
冬晴れの効能
寒の入り。大寒波襲来。寒さの中でも陽射しのエネルギーの強さがあるから希望が持てる。太平洋側でよかったと思うところの一つである。
日本海側、殊、北陸出身の人と話をした時、“冬の空といえば鼠色ですね。セットで冬といえば雷。じめじめも冬のものです。だから、冬にこんなに綺麗な青空が見えるなんて信じられない。”と言っていたのを思い出す。
太平洋側は乾燥、加えて、北関東に住んでいた頃は暴風まがいの強風と冷え込みに身を切られるようであったが、曇天と掻いてもかいても終わりの見えない雪掻きの日々を想像したら、青空が見えるだけでそれは希望と前を向く理由になる気がした。
寒い国の人は強い、と言った言い方には偏見や深い意味はなくて、そういう自然環境の中で暮らして生きてきたという事実が、人の知恵や身体、考え方の強さを育んできやすかったということのようにも思う。寒い環境であれば、冬季の高山へ挑むことや万年雪をたたえる世界の山々へ挑む人にも同じような強さはもたらされるだろうし、山に関わる人だけでなく、海、宇宙、地下、暑さ、砂漠…人が普通に暮らしたり生きるには難しい場所を相手にする人々には総じてそのような“強さ”が備わっていくように思う。
大きな工夫を凝らさずに生きられる場所は生きる人間にも余裕が生まれるので商売が発達して経済的にも豊かになりやすくて、豊かになれば便利や楽を追求することができる。そうやって都市は都市になっていく。すべて、と読める都の字には“ここにくればすべてがあるぞ”といった自負を感じる。一方、脅威的な自然とともにある暮らしはその影響を緩和させることへの工夫を編み出しながら、またはそこへ大きな投資をしながらの暮らしになる。自ずと出来ることと出来ないこともでてくるし、常に季節を先読みして備え、どこか憂いが引っかかっているようなところもあるが、その研がれた感性は生きていく上で生き死にを左右するものである。
そこまで考えたところで、だからなんだっていう終着点はないのだけれど。両者の深度は深くはないけれど、幸い私はどちらの暮らしも経験してきている人生である。
今、大事にしたい気持ちの比重は後者に重きがありそうだが、日々楽に過ごせている前者の環境があるから、時々の苦境をやり遂げられていると思うところもある。この時々の苦境だって、全然苦境でもないかもしれないくらいで。
もっとシビアな環境へ身を投じ、そこからやりたいことを叶えていくことも選択肢の一つで、そのやり方で掴んだものは一生の宝ではある。若かりし頃は一度くらい、えいそらと勢いと楽観さでチャレンジしたことのある人もたくさんいるだろう。私もその一人。けれどシビアな環境は、諸刃の剣で場合によっては根腐れしてしまうかもしれないのだ。であれば、これから、そういうチャレンジめいたことをするのには、どのくらいの期間だとか限度だとかを設けて、体力や精神的なバランスも取らないとよくないわ、なんて思うようになった。これは年の功としておこう。
環境は、望まなくても変化したり崩れてしまうこともある。だから、敢えて踏み込んで変える前に、どんな変化が訪れても、なんとか耐えられる人間になっていることの方が大事と思う。
健康で何事もなく過ごせますように、という願いの真価がよくよく判るようになってきた。
山登りを始めて、ハーちんと暮らし始めて、おじたんの暮らしと隣り合わせになり始めて。
どれをするにも、最初の発端は私自身の健康やエネルギーが湛然としていなければ、どれも本気で向き合えない、その先のものを楽しめない。
指が切れて痛かっただけでも、風邪をひいて喉が痛かっただけでも、それだけでもやり難さが気掛かりになり、全力で楽しめなくなってしまうものなのだ。たかだかそれくらいのこと、と思えていたのはやはり回復力の方が高かった若葉の頃で、出来るなら些細な怪我も、ないならないようにして日々過ごせたら一番いいと思うこの頃である。
なので、“健康で何事もなく過ごせますように”と一番難しくて一番贅沢なお願いをどこでもさせてもらっている。
安定して生きていられるだけで、いろんなことも考えられる。本日もこのようにして。
何も形にならないかもしれない言葉たちを紙に書きつけていく。
ハーちんのお散歩の公園を探す。
お昼の算段をつける。
どれもこれも、明るい青空の色のおかげです。

