
ENHYPENの“よげんの書” ── Let Me In[赤]
青い世界にぽつんと現れた赤い“しみ”は、
未熟な心をじわじわと侵食する。
少年は傷つき血を流す。
それでも苦痛は喜びに変わるのだろうか?
shining blue가 붉어져도
아픔 속에 기쁨이 피어나
─── shining blueが赤くなっても
痛みの中に喜びが咲く
2020年12月にENHYPEN第2作目のMVとして公開された『Let Me In (20CUBE)』。
かわい〜かっこい〜と沸きたちながら
ギブテク以上に意味が分からんw
となったあの日からなんともう2年が過ぎた。
暗号のように思えた不思議な歌詞と映像は、長い時間をかけて少しずつ回収されていったように思う。つまりあの歌は、イプニが辿ることになる道のりの予告だった、というのが個人的な見解だ。
BORDER期〜DIMENSION期のアルバムを通し、彼ら自身悩みながら行き着いたのは
与えられた枠組みに自分を閉じ込めるな、
まやかしの正義に惑わされるな、
その世界(枠組み)を壊して自分を解放しろ
という答えであり、それは同時に同世代の若者たちへの強いメッセージでもあった。

信じていた“正しさ”は偽物だった。
それに気づいた彼らは世界を破壊する
『DIMENSION:ANSWER』NO ver.

「線」を超えて飛び出していたENHYPEN
(2022年8月 KCON LAのVCRより)
振り返ると、レミインに登場する意味深な言葉や小道具はすべてこの答えに向かっていたと思う。
前回は青い服のイプニを「枠組みの中で眠っている若者」に当てはめて解釈した。
レミインは、そんな無垢な状態の彼らに“悪”という毒を一滴垂らす歌だ。
赤い毒は彼らをどこへ導くのだろう?
👇レミイン[青]はこちら
(※本記事の内容は個人的な解釈を含みます)
倉庫の中のジレンマ
このMVには対照的な2組のENHYPENが登場する。一方は自由を奪われ箱に入れられた青イプニ。そしてもう一方は、ルールを無視して自由に動く赤イプニだ。

彼らが忍び込んだ倉庫では、予定表、注意書き、監視カメラなどが行動を制限しようとする。青イプニなら萎縮するものばかりだろうが、赤イプニは気にも留めない。
その代わり画面には、これから彼らが立ち向かうことになるものが密かに紛れ込んでいる。
倉庫の中で妙な存在感を漂わせているもの──
船の模型、鹿の剥製、恐竜の人形のことだ。
これらはどうにも意図的に置かれている気がして、自分なりに納得のいく説明を探していた。その結果、今はこの解釈に落ち着いている。
■船……オデュッセイア

DIMENSIONシーズンをリアタイした人ならば、船といって真っ先に連想するのはホメロスの叙事詩『オデュッセイア』じゃないだろうか。
レミインの約10カ月後に発表されたアルバム『DIMENSION:DILEMMA』は、コンセプトに『オデュッセイア』の物語を引用していた。
モチーフになったのはスキュラorカリュブディスのジレンマだ。

『DIMENSION : DILEMMA』

故郷を目指すオデュッセウスの船は、2体の怪物が待ち構える狭い海峡を通らなければならない。スキュラ側を通れば仲間が6人喰われ、カリュブディス側を通れば船が沈められる。さあどっちを通る?
このくだりはジレンマに陥って進退窮まったことを表す“between Scylla and Charybdis”(スキュラとカリュブディスの間)というイディオムにもなっている。
アルバムのテーマは「欲望に出会った少年のジレンマ」。
新しい価値観に触れた彼らは混乱し、自分自身で答えを選ぶ難しさに直面する。そして「とりあえず走れ、今は正解なんて分からない」(『Tamed-Dashed』)と迷いを振り切っていくのだ。
オデュッセイアは船旅を通して様々な困難を乗り越えてゆく英雄譚。また人生そのものが航海に例えられることもある。ENHYPENの成長物語に時折航海のイメージが現れるのは、それに準えてのことではなかろうか。

両方揃ってこそ航海は可能になる
■鹿……ジレンマの角

棚の上にも鹿の角のようなものがある
「スキュラとカリュブディスの間」と同じ意味を持つイディオムに“horns of a dilemma”(ジレンマの角)というものがある。どちらを選んでも何らかの不利益がある2つの選択肢を、当たると痛い2本の角に例えているわけだ。
ジレンマをテーマにした『Tamed-Dashed』に「角と角の間」という歌詞が入っているのはそのため。でも日本語では通常使わない表現なので、日本語ver.が出た時はTwitterのTLが「ツノの間って何w」っていう疑問で溢れたっけ…笑

え、鹿と言ったらヒスンじゃないの?🦌
とお思いの方もおいででしょう。
そう、ヒスンがバンビ似であることは運営にうまく利用されていた節がある。

ジレンマにまつわる問題が出された直後、
唐突にヒスンの動物キャラを問う不自然な流れ
COMEBACKSHOW 'DIMENSION : DILEMMA'
カムバショーのクイズではニキ以外全員が「ヒスン=ハムスター」を掲げる中、正解はなかば強引に「鹿」。にも関わらず公式はこれ以降🐹100%使用になったので、やはりTLには「鹿じゃないんかいw」のツッコミが踊っていた。笑
この一件は重要なヒントだったように思うし、運営はジレンマと鹿を関連付けていたと考えられる。

私のnoteに再三登場するBTSの『血汗涙』は
誘惑に出会った少年の葛藤(ジレンマ)が主題。
ここにもしっかり鹿がいました
この倉庫には謎の青い液体と赤く光る箱もあり、それぞれに誘惑の香りを漂わせている。
もちろん、これも"red pill and blue pill"(赤い錠剤と青い錠剤)のジレンマであることは言うまでもない。青を選べばまやかしの世界で悩みなく暮らせる、赤を選べば傷つくかもしれないが真実を知れる…というやつだ。
ここは、倉庫ならぬジレンマの宝庫だった。

傷つくかもしれないが真実を知れる
■恐竜……時代遅れの価値観

ところでデビュー当時からDIMENSION期まで、イプニのコンテンツによく恐竜が登場していたことにお気づきだったろうか。意味があるのかないのか、いまいち分からなかったことのひとつだ。

この疑問を2022年まで引きずっていたら、とうとう『ParadoXXX Invasion』の歌詞によって目からウロコが落ちた。難しい話じゃなかった。これも英語のスラングから来ていたのだ。
恐竜を示す英単語dinosaurは「時代遅れ」「無用の長物」といった意味で使われることがある。
「Its' a dinosaur! (古くさっ!)」
ってな感じで使う。

古い考えを押し付けてくる大人に対し、
「俺らの新しい論理で黙らせてやる」
と歌う新章のイプニたち✨
なるほど、彼らはずっと恐竜に押し潰されていたわけだ。『DIMENSION:ANSWER』までは。
ここでみんな大好きパクジェイショーを思い出してみよう。『DIMENSION:ANSWER』のカムバライブで展開されていたコンテンツだ。注目すべきは、スーツを着た司会者パクジェイ(大人)vs.好き勝手に行動する6人(少年)、という構図。

それまでのイプニの印象からすると、
えらく自由奔放に見えたLIVE。少年らに
振り回される大人パクジェイが見どころ
(終盤で恐竜並べられてるの笑う)
番組内ではパクジェイの出題に正解するとぬいぐるみが貰えるシステムだったが、そのほとんどが恐竜。「恐竜は嫌だ」と投げられたり(笑)、唯一の大人であるパクジェイの周りに並べられる一幕もあった。素でやってるのかもだけど。

その実いつも超理解してやってると思うw
恐竜なんて恐るるに足りない。
I-LANDからずっと大人のいうことをよく聞くいい子ちゃん(コンセプト)だった彼らはこうして
『DIMENSION:ANSWER』で反旗を翻し、『MANIFESTO:DAY1』で声高らかに独立宣言することになるのだ。(過去に何度も独立革命の話してきたえんがわnote、自分でも怖いよ)
以上が倉庫にあった3点セットの、私なりにシックリきた解釈。
もしここまで織り込んでいたとしたら、レミインを“よげんの書”とか呼びたくもなるっての…。
正しき者
さて、この機会にぜひ聞いてもらいたい。
『Let Me In』というタイトルにまつわる話を。
レミインが公開された後、タイトルからあるヴァンパイア映画との関係が取り沙汰されたことを覚えている人は多いだろう。
その映画は日本では『モールス』と呼ばれていて、原題を『Let Me In』という。
孤独な少年とヴァンパイア少女が心を通わせるストーリーはたしかにENHYPENの世界と通ずるものがある。だがそこはHYBE、単に雰囲気や設定を拝借するだけのはずはない。
ところでその『モールス』が実はリメイク作品で、オリジナルが別にあることをご存知だろうか?
それはスウェーデン映画『ぼくのエリ 200歳の少女』である。こちらの原題は、原作の小説からそのまま取った『Let the Right One In』。
「正しき者を招き入れよ」──これがこの物語のもともとのタイトルだ。「ヴァンパイアは招かれなければその家に入ることができない」という故事からきている。
なぜかまったく原型をとどめていない邦題。後述するが、私たちはそのせいでずいぶん損をした。

右『ぼくのエリ 200歳の少女』(2008年)
ちなみに韓国では現在どちらも
『렛미민(レットミーイン)』になっている
両方観たがどちらも良い。ハリウッド版はオリジナルをほぼ忠実に再現しつつメリハリがあって、よりドラマチックな仕上がりになっていた。
だが、私が今ここで取り上げたいのは『ぼくのエリ』の方だ。
以下、レミインとシンクロする場面を確認しつつざっくりストーリーを説明する。これより先はネタバレ全開ですがご容赦を。
(画像は『ぼくのエリ 200歳の少女』予告編より)
舞台は冬のストックホルム郊外、主人公は母子家庭に暮らすいじめられっ子のオスカー。いじめに抗えず寂しさを抱える一方で、猟奇事件の本や記事を読み漁ったり、ナイフで木を切りつけて復讐を妄想したりしている。

そんな彼のアパートの隣室に怪しげな父娘が引っ越してくる。後々分かるが、彼らは実の父娘でなく、少女エリは永遠に12歳のヴァンパイア。父親のふりをした人間の男ホーガンは、エリのために狩りをして食料(人間の血)を調達していた。
だがある日、ホーガンが狩りに失敗したことから2人の関係は険悪になる。
オスカーはアパートの中庭でエリと知り合い興味を持つ。一度は「友達にはなれない」と突き放すエリだが、彼女もまた孤独であり、ルービックキューブやモールス信号を交流のツールとして2人の距離は近づいていく。

ENHYPENのコンテンツにも現れた。
画像はM COUNTDOWNでのタイトル
ある日オスカーはいじめっ子のコンニたちに頬を傷つけられてしまう。そしてその夜、傷を見たエリに「やり返して。逃げないで。手伝うから」と諭されたことで強くなろうと決意するのだった。

きっかけとなった頬の傷
一方、再び殺人に失敗したホーガンは、捕われる直前に自ら硫酸を浴びて身元を隠し、エリに血を捧げて命を絶つ。1人になってしまったエリはその足でオスカーのもとへ。
「ガールフレンドになってくれない?」というオスカーに「無理だよ、女の子じゃないもん」と答えるが、付き合うことを承諾する。
そんな中、オスカーはとうとうコンニに反撃し、怪我を負わせて恍惚となる。
自信を得たオスカーはエリに報告し、血の契りを交わそうと自分の手をナイフで切り付けるのだが、豹変したエリの姿を見て彼女がヴァンパイアであることを知ってしまう。

2人を隔てているのが象徴的だ。
下はレミインのOfficial Teaser2より
エリを軽蔑したオスカーは訪ねてきた彼女に冷たく接し、「壁なんかない」んだから入ってみなと首の動きだけで伝える。
許可を得られないままオスカーの家に入ったエリの全身から血が流れ出す。「私はあなたと同じ。あなたも人を殺したいと思ってるでしょ。相手を殺してでも生き残りたい、それが生きるってことなの」「私を受け入れて。少しでいい…私を理解して」

再び距離が縮まった2人だが、同じアパートの住人を殺してしまったためエリは街を離れる。悲しみに沈むオスカーに追い討ちをかけるように、学校のプールではコンニたちの報復が待っていた。
執拗にプールに沈められるオスカーを救ったのはエリだった。プールサイドにはいじめっ子たちの死体、それでもオスカーにとってはエリがすべてだ。2人は列車に乗りどこかへと旅立っていく。
エピソードをだいぶ省いたが、このnoteに必要な情報はこんな感じ。
リメイク版の『モールス』も展開はほぼ同じだ。だが、2人の純粋さと運命の哀しさを描くことに重点を置いた『モールス』に対し、『ぼくのエリ』が境界の超越をテーマの中心に据えているところが違う。
壁を挟んでモールス信号を送り合い、窓やガラス扉越しに会話する2人の姿は、そこに超えられない境界線があることを示している。最終的にオスカーがそれを乗り越え、エリのすべてを受け入れるところがこの物語の核心だ。
ではその「境界」とは何だったのか。
人間とヴァンパイアという種の違いがまずひとつ。もうひとつは、エリ自身が言うように彼女が「女の子じゃない」ことだ。
エリの着替えを覗いたオスカーが、彼女の下半身に大きな傷があるのを見てショックを受ける場面がある。それは200年前に無理矢理去勢された時の傷跡。つまりエリは男の子だったのだ。
ところが日本版には下腹部にボカシが入っており、この重要な事実がまったく伝わらない。しかも邦題が「200歳の少女」なんだからとんでもないミスリードだ。
(海外の無修正版を観て驚いたファンたちが怒ったのは言うまでもなし)
ちなみに、『モールス』にはこの場面そのものが存在しない。

そして当然、善と悪の境界線もそこにある。
人を殺して血をすするヴァンパイアは人間の通念で言えば明確な悪だ。
しかしオスカーから見れば悪はコンニであり、エリは苦しみから救ってくれる唯一の味方。
さらにヴァンパイアのエリにすれば、人を喰うことは単に生きるため仕方のないことなのである。
善悪の境は誰がいつどこから眺めるかでいくらでも変わる。確かな線に見えるとしても、それは誰かが作った幻にすぎない。
イプニの世界に繰り返し現れ、このnoteでも何度か触れてきたメッセージだ。
では一体、正しさとは何なのか。
それは自分自身で選ぶしかない。
オスカーはすべてを捨ててエリを選ぶ。種の違いも性別も善悪の判断も超えた、オスカーにとっての正解がそれだった。
『Let The Right One In』──
「正しき者を招き入れよ」。
この言葉は本来“人ならざる者を家に入れるな”という意味なんだろう。だけどこの映画の中ではそうじゃない。自分が正しいと信じるものを選べということなのだ。
血と覚醒
『Let Me In』の本当のタイトルが持つ深さを語りたかったので『ぼくのエリ』を取り上げたけれど、善悪の境界を超えていく点はもちろん『モールス』も同じ。映像の美しさや、&TEAMの世界を思わせる演出もあるのでそこにもぜひ注目されたし。(雪上の裸足の少女とかプールとかさ)
ところで、映画では語られないが、原作によるとエリがヴァンパイアになったのは200年前にヴァンパイアである領主のパーティーに招待されたことが発端のようだ。

それが『Drunk-Dazed』の設定に影響したかどうかは定かじゃないが、ENHYPENの成長物語的にもこの曲がひとつのターニングポイントになっていると思う。いわば、オスカーの頬に傷が付いた時のような。
ENHYPENのMVには、創作物としての『DARK MOON』のストーリーと、楽曲を通して綴られるリアルな彼らの成長物語の両方の要素が入っている。(ともにHYBEの哲学が大いに絡む)
私がnoteで追っているのは主に後者。それで言うと、D-Dは悪とのファーストコンタクトみたいな位置付けで見ている。
LINEマンガ連載中のDARK MOONシリーズ『黒い月:月の祭壇』にもパーティーの場面が出てきたけれど、そこではソンフンが血のシャワーを浴びたりはしない。青い飲み物or赤い飲み物が出てくることもない。そういう寓意的な表現は彼らの成長物語の方に直結する。

やがて赤い飲み物を取り覚醒していく
思うに、このMVはレミインが“よげん”していたレッドピル選択のステップだ。イプニにとって赤い血は真実を知らせ、本来の自分を取り戻させるレッドピルではなかろうか。
境界線を越えて僕を呼ぶ 僕を
すべてが変わり すべてが崩れる
閉じた扉の向こうに手を伸ばす 僕
苦痛が僕を迎える 乾きの祭典
実は怖いんだ僕
鏡の中の自分が誰かわからない
この仮面の後ろの哀れな真実
だけど僕は逃げない

レッドピルという毒を取り込んだ彼らの目には世界がそれまでと違って見えるが、そこから先にはもう用意された“正解”はない。次々と現れるジレンマに答えを出していくのは自分自身だ。

これに近いテーマだったように思う。
参考までに、当時のツイートも添付しておく。
翼が生える前には悪の注入もちゃんとあった
“悪”とは何だろうか。
— EN-GAWA (@EN_GAWArin) November 28, 2022
そう問いかけるコレオだと思う。
少年はいつか自分の中に“悪”が存在することに気づく。だが簡単に自分の闇を受け入れることはできず苦悩する。
ここでは、彼らにとっての“悪”は
自分がヴァンパイアである事実。
そして血への渇望のように思う。
↓https://t.co/jcxbIp3VJc
境界のない世界

レミインに込められたものと小説『デミアン』に描かれていることは根本的に同じだと私は思っている。
誰でもいつかは大人が用意した「正解」の中で生きるのが苦しくなる。失敗して傷つくとしても、自分の手で実感のある答えを探したくなる。
いつの時代だって若者は、そうやって大なり小なりの悪を取り込んで自分の世界を押し広げていくものだ。善だけで成り立つ善なんてない。
ふたつの世界を行ったり来たりしているうちに、境目は曖昧になり、やがて境界のない世界が生まれる。HYBEの理想は常にそこ。宇宙のビジョンやuniverseという言葉はその象徴だ。
まあ、この話はこの先もずっと付いて回るだろうからおいおい考えよう。

これは次なる「ふたつの世界」の予告か
さしあたっての問題は、私のレミイン話がこれでも全然終わってないってことなんだ…😱
ここまで読んでくれる人がどれくらいいるのか分からないけど、もう食傷起こしてる絶対。
この先はオタク度がさらに高くなるので引かれてしまうかもしれない。迷ったけど、レミインから卒業するためにやっぱり全部吐き出していくことにします。
青・赤の内容に共感できた人、大丈夫まだ耐えられるwって人はどうぞこちらからお入りください。
ではでは今日もありがとうございました。
スキしてくれたらイプニみくじが引けます♡