善人がみんな偽善者だから嫌いってのも、ちょっとわかる
善人は、みんな偽善者にすぎないって意見を、ふと見かけた。
その人は善人を心底嫌っていたが、最低かもしれないけど、ちょっと気持ちはわかる。
見渡せば、世の中、みんな偽善者だ。偽善者だらけ。
富、名声、信頼や好意のために、いいことをする。「報われたらいいな」とか思いながら、いいことをする人は、多い。
中には、見返りを必要としない人もいるけれど、見返りがいらない善も、している人が、気持ちよくなりたいのが本音だ。
「自分はこんなにいい人」って悦に浸ったり、「いいことをした」と一日一善気取りだったり、人を助けたことを単純に誇りに思ったりと、いろいろだ。
でも、どれも「気持ちがいいから」という自分の利益があって、利益がある以上は、純粋な善ではないと言えないこともない。
善とか偽善とかは、人によっていろいろだ。気に入れば善だし、気に入らなければ、全部偽善。
それで、その中で、「世の中の善はすべて偽善だから嫌いだ」という人がいても、それは完全に間違っていると言えるのだろうか?
本当の善は、心を含む、自分の利益を放棄したもの。心が満たされれば、精神的な利益を手にしているわけで、それを求めて行う善行は、偽善である。
なるほど、わからんことも、ない。
善行が、崇高になればなるほど、偽善の割合は、増えていく。
その人は、善=けがれのない尊いものであり、他人では持ちえないほどの、崇高できれいなものになって初めて、善と名乗ることを許されるのだろう。
世の中は、善人が嫌われ、偽善者が叩かれるようになっている。
それは、善という存在が神格化され、多くの人にとって、百点満点でなければならないようになって、そうやって、作られた風潮なのかもしれない。
善を崇高すぎるものと考えれば、偽善者叩きも、善人を徹底的に嫌うその人も、わからなくはない。
同意するわけでもないが、否定する気もない。価値観は、その人それぞれだ。
今回したかったのは、そんなお話でした。