嘆息を吐きながら、瓶子を抱えて濁酒を注いだ。いつもは素焼の土器で作られた盃だが、今日のものは朱色の漆に覆われている。朱盃に白い酒は慶事の紅白の意味であろうと連想した。
二度、三度と注がされる賢治。一息で呑み干す元盛。
「与五郎も飲め!」
「与四郎兄、私が酒を得意とせぬのを知っておるであろうが」
「いーから、飲め!」
無類の酒好きであっても、蟒蛇ではない元盛は、既に目が坐りはじめている。肩を落としながら、致し方なしと、盃をかざす賢治。
「一杯だけですよ……あぁ、その辺で」
まだ注ごうとする元盛を制して引盃を上げると、元盛も瓶子を引いた。物が大切である時代のこと、如何に粗野な元盛といえども、作法を知らぬ訳ではない。引盃に瓶子を当てては、酒の注ぎ方も知らぬと莫迦にされてしまうところだ。
「まだ、半分も注いでおらんぞ?」
「私は酒が苦手なのです」
忘れたのですかと言わんばかりの顔をして、半分ほど注がれた引盃に口をつけて舐める程度の賢治。
「お前も兄者のように飲んでくれりゃぁ愉しいものを!」
「なんという無茶を」
あの枠と比べてくださるなという顔をして舐める賢治。元盛は、つまらんとばかりに瓶子を抱え、手酌で飲み始める。そこへ、当の元清が寄ってきた。
「四郎、酒は程々にしておけ」
「わぁーってる、わぁーってる!」
元清は丹波波多野氏の二代目で、父・清秀が丹波守護代上原秀元の麾下として活躍しており、家督後、酒井氏や中沢氏を破って波多野氏を丹波有数の勢力に押し上げた。波多野は清秀の母方の氏であるという。
兄弟で波多野・香西・柳本の三氏の当主となり、列席していることが元清にとっては誇りであり、いずれは丹波を手中に収めることを考えてもいる。高国陣営では、兄弟三人揃って列席できる内衆は他にはなかった。それもひとえに高国から元清・元盛・賢治への信頼が篤い証である。
「さて! 我が君にも一献!」
赤ら顔で元盛が立ち上がる。
粗野で文盲である元盛を全く莫迦にしない高国を元盛は神仏の如くとは言い難いが、かなり敬っている。高国の命とあらば、死地に赴くのすら躊躇わぬであろう。
「兄上……」
「四郎、無礼はならぬぞ、無礼は」
いいのですか?という顔をして、賢治が元清を見やる。元清は目でそれを制し、元盛は手をひらひらと泳がせて、大丈夫だと返事をしているのだろうが、フラフラと上座に出ていく様を見ては心配が募るばかりだ。元盛が急に立ち止まり、自らの頬を張った。その様子を微笑ましそうに見守る元清と心配ばかりな賢治。なんだかんだと仲の良い兄弟である。
「五郎、四郎とて宴の席で無礼はいたすまい。それはそれとして、今日の酒は柳酒よ。酒を好まぬとはいえ滅多に呑めぬ諸白ぞ。少し味わっておくが好い」
柳酒というのは京の造り酒屋の銘である。五条坊門西洞院の柳酒屋の澄酒で、京随一の美酒といわれる。流石に全員には振る舞えないようで、元清が手にした瓶子には赤の結びが付けられている。
上座の者たちだけに出されたのだろう。元盛と賢治の瓶子には赤い紐は結ばれていない。
「では、一献」
濁酒を無理矢理呑み干し、酒盃を盃洗に潜らせて清め、柳酒を注いでもらう。
柳酒は七曜星紋を商標にして売り出した超高級品である。柳酒屋一軒の納める税だけで、幕府の酒税の一割に相当したといわれていた。
「ほう、これは美味い」
賢治の酒盃に注がれた柳酒は、黄金色をした甘味のある酒である。現代でいう味醂を薄めたような色をしており、味醂よりは甘くなく、清酒よりも甘みが強い。
「であろう? 右馬頭殿も奮発されたものだ」
客に振る舞われる酒や肴は御成を受ける家の者が用意する。用意したものを献上し、将軍家で検品をした上で供されるようになっていた。
「越後。酒は足りておるか?」
上座では高国が酒を注ぎに来た元盛の相手をしはじめる。元盛はどっかりと高国の前に座り込み、注いでは呑み、注いでは呑みを繰り返していた。
「武蔵守様、既に我が瓶子は空にございます!」
ガハハと豪快に笑う元盛。瓶子を逆さにして上下に振ってみせる。稚気といえば稚気だが、それ故に一本気であり、策を弄するような真似はすまいと安心できるところが高国は気に入っている。
「そうかそうか、では、私の酒も呑み干すがよいぞ」
高国は赤の紐が付いた瓶子を元盛に渡す。
元盛は受け取って律儀に引盃に注いでいく。
「こ、これは澄酒ではござらんか!」
「如何にも。柳酒ぞ」
驚く元盛に、高国は不思議そうな顔である。というのも、高国は尹賢から今日の酒宴は柳酒屋の澄酒と聞いていたからだ。
「我らは濁酒で御座った!」
澄酒をクイッと一息に呑み干しながら、ギロリと尹賢を睨む。
「典厩殿は我ら下々の者には、澄酒を呑む資格はないと仰るか!」
「越後殿、左様なことは御座らぬ。澄酒は稀少ゆえ手に入らなかっただけよ」
尹賢の狼狽えた様子を見て、高国は致し方無しと助け舟を出すことにした。
「尹賢、上座と下座で酒を変えたこと、瓶子の紐を見れば明らか。何らかの事情があったのであろうが、下座の者からすれば不満は残る。孫右衛門あたりは察しておろうがの」
「面目次第も御座いませぬ……」
高国の言い様に項垂れる尹賢。
その様子をみて、どうだ!と言わんばかりの元盛に、高国も苦笑いだ。
「だが、越後も声高に非難するものではないぞ。相手の胸中を察すべきであるが、其方には難しいか……」
軽いお叱りを受けて項垂れる元盛。面目を潰された尹賢は高国の視界の外から元盛を睨んでいる。
「二人共、私が恃みとする懐刀ぞ? もそっと仲良う出来ぬのか」
「ははっ!」
「申し訳御座いませぬ」
尹賢と元盛が平伏した。
元盛にとって尹賢は気に喰わぬ奴ではあるが、高国の命とあれば、仲良くしなければならぬと不承不承頷いた。
しかし、尹賢の表情からは何も伺えない。感情の消えた顔を伏せて、声だけはさも申し訳なさそうに謝るのであった。
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