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自己紹介

自分について何かを記す、そうした欲求が立ち現れたとき、すぐ「なぜそうするか」と、その理由や目的を考えるのが常であろう。coco壱を食べたいとかの直接的な活動の欲求に、わざわざ私達は「なぜ」を問わない。だが著述は反省的な活動である。何もなくいきなり反省する人間はいないのであるから、反省の行為には理由がそれ自体(反省すること自体)に見いだせない。徒然なるままに書きつくると、「あやしうこそものぐるほしけれ」との情念が湧き出してくるのはこうした構造があるが故である。



さて。


何という見苦しい文章だ。
上述は半月前に書いた文章だが、コミュニケーションを投げ捨てた調子で半狂乱にまくしたてている。インターネットでの自己発信は、自己満足に浸れるならそれで結構なことだと感じるが、この調子で書き尽くした文章に「自己紹介」のタグをつけるのは多分いろいろ間違っている。

読書感想文や作文の宿題に気乗りしなかったのは、書き出しを考え、いつまでも納得できないまま鉛筆の固さを手のひらで感覚し続けることが億劫だったからに違いない。
なんかイヤじゃん。ほら、始めに「僕は○○しました」なんて書くのってダサい気がするし。エラい人たちはそんな風に書かないから。

・プロフィール

性別:男性。
身分:大学生。文学部哲学科。
好物:焼き海苔。おいしい。
趣味:読書。でもあんまり読まない。

どうでもいい関係の方々に向けて書くプロフィールとほとんど一緒の情報しか書けない。

・始めた理由と、これからについて

最初のわかり辛い序文で、noteのような著述活動には、何か自身に尊厳を持った上での目的意識が不可欠だと示している。半月前の私はそう言っている。言っていると思う。言っているんじゃないかな。

しかしそう言った当人は別段そうではない。
自分とその所有物に何か尊厳があって自己発信しているわけでもない。かつまた尊厳を自ら得るためにもがくわけでもない。

このような態度では、著述活動は長続きしない。
外食の際写真を撮っていた時期があったが、特に誰かに見せる訳では無いので続かなかった。このnoteもそんな感じでいつの間にか途絶えてしまうのではないのか、と薄々感じている。

そんな感じで、理由は希薄で展望も胡乱なものなのである。
誰かが私の投稿をどうだっていいと考えているのと同じく、自分も私のnoteにどうでもいい。
まあ、写真フォルダに十数あるご飯の写真の枚数と同じくらいは投稿するだろう。ではでは。



ではここで一句

古池や
蛙飛び込む
水の音

みんなもポケモン、ゲットじゃぞ〜!


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