今年最後の…
そういい合いながら、今年の自分の一年を彩ってくれたお店、友達、場所へ挨拶回りをする。
こんなことありましたね〜、あれは面白かったな〜、大変だったな〜。あの時相談したことが過去になって感想文が言えている。
今年のうちにきちんと終えることができている。
それではまた来年も、と締めくくる。そういう人、場所があることの素晴らしさは歳を取る毎に募っていく。
昨日は、今年最後のお茶会。二、三年くらいにはなるだろうか。この方と約月一度のペースでお茶会をするようになった。人生の一巡が終わり、以前よりゆったり流れるようになった今を“心も身体も暇な時期”と称し、アウトプットよりインプット多めを意識して生きていらっしゃる方。日々のあれこれから2人で考察する中で、ほぼ毎月違うセオリーや本の内容を交えてアドバイスや感想をくださる。
それでいて、その一つ一つがくどくなく押し付けがましくもない。やはりこの絶妙な距離感とテンポ感が私は好きだ。
この方が心地よい人、と感じたのは、既に初めの頃からであった。その頃から、時折、お互いに贈り物をすることがあったのだが、
“贈り物ってあれこれ思いつくけれど、つい自分目線でいいものを選びがちだけれど、本当に相手にとっていいものなのか、最終的に処分に困らないかなと思うと選択肢が急に乏しくなる”と言っておられた。
当時、身も心持ちもフレキシブルになるにはものは持たない、持ち込まない方向へと考え始めていた私にとって、対処が中々難しかった一つが頂き物の処遇であった。大方、親しい方からしか頂くことはないため、ほとんどが野菜や果物、麹や味噌といったもの。ありがたく頂けて、私やその周りの人を元気にしてくれるので本当に助かる。難しいのは時々、サービスです、おまけですと付属されるものや私のことをあまり詳しく知らない方からのよかったらこれどうぞ。おまけやサービスは不特定多数向けのものだからなんとなく万人受けにしておいているし、後者、よかったらはよかったら、なので、結構ですと断ることもできる。
だがしかし、“頂けるものはいいもので、頂けるという自分を良しとすること”そのような母方の家訓で育ってきた私としては断ることは選択肢に浮かび上がらない。同様に贈り物をするときにも家訓があって“贈り物は世の中で価値のあるもの、盛大にケチらない”。なので、母方の祖父からたくさん同じものをもらったり、私には必要がないものをいただいてそのまま箪笥の肥やしとなっているものがたくさんあった。(もちろん頂けて助かったものもたくさんある)
つまり、贈り物は贈りたい側の大きな気持ちと贈られる側の暮らし方との狭間で宙ぶらりんになってしまうことがあるものなのだということをぼんやりと捉え始め、どうしたものかと思っていたところに飛び込んできたこの言葉と思考にとても救われたのであった。
そのような考えをお持ちの方からの、今年最後の贈り物。それがこの小さなルーペであった。
“茸の図鑑とか言葉の辞典とか、そういうのも巡らせたんだけどやっぱりそういうものは本人が選ぶのがいいだろうなと思っていながら博物館へ行ったのよ。いろいろ展示を見ていたら、そういえば、あいこちゃんはいろいろなものをよく観る人だったと思いついて。なので、何かを観るときの手助けになればいいかな〜と思ってね。”
ルーペへと辿り着く思考の導き方がかっこいい。
私のことなど手に取るように分かっていらっしゃる。その洞察力とお気遣いに再び感銘を受けた。
やはり、思考と行動の思慮が深い方。私もこういう感性で贈り物を選べるようになりたい。
丁度ルーペでもないと、岩石の観察はこの先難しいな〜と思っていた矢先ではあったが、何も観る対象物は細かなものや岩石だけに留まらなくてよい。樹木、花、虫、魚…きっと、ルーペを通して見る今までの世界は新しい気づきやアイデアをくれるはずだ。今までだって面白いと思ってきたものを、物理的にも別視点でもう一度見直す楽しさを連れてきてくれたルーペ。
これがこのルーペが持っている贈り物としての真価であった。
ありがたいことに、軽くてキーホルダーになっているから、山でも公園でも持ち出せる。本当によくよく考え抜かれている。脱帽。
本日も、冬晴れ。風もない。新たな相棒となりそうなこいつと初散歩できるだろうか。ハーちん、今日はちょっとゆっくりゆっくりペースになっちゃうかもな。