生と死とジレンマのENHYPEN(後編) ─ Carpe Diem ─
幅の狭い海峡に2体の怪物が棲んでいる。
獰猛なスキュラのそばを通れば仲間が6人食われ、
カリュブディス側を行けば船ごと全員海の藻屑。
さあ、どっちを通る?
ギリシャ神話のそんな下りを、パッケージコンセプトに引用したENHYPENのアルバム「DIMENSION:DILEMMA」。
フランスの詩人バルテルミー・アノーは「富や名声を妬まれるリスクは貧困のカリュブディスに飲み込まれるよりも好ましい」と言ったそうだが、
公開されたSCYLLAとCHARYBDISはまるでそれを下敷きにしたような世界観で
「富と名声を得るが自由のない人生」
or
「自由だが富や名声とは無縁の人生」
といった選択肢に置き換えて見ることができた。
これがアルバムの主題「欲望に出会った少年たちのジレンマ」にもっとも近い見方かもしれない。
だが、このコンセプトには別のストーリーラインもあった。
この記事では、上記とはまた違う視点でリーディングした内容を書いている。
いつも「裏」で別のメッセージを発信してくるHYBEさん、
今度は何を伝えようとしているのか…。
★前編がまだの方は是非こちらから👇
ODYSSEUSが伝える
「今を生きる」ということ
9月23日~29日の一週間で少しずつ全貌をあらわにしていったSCYLLAとCHARYBDISコンセプト。一見しただけでは分からないが、その設定にはメメント・モリ(死を想え)の思想が潜んでいた。
人生は短い。
ではどう生きるか。
SCYLLAとCHARYBDISはそう問うけれど、即答するにはあまりにも難しい。
でもたぶん、ODYSSEUSはそれに対する彼らなりの答えになるのだろう。
はたして次の夜(9月30日)から三夜連続で目にしたのは、彼らの作品ではもしかしたら初めての、普通の男の子の世界だった。
虚無感や死の気配が漂っていた先の2つのコンセプトとは違う。十代の少年たちが海辺でひたすら青春している、それだけの光景だ。
ビーチでラグビーとか、波打ち際を走り水をかけ合うとか唐突なド青春描写に少々面食らったが、イプニにも青春を謳歌してもらおうというなら賛成だ。たしかに十代の今でしか体現できない世界ってあるよな…
…今の彼らにしか体現できない世界?
あ、そうか。
「メメント・モリ」に対しての「カルぺ・ディエム」なんだ。
「カルぺ・ディエム」は「メメント・モリ」同様、17世紀によく唱えられたラテン語の言葉で、直訳すれば「その日を摘め」となる。もとは古代ローマの詩人ホラティウスの詩の一節だ。
神がどんな死をいつ我々に与えるかなど、いくら悩んでもわかりはしない。短い人生だ、遠大な望みを持つな。こうしている間にも時は逃げ去る。
今日という日を大切に、精一杯楽しんで生きよ。
全体としてはそんな内容の詩で、最後の一行が言わんとすることのすべてだ。ゆえに「カルぺ・ディエム」は「今を生きる」とも訳される。
『摘めるうちにバラの蕾を摘みなさい』
(Gather Ye Rosebuds While Ye May)
John William Waterhouse/1909年
「メメント・モリ」(死を想え) と
「カルペ・ディエム」(今を生きる)。
古代においてはともに "人間いつ死ぬか分からないのだから今を大切に"という意味で使われていたふたつの格言。
時が流れて17世紀、パンデミックと三十年戦争を経て命の儚さを思い知った人々は、再びこれらの言葉を胸に刻みこんだ。
だが「メメント・モリ」が贅沢や享楽を戒める意味を帯びたことで、両者のニュアンスに微妙な違いが生じる。
人生は短い。死を忘れず、つつましく生きよう。
人生は短い。不安がるより今を精一杯楽しもう。
限りある時間を大切に思う気持ちは同じ。
その人が人生のどの位置にいるかで感じることは違うだろう。
ただ、ODYSSEUSの彼らは後者を選んだのだ。
3つの世界が伝える
共通のメッセージ
さて突然だが、ここで1本の映画を紹介したい。1989年製作ながら、今なお愛され続ける青春映画の傑作。観たことのある人も多いと思う。
『いまを生きる』
原題:『DEAD POETS SOCIETY』/1989年
監督:ピーター・ウィアー
主演:ロビン・ウィリアムズ
邦題が示す通り、そのまま「カルぺ・ディエム」がテーマである。
多方面に影響を与え、セブチ先輩も過去にオマージュ(※)したことのあるこの作品をHYBE制作陣が観ていないはずがない。ということで、カムバ後少ししてから久しぶりに観かえしてみた。
(※[Prologue] An Ode 1 : Unchained Melody)
ロケ地:St. Andrew’s School
まず舞台となる学校ウェルトン・アカデミーが、ENHYPENの映像に出てくるデセリス・アカデミーや英国のラグビー校(ラグビー発祥地)を思わせる。
生徒たちがサッカーを楽しむシーンはビーチでラグビーしていたド青春イプニにオーバーラップ。主人公が7人組の仲間であることも気になる。
トレーラーがあったので参考までに。
物語は1959年、全寮制の名門校ウェルトン・アカデミーに同校OBの英語教師キーティング(ロビン・ウィリアムズ)が着任するところから始まる。
厳格な規律と親からのプレッシャーでがんじがらめの生徒たちに、彼が最初の授業で説くのが「今を生きろ(カルぺ・ディエム)」だ。
授業は常に型破り。ある時は詩の価値を数値で計ろうとするテキストを破り裂いて「自分の力で考えることを学べ」と訴え、
またある時は生徒たちを机上に立たせ「物事は常に別の視点からも見るんだ。どうだ、世界が違って見えるだろう」と教える。
そんな彼に影響され、7人の生徒に変化が生じる。キーティングをキャプテン(船長)と呼び、彼が在学中に作っていた同好会「死せる詩人の会」をひそかに復活させる生徒たち。彼らは洞窟での会合を通して心の呪縛を解き放ち、真の自分を見出していくのだった。
引用:IMDb
だが悲劇が起こる。俳優になる夢を見つけたグループの中心人物ニールが、父親に道を閉ざされたことで絶望のあまり拳銃自殺をはかるのだ。
事件の責任を負わされる形で、キーティングは学校を去ることになる。そこから映画史上に残る名ラストシーンに繋がっていく場面が以下だ。
授業中、荷物を取りに現れたキーティングに対し、目を合わすことさえできない生徒たち。しかし内気な生徒トッドは彼を目で追い続け、やがて意を決して机の上に立ち上がるとこう言う。
"O Captain, my Captain!"
(おお船長、わが船長!)
引用:IMDb
"Sit down!(座りなさい)"と繰り返し怒鳴られながらもトッドは机から降りようとしない。すると……
このあと何が起こるかはぜひ自身の目で確かめてほしい。(ここまで話しといて何w)
キーティングが生徒たちを机の上に立たせて言った「違う景色を見ろ」とは、どんなにカッコ悪かろうが他者と違う価値観を持つことを恐れず、自分の頭と心で考えろということだ。
この映画に登場する若者にとって、己の心に従い机上に立つ行為は自由と独立への一歩を意味する。自分の意思で、自分らしく行動する──それこそが彼らの「今を生きる」なのだ。
なお、"O Captain, my Captain!" は授業に出てきたホイットマンの詩の一節で、キャプテンとはすなわち奴隷解放の父・リンカーンを指している。
さて、
ここで「ん?」と思った人はいないだろうか。
もしかしてこれは……
あの場面のモチーフでは?
教室とダイニングで状況は違うが、行為そのものは似ている。
大体、急にこんなお行儀の悪いことをする理由がよくわからなかった。
何かの暗喩だとすれば、これはヒスンが違う視点で世界を見た、つまりそれまでとは違う価値観を得たことを示していると解釈できないだろうか。
例えば、幸せだと思い込んでいた自分らが実は囚われの身だったことに気づいた…というような。
そうであれば、これもまた自由と独立への一歩ということになる。
(参考:セブチ先輩によるオマージュ)
思い返すとENHYPENの映像やステージには大量の椅子が吹っ飛んだり積み上げられたりしている演出が時々あるのだが、それも映画に出てくる服従の命令"Sit down!"への抵抗を意味していた、とは考えられないだろうか。
そう仮定すると、ちょっと気になることがある。
ここでもう一度SCYLLA、CHARYBDISを振り返ってみよう。
SCYLLAで注目したバロックは、均整と調和を重んじたルネサンス様式に対し、自由でダイナミックな表現が特徴だった。それはペストの大流行や三十年戦争を経た時代の感情の爆発現象だったといえる。
CHARYBDISの世界のモデルとなったメキシコはかつてのスペイン植民地。独立を求める戦いは1810年9月16日から11年にも及び、1821年9月に終結。本来カムバが予定されていた時期は、まさに独立200周年の節目だった。
そしてODYSSEUSにインスピレーションを与えた可能性のある映画『いまを生きる』は、魂の自由を求めてもがく若者たちの物語だ。
3つの世界には共通して自由、解放のイメージが存在するのである。
偶然だろうか?
そうは思わない。
自由、解放───これは
MVの中の少年たちが直面しているテーマであり
同時に、アルバム自体のコンセプト
「ジレンマ」に含まれた要素であり
さらには、それらを超えた
ENHYPENの普遍的なメッセージではないのか。
同世代の若者の心の叫びを代弁しているのかもしれない。
あるいは、自分たちのいる業界、国、世界で今起きているさまざまな事柄への切実な思いが込められているかもしれない。
思い当たる節は色々ある。
だがHYBEやENHYPENが明確に声に出さない以上、私が憶測で語ることではないだろう。
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視点を変えろ、
目で見たままを信じるな
ところで、SCYLLA・CHARYBDIS・ODYSSEUSを通して伝えられていることがもうひとつある。
SCYLLAで取り上げたバロックの特色がイリュージョニズム(幻視、幻影)だったことを覚えているだろうか。
鑑賞者に目の錯覚を起こさせる技法のことだが、これには「目で見たままを信じるな」という忠告が秘められているように感じる。
一方、CHARYBDISで触れた死者の日は、死後の世界や死者の魂といった目に見えないものを尊ぶメキシコ人の死生観に支えられている。
こっちはもしかしたら「目に見えないものの存在を否定するな」というメッセージを含んでいるかもしれない。
これらが示すのは、目に映るものだけを盲目的に信じることへのアラートのように思える。
キーティングの言葉「視点を変えて別の景色を見ろ」も本質的に同じだ。
惑わされるな。
今見ているものがすべてではない。
現実の世界では教訓、
MVを見る上では解釈のヒントとなるアドバイスなのではないだろうか。
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[ 続編の序章 ]
※この先トンデモ値上がります
※トイレ休憩どうぞ
どうやら、旅は続く
さて、10月2日に3種のコンセプトが出つくした直後に話を戻そう。
アルバムが出るのはこれからなのに、すでに壮大な物語を観終えた気がして私は呆然としていた。
だが、ひとつ納得のいかないことがある。
海賊はどした?
「Intro:Whiteout」に海賊風味を感じたあと、SCYLLAやCHARYBDISで「メメント・モリ」が出てきて、脳内ではいよいよ本格的に海賊旗ジョリー・ロジャーが翻っていたのだが?
実は今回ずっとフォーカスしてきた17世紀は大航海時代のさなかであり、同時に海賊の黄金時代でもあるのだ。メメント・モリの呪縛などものともせず、自由に大海原を旅する海賊のイメージはODYSSEUSのコンセプトに来てもいい気がしていた。
見当違いだったのだろうか。
いやいや? あながちそうでもないはず……
中世ヨーロッパでは縞模様は悪魔の柄といわれ、道化や犯罪者、異端者、異教徒などが身につけさせられるものだった。囚人服がボーダーになったこともこのあたりに起源がある。
と同時に、16世紀頃からは船乗りの仕事着としても縞模様の服が普及しはじめる。海賊のキャラクターがボーダーを着せられがちなのはならず者と船乗りのイメージが結びついたせいだ。
今回「自由と解放」が出てきたことを考えると、イプニのボーダーには囚われの身であることを示す囚人服のニュアンスもありそうだ。
さらに海賊の意味も込められているとしたら、このラガーシャツはダブル、いやトリプル以上のミーニングを持つことになる。(個人的には過去記事で書いた道化も見落とせない)
そしてこの校章だ。
「D」の文字がデザインされているが、このDとは何だろう。
もちろん彼らが在籍している設定のDecelis Academy(デセリス・アカデミー)の頭文字だろうしDIMENSIONやDILEMMAにも掛けてるのだろうが、今言いたいことは
「D」といったら海賊でしょうよ。笑
BTSも大好きな海賊漫画『ONE PIECE』にはDの一族という言葉が出てくる。主役のモンキー・D・ルフィを筆頭にDのつく名を持った人物が複数登場するのだが、実はこれ、中世ヨーロッパで活躍したテンプル騎士団が元ネタだと言われている。
左:テンプル騎士団最後の総長ジャック・ド・モレー(Jacques de Molay)
何を隠そうテンプル騎士団の歴代総長23名のうち、20名の人物にDeがつくのだ。
十字軍時代を経て12世紀に創設されたテンプル騎士団は、エルサレムへの巡礼者を守護する正義の味方だった。だが14世紀には、彼らの莫大な財産に目をつけたフランス王フィリップ4世に異端の濡れ衣を着せられ、壊滅に追い込まれる。
1314年、総長ジャック・ド・モレーをはじめ多くの騎士が火あぶりに。
そして生き残った騎士の中には、身分を隠して海へ漕ぎ出し、海賊となる者も少なくなかったのである。
そんな騎士団の伝説や、謎に包まれた財宝の行方がHYBEの想像力を刺激することは…
十分あり得る。笑
だってもう一度よく見てエンブレムのデザイン。剣と盾にも、帆船にも見えるようにできていないか?
CHARYBDISで出てきたあのクルス・アズルの青いTシャツも十字軍を暗示していたのでは?
…というようなことをブツブツ考えて数日経った10月8日のことである。
MUSIC BANKのパク・ソンフン頭取初登場シーンでお茶を吹いた。
続いて10月12日のカムバックショー。
背景に掛かっているのは韓国各地のインターナショナルスクールに実在する運動部のチーム名。種目はバラバラなのだが、そのうち少なくとも3つは直接的に騎士団に関係ある単語だった。
キリがないのでとりあえずの結論を言う。
DARK MOONの本筋とはまた違うところで綴られているこのナゾ旅の次なる目的地は、
テンプル騎士団の遺産の一部を受け継いだマルタ騎士団の元本拠地、マルタ島だ。
(メキシコ同様、実際には出てきません。笑)
そここそ「Intro:Whiteout」が言う
「世界で最も幻想的な島」だと私は思っている。
それはなぜか。
マルタ島にDecelisという地名や苗字が存在することもひとつ。だがそれ以上に肝心なことは
スキュラとカリュブディス両怪物の間をすり抜けたオデュッセウスが、その後難破の憂き目に遭いながら流れ着いた場所がこの島だからだ。
(諸説あり)
ここにきて、なんと驚いたことに
ギリシャ神話のオデュッセイアと
15〜17世紀の大航海時代がコネクトしたのだ。
えー⁉️😱
そういえばレミインの時に船が出航してたよw
長かったSCYLLA・CHARYBDIS・ODYSSEUSの話はここまで。
とにかく今回の件ではっきり分かったことがある。
何故だか知らないが、DARK MOONの裏側でこの子たちはすごいスピードで時代を駆け下りていて、時代時代の出来事を観察しているんだ。
だからこの先も物語は続いているのだけれど、さすがに限界。笑
次は18世紀で会うことにしましょう。
to be continued!
※2022.12.4追記
「宝島=マルタ」説はその後『ENHYPENのアメリカン・ジャーニー』にて別の見解に変わっています。
★長旅大変おつかれさまでした…(T_T)
スキしていただくとイプニくじが引けます。
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