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空の青さを知る君へ


[あらすじ]

 逃亡犯の津田順也は、ある目的の為に自転車で旅を続けている。
そこで遭遇する性別も年齢も違う4人の人物。
 第1遭遇者の和田努、第2遭遇者の島田将志、第3遭遇者の山﨑俊一、第4遭遇者の高瀬美帆、みんなそれぞれに鬱屈を抱えて生きている。
  順也は長い自転車の旅で、この4人と出会い、交流し、行動を共にすることで、少しずつ心に変化が……。
 順也は最後まで旅を続けることができるのか? 目的は果たせるのか?
遭遇者の4人は、順也と出会ったことで、彼ら彼女らの人生がどう変わっていくのか? サイクリング&ロード小説。



はじめの前

 前略。母さん、元気ですか。度重なる親不孝をおゆるし下さい。あらたまってこんな風に手紙を書くなんてへんな感じです。弁護士さんにお願いしたけれど、拘置所にも刑務所にも面会にはきてくれませんでした。裁判にも。
 けっして非難しているわけではありません。むしろ、こんな息子を持つ母さんの気持ちを考えると、申し訳ないです。

 離婚してから女手一つで育ててくれたのに、何ら孝行のひとつもしていません。苦労ばかりをかけ、愛想つかされるのは当然です。
 こうして手紙を書いたのは、二年の懲役を終えて、もうすぐ刑務所を出所する日が決まります。それをお知らせするのと、どうしても母さんに聞きたいことがあり手紙を書いた次第です。

 僕は父親の顔を知らないで育ちました。物心ついたころには、母さんとふたりの生活でした。幼稚園や小学校に進学すると、自分がひとり親家庭であることがわかりました。父さんのことを聞くと母さんはいつも目を三角にし、黙ってしまう。子どもなりに、これはふれちゃいけないのだと認識しました。でも、ずっと知りたくてたまらなかった。押し入れの天袋から段ボールに入ったアルバムを何冊もみつけた時、喜んだのもつかの間、父さんの写真は一枚もありませんでした。

 離婚したにしろ、僕が生まれる前は幸せだった時もあるはずなのに、写真がないことと母さんが父さんのことをこんなに頑なに秘密にする理由がわかりませんでした。今もわかりません。クラスには、両親が離婚した同級生もいてそういう子は面会交流で月に一度は会うという子もいたし、また絶縁状態だという子もいました。でも、父親をみたこともないのは、僕ぐらいでした。顔を知らないなんて、へんだといわれて人知れず傷つきました。
 自分がこの世に存在するということは、同時に父親がいることに他なりません。高校生の頃、一度こっそり市役所で自分の戸籍をとりました。戸籍には父親の欄に名前がありました。高校生の僕に出来るのはそこまででした。
 思春期をすぎると出自を知りたいという気持ちは薄れていき、どうでもいいという気持ちになっていきました。

 でも、そう思おうとしていただけで実は深層心理では気になっていたようです。何度か、事件を起こし警察に捕まり精神科の医師のカウンセリングを受けた時、「自分でも気づかないような小さな棘が悪さしていることもあるよ」といった医者もいました。
 勿論、だからといって犯罪をおかしていい理由にはなりません。今度こそ、やり直したいと心から思っています。きっとこれが最後のチャンスです。それには、いったん自分の人生を振り返る作業が必要だと思っています。この世に生を受けてからのことを。
 やっぱり僕は父さんに会いたいです。だから父さんのことを教えて下さい。
 もう、金輪際、連絡をとったり母さんに会いにいったりしませんので安心してください。最後に、僕の願いをきいて下さい。                                       津田順也
 

      ※
 泣きながら目覚めた。ここは何処だ? 一瞬今、何処にいるのか津田順也はわからなくなる。視界いっぱいに海を思わせるアートな絵が描かれている。ベッドはふかふかだった。シングルベッドのみしかない個室。ここが刑務所でないことを確認して、ほっとする。

 塀の外に出て嬉しいのかさえも疑問だった。「簡易宿泊所」に分類されている所謂、カプセルホテルだった。ハチの巣で幼虫になったような気分で泊まるのかと思ったけれど、全然違った。

 ビジネスホテルからバスとトイレを取り除いた感じだった。終電を逃したサラリーマンが仕方なく泊まるイメージだったので快適さにびっくりした。
 二十二歳の誕生日をカプセルホテルでむかえた。人生が六十年だとして、あと三十八年も生きなければならないのかと思って、はたと絶望的な気持ちになる。今まで生きた時間をもう一度やり直しても尚、有り余る年月を考えて愕然とする。なんなら今すぐ人生が終わってもいいとさえ思える。

 最初の事件で、懲役一年執行猶予三年の判決を言い渡された。執行猶予期間中に窃盗で逮捕され、新たな事件では一年六月の実刑判決が確定し、刑務所に収監された。二年半の刑期はあっという間に過ぎた。規則正しい生活。変化のない毎日。明日の食事のことを考えなくてすむのは気楽だった。希望や夢なんて、腹の足しにもならない。

 たったひとつ、考えたことがある。出所したら行ったことのない土地で暮らすこと。誰も自分のことを知らない町に住み、空き地にはえているぺんぺん草みたいに、目立つことなく生きようと決めていた。

 身元引受人がいない順也は出所しても帰る場所もない。それでも世の中は前科者にさえ手をさしのべてくれる。とりあえずは、更生保護施設で生活することになり、仕事と住む場所が決まるまでの時間の猶予を与えられた。保護司の面談では、精神科を受診するようにと何度もいわれたけれど、病院に行くお金がなかった。二度目の公判中、医師からクレプトマニア(窃盗症)と診断された。何度、警察に逮捕されても万引きがやめられない。それが順也の病だった。

 最後に母と会ったとき、父の連絡先を教えてくれた。記憶の中にさえ存在しない父のことを何故聞くのか、自分でも不思議だった。メモには山口県萩市の住所が書かれていた。母は元夫の父と連絡をとっているようだ。

 ――あなたの父親は本当の父親ではありません。
 メモに書かれた言葉の意味を母に聞く機会さえ与えらなかった。父に会えばきっと何かが変わるはずだと順也はメモを握りしめた。

第一遭遇者 和田努

「変身できなくても正義の味方にはなれる」というポスターをみた時、これだ! と和田努は思った。脳内を電気が走った。スーツの胸ポケットからスマホを取り出すとシャッターボタンを押す。スマホのカメラ機能はいつだってメモ代わりだ。地下鉄の駅の改札を出てすぐの通路の掲示板に貼ってあった一枚の警察官募集のポスターが、和田の人生の舵をきるきっかけになった。
 当時、大学四年生だった和田は梅雨が明けても一社も内定をもらえず就活のリクルートスーツは汗でボトボトだった。スーツ、ネクタイ、ベルト、靴下までセットになったリクルートのセットアップを量販店で買い、面接に臨むつもりが書類選考で落ちると面接にすら行けないので辛い。就活が永遠に続く終わりのない戦いのようだった。早くこの現状から「一抜け」したかった。

 和田は陰りつつあったがバブル景気に恩恵を受けた世代だった。今、あの頃の自分を思い出しても口の中に苦いものが広がる。同級生が内定をもらい、一抜けしていくのを羨ましそうにみているしかなかった。何故落ちるのか? 人格を全否定された気がした。自分より成績が下で、要領の悪そうな同級生が内定をもらい、何故自分はもらえないのか? 人生での初めての挫折感を味わいうちひしがれた。和田は生真面目で融通のきかなさと、叔父が警察官というのもあり、一般企業の就職を諦め、大阪府警の採用試験を受けた。採用試験に合格するまですっかり忘れていたが、子どもの頃は東映制作の特撮テレビドラマの『宇宙刑事 ギャバン』、『宇宙刑事シャリバン』、『宇宙刑事シャイダー』に夢中だった。ショッピングモールでの戦隊ショーにも父親に連れて行ってもらった。思春期には刑事ドラマにハマった。
 
 警察学校での六ヶ月の厳しい研修生活を経て、地域課と呼ばれる交番に配置された。これが俗にいう「卒配」で、大阪で唯一の村である千早赤阪村の交番だった。警察人生のスタートは波乱だった。不遇の運命にも抗わない。大卒採用なのに和田は万年巡査長だった。高卒採用の後輩たちさえ巡査部長に昇進しているのに、だ。警察官全体の三十パーセントは昇格できるという警部補で定年を迎えるのは夢のまた夢だろうと和田は諦めている。階級社会であることを痛感する。そもそも団体行動に向いていない。

 だからやっと辞令が出て呼び戻された時は舞い上がるほど、喜んだ。この退屈な交番勤務から脱出できるのだから。
 次の配属先は富田林署だった。しかも留置管理課だった。

「担当さん! 弁護士呼んでくれや」
「腹痛いねん、薬くれ!」

 ――丁の良い便利使いと勘違いしてやがる。

 腹立たしさを腹の底にひっこめる。カスハラ以外の何ものでもない。「消費者による自己中心的で理不尽な要求」のことで、カスタマーセンターのスタッフや店舗の販売員などに対して客からの悪質なクレームなどが、カスタマーハラスメントに該当する。公務員だってカスハラの被害者だ。店にくる客なら神様かもしれないが、留置管理にやってくる客は、まだ送検もされず、被疑者段階で捜査を受けているグレーな人間だった。

 警察署の中にある留置場が和田の職場だ。今日は覚せい剤使用とスナックでの喧嘩騒ぎで三名と、窃盗の被疑者で満員だった。

 表向きは、被留置者の逃走等各種の事故防止を図りながら、食事や運動の補助を担当し健康管理に配意し、被留置者が適正に生活を送れるよう努めるのが仕事だった。初めての勾留だと、かなりショックを受けおとなしいので扱いは楽だが、これが前科者だったりすると勝手知ったるなんとやらで、扱いが面倒だった。当番弁護士を要求すれば呼ばない訳にはいかないし、それを無視したら人権問題に発展する。

 捜査担当の刑事には、おとなしく従順な態度をするのに、留置担当官には態度が明らかに違うのも腹立たしい。下手に見ているのだ。

 とはいえ、毎日食事の世話や週に数回しかない午前中の入浴に関しても、取調べ前に入浴させたり、二十四時間勤務で寝食を共にしていると、一緒に暮らしている感覚も沸いてくる。割合気さくに話をしてくる被留置者には、つい気を許してしまうこともあった。

 津田順也は今朝、窃盗で現行犯逮捕され、翌日か翌々日に検察庁へ送致されることになっていた。当番弁護士も呼ばないし、家族も友人も誰も面会に来ない。留置担当官を呼ぶこともない。何もしゃべらず、ずっと黙ったままだった。留置場内では、自殺の恐れもあるので新入りの津田を気にかけて監視していた。

 夕食の配膳がおわり、津田の国選弁護人という弁護士から接見希望の連絡がはいった。弁護人がついたのだった。津田に伝える。

「よかったな弁護人がついて」
「はい。不義理した父にだけは会いたいと思っていて。もう、余命幾ばくもないんです」

 いきなり口を開いたと思ったら衝撃告白だった。たじろいだ。身の上話にしては、重すぎると和田は返答に困る。採用試験で合格し警察学校も出たのに、時間が経てば経つほど自分が警官に不向きだと思えてくる。
 まず、自分が見たものが全てだと思い込む視野の狭い人間は警官にむいていない。

 万引き犯は警察官があらわれると泣いて反省し、許しを請うものだと経験則から抜け出せないタイプ。反対に、人間は一皮剥けば真っ黒で、人の言うことは全て自分の都合のいい嘘に他ならないと信じて疑わないタイプもむいてない。自分は警官に不向きだが、どちらのタイプでもないと和田は思う。
 
 和田は一瞬、休憩中の警部補を呼ぶべきか迷ったが、別室で食事をとっているのを中断させて気分を害されるのだけは避けたかった。上司の警部補は典型的な人を見たら泥棒と思えタイプの警官だった。

 ――仕方ないか。津田ならおとなしいから大丈夫だろう。
 津田を居室からひとりで弁護士の待つ接見室へと伴った。コップなどの備品を水洗いしているとやっと警部補が休憩から戻った。五分オーバーだ。

 内部規定では持ち込みが禁止されているスマートフォンを平然と持ち込んでいたが、和田がそれを注意することは憚られた。救いようのない連中とずっと付き合っていると感覚が麻痺してくる。倫理なんてくそ食らえと思っているけれど、最後の一線というのがある。
 
 それを越えるか越えないか。最後の一線を忘れる者、自覚して踏み越える者、和田はその一線を越える勇気も、一線を忘れるがむしゃらさも持ち合わせていなかった。そもそも警官にむいていないのだ。もう、内規違反を告発するような正義感さえ薄れ始めていた。

「接見、長いですね」
「誰だ?」

 警部補はスマホから目線を離さず、聞く。
「昨日勾留された津田です。やっと国選がついたみたいで弁護人が面会に来てます」

 スマホでニュースをみながら、さして興味はないけれど、かたちの上だけで聞いているのがみえみえだった。

 和田は胸騒ぎがし、面会室をみにいく。面会室の前室から弁護士側の扉が閉まったままになっている。あれから一時間半以上も経つ。否認事件でもないのに、あまりにも接見が長すぎる。嫌な予感がする。

 ドアを開けると、弁護士も津田もいなかった。もぬけの殻だった。そこでやっと、逃走したのだと気付く。同時に自分が思い込みだけの視野の狭いタイプの人間だったと自覚した。

 ――むいてない。それどころか、警官失格じゃないか。
 笑えてきた。腹を抱えて声を上げて笑う。笑いすぎて目尻に涙が浮かんだ。こんなに笑ったのはいつ以来だろうか? 和田は考えて、すぐ記憶をたどることを諦めた。もう、どうでもよかった。警部補には報告しない。ずっとスマホみて時間潰してろ! と思う。

 当直の職員が見つけて事件が発覚するのを待つだけだ。
 津田は危篤の父親と対面できるのだろうか? ふと、そんな嘘か本当かわからない彼の言葉を信じてやりたくなった。 
     

第二遭遇者 島田将志

 「バックします」というボイスアラームが繰り返し流れトラックがゆっくり後退し始める。ハザードランプが消え程なくしてトラックは停車した。運転席のドアが開きセールスドライバーの山田が小さな荷物を抱え「ほんじゃあ、行ってくるわ」と、助手席の島田将志に声をかけると、ヒョイと身軽にトラックから飛び降りた。将志は小さく頷いた。 

 ブルーの横縞のポロシャツがあっという間に学校の正門に吸い込まれていきどんどん小さくなり最後は青い点になった。山田は運転している時以外はいつも走っているイメージだ。リスみたいに小まめに動く。歩合制らしく一つでも多くの荷物を届けることに命をかけている。

 将志は佐川急便の横乗りのバイトを始めて三ヶ月になる。横乗りとは、ドライバーの補助や荷物の持ち運びを手伝う仕事だ。

 最近ではネット通販が盛んになりさまざまな商品が出かけずして買える便利な世の中になった。その分流通の需要も増えた。ネット通販は注文してから届くまでの時間を競い合うのに必死だ。反面、運送業は過酷な仕事環境になり、運転、配達を一手に引き受けるセールスドライバーの負担を軽減すべく、会社側の考えた苦肉の策がトラック一台につきひとりの横乗りを付けることだった。横乗りは大型の免許がなくても、運転できなくてもいい。ドライバーが配達している時、車にいることで駐車違反を間逃れたり、サポート要因としてドライバーに重宝がられた。セールスドライバーよりずっと賃金が安いから会社にとってもメリットが多い。専ら人材派遣会社からの派遣社員だった。

 ロジスティクスとトランスポーテーションの複合機能で会社はここ数年、飛躍的に大きくなった。CMなどのイメージ戦略も当たり、佐川男子や佐川女子と写真集まで出版されている。飛脚のイメージが一新され、今ではグローバル企業になった。

 将志は助手席のウインドを全開にし、体を半分ぐらい出して空を見上げた。見覚えのある景色だった。将志の母校だった。

 配達で地元を回ることなんてほとんどなかった。だから既視感のある風景にも油断した。校庭をみても何の感慨も沸いてこなかった。小学生だったあの頃にみた空はこんなに高かっただろうか? 空いっぱいに雲が広がっている。グランドと校舎の距離感がこんなに狭かっただろうか? 鉄棒の高さもずいぶんと低く感じた。

 自分がオトナになったということかもしれなかった。うんていや登り棒などの遊具で遊んだ記憶はあるけれど、一緒にいた友だちである彼ら彼女らについて、名前も顔も全く思い出せない。ドッジボールで足ばかりを狙ってくるずるがしこいあの同級生はなんという名前だったっけ? トレードマークだったアニメのキャラクターの黄色いTシャツに短パンという風貌は浮き上がってくるのに、もう少しというところで顔が浮かばず記憶の引き出しからひっぱりだすことができなかった。一様に彼ら、彼女らには顔がなかった。顔がのっぺらぼうなのだ。この不思議な現象を今まで誰にもいったことがない。理解してもらえないだろうと思うといえないでいる。

 将志は小学校の六年間の記憶が曖昧だった。それ以前の記憶はある。遡ると三歳ぐらいからしっかりした記憶がある。一番古い記憶は、ディズニーランドでミッキーマウスの大きさにびっくりして大泣きしたことだった。一緒に写真を撮るといって聞かない将志の母親が無理矢理横に並ばせた。

 三歳の将志は自分よりずっと大きな三等身の着ぐるみの不自然さに恐怖をおぼえブルブルと震え出し、ついには泣き出した。ディズニー好きの母親は「折角、連れてきたのに!」とヒステリックになった。将志が嫌がるのをお構いなしで我が子とミッキーのツーショットを撮るといい、一歩も引かなかった。シャッターを押したのは父親だった。将志も三歳児における全力を尽くし、フレームに収まることを拒み暴れまくった。結果、両者にとって不本意な写真がリビングのフォトスタンドに入れられ飾られている。

 将志には翌日も更なる試練が待っていた。アンバサダーに泊まった島田ファミリーはオプションで「シェフミッキー」を予約していた。朝食を食べながら、宿泊客がディズニーキャラクターたちと思う存分に一緒に写真を撮ることが出来るレストランだった。

 近づいてくるコック服のミッキーに将志は全身全霊で拒否する。「こないで!」と叫ぶと、母親も負けじと「ここの朝食、いくらやと思ってるの。一人三千円やで」と叫んだ。母性より、ディズニー愛なのだった。
 幼少期のトラウマから東京ディズニーランドのCMでミッキーマウスをみると将志は背筋にぞぞっと鳥肌が立ち、チャンネルを変える。恐怖心が植え付けられてしまった。あれ以来、将志は一度もディズニーランドやディズニーシーに足を踏み入れていない。

 こんなに幼児期の記憶が鮮明なのに、小学生の記憶がすっぽり抜け落ちている。成人して二年になるが、生まれてこの方、引っ越ししたこともなく、転校生になった経験もない。義務教育の九年間は校区である地元の公立学校に通った。

 中学、高校、大学での同級生の名前をはっきりいえるので、若年性の認知症という訳ではない。小学生の頃を思い出そうとすると、キリキリとこめかみが締め付けられるように痛む。三蔵法師が孫悟空の頭に装着した緊箍(きんこ)が呪文によりグイグイと頭を締め付けるように将志の頭にも透明の緊箍があるようだ。痛みに意識が朦朧とする。脳が抗っているように思えてならない。将志は記憶力はいい方だ。暗記科目の日本史も地理もむしろ得意だ。新しい記憶は海馬に、古い記憶は大脳皮質に保存されるらしい。SNSでエゴサーチした時も原因不明の吐き気に襲われ途中で断念した。

 ――どうやら自分には触れてはいけない過去があるらしい。

 誰にだって忘れたい黒歴史は一つや二つある。とセールスドライバーの山田が教えてくれた。山田はハンドルを握りながら、いつも何でもない話をしてくれる。相づちを打たなくても「おい、聞いてるのかよ!」なんて他のドライバーみたいに怒鳴ったりしないし、助手席で船を漕ぐ将志に「疲れてるんだなぁ」とつぶやき、しゃべりかけず寝かしてくれる。コミュニケーション力に乏しい将志が年上のオトナを慕うことはこれまでなかった。

 山田の根っからの寛容な性格が将志の心を掴んだ。だから山田のいうことなら将志は何だって素直に聞けた。将志が初めて心を開いた大人だった。
 横乗りのバイトを始めた頃、ドライバーに怒鳴られたり、横乗りを「島田以外で」と名指しで拒否されたり、立て続けにトラブルを起こし辞めてしまおうとしていた時、山田の横乗りに当たった。それから山田は将志を横乗りとして指名してくれるようになった。

「お前、オレ以外駄目だろ?」と笑っていった。押しつけがましくなく。ふたりはウマがあった。空をみることは、山田が教えてくれた。雲には名前があることも。将志は雲に種類があることを初めて知った。

「ほら、見てみい。ハケではいたみたいな雲やろ? 巻(けん)雲(うん)っていうねんで」
「すげぇー」
「雲の仲間の中で一番高いところにできる雲や。人と同じで、一期一会やねん。二度と同じ雲をみることができへんからしっかり、見ときや。雲を見ていると『そこで今、何が起こってるんやろう』って想像力や好奇心をかき立てられると思わへんか」

「想像力?」
「人も同じやで。どんな気持ちなんやろって。そういうのが大事やろ」
「首、イタっ」

 将志は長い間、同じ姿勢をしていたからか顔を下にむけると首に電気が走るような痛みを感じた。大げさな素振りで誤魔化す。今日に限っては山田の説教が鬱陶しい。

 ――そんなのわかってる。人とうまく付き合えないのは、それが原因だってことぐらい。理解することと、素直に受け入れることは、決してイコールにはならない。

「下を向く乞食は貰いが少ないっていうやろ。上を向いて歩こうや」
「それをいうなら、慌てる乞食はもらいが少ない、じゃないんすか? それに出会いが一期一会なんて、思わないっす」
「ひとりぐらい、印象に残ってるヤツいるやろう」
「そもそも友だちなんていないんで」

 のっぺらぼうの同級生ばかりだったけれど、ひとりだけ顔のある同級生がいた。彼とは塾が一緒だった。校区が違う同級生で、唯一の友だち。

 ――ツダジュンヤ。
 声に出さずとも、この名前を思い浮かべただけで、苦々しさが口の中に広がる。横乗りをする前にバイトしていたコンビニで、将志と津田順也は再会した。地元なので、顔を見かけることはあるけれど、よっぽど親しくない限り暗黙のルールで声はかけない。

 将志は時給の高い深夜勤務でシフトを組んでもらっていた。深夜のコンビニは昼間ほどレジが混み合わない。バックルームでオーナーが仮眠をとっているものの、ひとり勤務なのでバイト同士のコミュニケーションも不要で気楽だった。客も少ない。

 いつものように、客もなくて荷出しもなくレジで椅子に座ってスマホをいじっていた時だった。すーっと自動ドアは開き、ジーパンTシャツ姿の若い男が入ってきた。黄色に目が止まった。コンバースのオールスターのイエロー。このスニーカーに見覚えがあった。

 小学校の頃の記憶がよみがえる。切れかけでチカチカする電球のフィラメントに、光がともるように過去と繋がった。
 順也はいつも黄色のコンバースを履いていた。当時は、ABC-MARTのような靴の量販店もあまりなくて、だからこそ小学生低学年の児童がコンバースを履いているのは珍しかった。

「黄色ってイエローっていうねん。知ってる? オレ、黄色が好き」と屈託無くいう順也は、明朗で活発な小学生だった。公園で一人遊びする将志に声をかけ、いつの間にか一緒に遊ぶ友だちになっていた。のっぺらぼうでない顔のある友だち。

「きーくん?」
 一瞬、表情が強張り津田順也はにかっと笑った。
「なっつかしー。そう呼ぶの将志だけだよ」
「今も黄色好きなの?」
「オレのテーマカラー。ラッキーカラーっての?」
「メローイエローよく飲んでたよね」
「あれカフェイン入ってるらしいね。知ってた? 子どもやのにめっちゃ飲んでたけどさ」

 将志は息苦しさを感じた。
「ねぇ、裏にとめてる黄色のHUMMERって将志の? すげーな。フルサスペンションやん」

 バイト代で買ったHUMMERだった。シマノ製で、十八段変速機搭載だ。マウンテンバイクでも強靭なハマーはタイヤが太いから坂道も難なく走れる。
「またくるわ。じゃあな将志」
 順也は笑みを浮かべた。将志は翌日、コンビニのバイトをやめた。

「山田さん、今ニュースになってる富田林署を脱走した逃亡犯いるっしょ? あれ僕の小学校の時の同級生っす」
「マジで?」
「駅前の駐輪場においてたHUMMERにメモがくっつけてあって、連絡くれって。警察には絶対連絡しないで欲しいって」

 山田はゴクリと音をならして唾を飲み込んだ。

「で、会ったのか? 津田に」
「メモは捨てて、サドルに付けたたダイヤルロックワイヤーを外しておきました」
「貸したのか? 自転車」
「翌日、駐輪場に行ったらHUMMERは無くなってました。誰かに盗まれたみたいです。防犯登録してるので、すぐ見つかるでしょう。多分。それでも、逃走援助の罪に問われますか?」

 将志は不敵な笑みを浮かべていた。

 

第三遭遇者 山﨑俊一

 ――おはようございます。今日は午前中から雨が降る予報。朝五時に目が覚めると、ひとまずは止んでいることを確認。この隙に出来るだけ移動してぇ~! ということで今日も元気に出発します!

 ――とうとう、雨が降りだしました! 
天気がもつと思っていたのですが午後から雨がパラついてきたので、慌てて屋根の下に移動しました。レインウェアに着替えました。ゴアテックス素材を使っているものがお勧めです。

 雨の日でも快適に走れる工夫が随所にみられるので。水の浸透を防ぎ、身体を冷やさず、さらに蒸れにくい。こんな複雑な条件を満たしているだけでなく、ペダリング時の脚の突っ張りや、気になる風の影響も極力抑えられている設計になってます。高かったけど、これは買ってよかった! 

 出発地 健康ランド 午前五時三十分
 到着地 ユースホステル 午後四時
 走行距離 八五・三八
 総走行距離 六〇五八・六七
 平均速度 二〇・三三
 最高速度 五一・五
 〈支出〉 
 朝食 なし
 昼食 五百五十円 ラーメン
 夕食 カレー
 飲料 百四十円  ペットボトルミルクティー
 酒   四百六十円 ビール
 宿泊 千五百円 ユースホステル(夕食付き)
 使用金額 二千六百五十円
 
 スマホから、ブログをアップすると山﨑俊一はせんべい布団に倒れ込むようにダイブした。腰に硬い床材の存在がダイレクトに伝わってくる。
 ――イテテ。
 腰が痛い。疲労と筋肉痛だ。それでも、このまま目を瞑ったら朝まで起きない予感がする。意識が虚ろな中で、既に考えることを放棄した。一日一日、肉体の疲労は蓄積され泥のような眠りを誘う。雨は体力を奪う。
 今日も何度もスリップし危うく転倒しかけて、ひやりとした。その都度、神経を集中させ、ハンドルをぎゅっと握った。こういう時、死と隣り合わせだと思う。

 今まで四十二年、生きてきて死ぬかも! なんて瞬間に遭遇したことがなかった。テレビ番組でよくみる「九死に一生」のようなドラマチックな人生ばかりが再現ドラマ化されている番組は、特別な人ばかりで一般人とは別世界のことだと思っていた。漠然といつかは自分も死ぬことは自覚している。でもそれはまだずっと先のことだと勝手に思い込んでいた。だから今の生活は生きている実感のような手応えを感じている。危険にさらされて初めて生きている実感を持てたことは新鮮だった。

 ――もしかして、オレの人生ってスリリングじゃないか?
 急にスポットライトを浴びたみたいに気持ちが高揚した。心拍数があがり頬が赤く染まっているのを自覚する。

 半年前に会社を退職した。銀行のATMで退職金が口座に振り込まれるのを確認し帯封の付いた札束を窓口で受け取ると、後ろや周りを見回し、ひったくりに遭わないかと心配になった。札束の入ったカバンを胸に抱え、自転車専門店に直行した。店員にロードバイクで日本一周をするから装備を揃えたい旨を伝えた。ロードバイクはすぐ使える完成品を購入した。

 トータルすると結構な金額になった。誰しもまとまった金を手にすると気が大きくなるのか、後悔はなく、むしろ晴れ晴れした気持ちになった。今後の生活については、なんとかなるだろうと高を括っていた。

 山﨑は自転車での日本一周を始めた。インスタもツイッターもフェイスブックもLINEさえせず、SNSとは無縁の生活をおくってきたはずなのに、この年齢にして初めてブログデビューした。
 
 ――「酒好きアラフォーチャリダー」が自転車で日本を旅します。2019/○/○ 根室 納沙布岬発反時計回り

 酒好きアラフォーチャリダーが、山﨑俊一であるとは山﨑の関係者でさえわからない筈だ。日本一周を誰にも告げていない。たとえ日本一周を成し遂げたとしても誰も「おめでとう」をいってくれないし、最終地点でテープを張って、ゴールを祝ってくれるわけでもない。こんな大それた挑戦をしている自分のことを誰も知らないのだと思うと淋しくなった。いっちょまえに承認欲求があることに驚いた。

 ――いや、「いいね!」が欲しいわけじゃない。応援をして欲しいのだ。ひとりになりたいけど、孤独は嫌だった。人は一人じゃ生きていけないっていうのは、物理的な面だけじゃなく、精神面でもだと改めて知った。どこの組織にも属さない時間を持ちたいと思い、一人旅を選んだ。家庭、学校、会社……意識しなければ当たり前のように身の回りにある環境は、本当はかけがえのない存在であることに旅に出て気づいた。
日本一周の旅に出てから二十日が経った。

 ――すごく心細い。
 これまで、家族や友人、知人、会社の同僚など誰とも顔を合わせない日なんて、なかったと思う。しかも十日以上、知った人と顔を合わせないなんて、今までに一度もなかった。山﨑は年甲斐もなく孤独感にうちひしがれていた。

 ブログを始めてから行く先々で声をかけてもらい、応援してもらって、時にご飯をご馳走になったり、差し入れをもらったりした。時期もよかった。俳優が自転車に乗って日本全国を走り、視聴者からのお便りで「人生を変えた忘れられない風景」「大切な人との出会いの場所」「こころに刻まれた音や香りの情景」「ずっと残したいふるさとの景色」など、手紙に書かれたエピソードをもとに、ひとりひとりの心に大切にしまってある「こころの風景」を訪ねる番組が中高年のブームになっていた。
 
 それと山﨑のブログがうまくマッチした。恵まれた環境で、楽しく旅をすることができていると思っていた。そもそもこれほどの出会いがあるとは思っていなかったし、その土地土地で素晴らしい景色を目にすることができたのも驚きだった。ネット上でみる絶景より実際に目の当たりにする景色の方が百倍は壮大で、迫力があった。肌で感じる空気感というものの大切さを生まれて初めて知った。こんなに色んな場所を巡ることになるとは思っていなかった。

 その一方で、出発して十日程経つと何処からか降って沸いたような孤独感に心が支配されていった。これまで生きてきて、寂しいとか心細く感じることなんて一度もなかった。

 自分でも驚いた。テントでの野宿、慣れない自転車移動、家族や知人など誰もいない環境で、出発前に考えも及ばなかったストレスを感じている。みんな投げ出してまた、逃亡しようかと思ってしまう。会社を辞めたのも旅に出たのも逃亡なのだ。

 そんな時だった。ボクチャンと出会ったのは。
人なつっこい笑顔が「自転車にて日本縦断中!」のプレートを指さして聞いた。

「すごいっすね。何処からですか?」
 ボクチャンは黄色いHUMMERに乗っていた。
「君も? もしかして日本一周してるの」
「いや、僕は行くところがあって……訳ありで自転車一人旅です」
「旅は道連れ世は情けっていうから。途中まで一緒にいかないか?」
 気づいたら口が勝手に動いていた。気負いなく誘っていた。
「そうですね。僕、あまり自転車の知識もないし、ノウハウないんで色々教えて下さい」
「そうなの? え、何処から来たの」
「大阪です」
「へぇー。そんな身軽な装備でよく来れたね」

 ボクチャンは大きなバックパックひとつ背負ったきりだった。よく思いつきで何の計画もなく、装備もなく旅にでる輩がいるけれど若い彼もその類なのかと思った。

「で、何処にむかってるの?」
「父に会いに」
「おいおい、マルコかよ」

 ボクチャンは笑うべきか、神妙な顔をすべきか判断がつかないようで、困った表情のまま固まり黙っていた。

「ゴメンゴメン。知らないか? 母をたずねて三千里。ジェネレーションギャップだな」
 相棒ができて山﨑は舞い上がっていた。孤独がこんなに精神をむしばむとは思っていなかった。一人旅を軽く考えすぎていた。山﨑は無神論者だったけれど、

 ――もしかして、ボクチャンはこの旅を続ける為に神様が与えてくれたプレゼントじゃないか? とさえ思った。それぐらい心が弱っていた。
 ――出来る限り、ボクチャンには何でもしてやろうと心に誓った。 
   
「今まででほんまツラいって思ったことありましたか?」
「あるよ。もちろん。聖地扱いされるけど、北海道のオロロンラインかな。一番あそこがしんどかったなぁ……正直、自転車に乗るのが嫌になった。お尻は痛いし、景色もさぁー、何の代わり映えしなくて海と道路と草原がただただ続くっていう。百キロは続くからね。よく北海道は直線の道路がすごいっていうけど、メビウスの輪かっての。同じ景色ばっかりで終わりがわからん。永遠に続くのかって思えてくるからね。日本の最果てって感じやったな。ほんとオロロンラインはしんどかったねぇ」

 山﨑が張ったテントでふたりは蓑虫みたいにシュラフでやすむ。
「すごいな。到底、僕には無理です」
 ボクチャンは今時の若い奴にしては珍しく従順でいい奴だった。会社の新入社員なんて二言目には不平不満しかいわない。ちょっと注意すると刃向かってくる。反抗的な態度を隠そうともしない。だから意気投合することなんてあり得ない。若い奴に懐かれる心地よさ。居心地のよさ。兄貴分の気分だった。

「ちょっとトイレ行ってきます」
 といいボクチャンはシェラフから蛇が脱皮するみたいにズルズルと抜け出して、テントの外に出て行った。
 ただ、気になることもあった。左足のふくらはぎに入れている刺青。

 ――高山寺の鳥獣戯画だ!
 社会科の資料集なんかでみたことのある、あの動物たちが踊っているような絵柄だった。ふくらはぎに彫られているのは確かにそのウサギだった。卯年なのか? 

 意外だった。違和感を覚えたという方が正確な心境かもしれない。
昨日、休憩した道の駅に小さな足湯コーナーがあった。ふたりして靴下を脱いで足湯に浸かり、子どもみたいに無邪気に足をバタバタさせるボクチャンに目をやりギョっとした。

 坊主頭でこんがり日焼けして健康で健全そうなボクチャンがなんで刺青? 今時はタトゥとかいって若者がおしゃれ感覚で気軽にいれちゃったりするんだろうか。親は何もいわないのだろうか。そういえば、家族のことは話したりしないなぁと思う。でもそれはお互い様だった。誰しも話したくない話題はあるし、と山﨑は思う。現に自分も家族の話題をしたことがない。意図的にではないにしろ。

 ――こうみえて、半グレだったりして。
 山﨑は自分の想像したことが急にこわくなる。いつだったか、なんとなく付けていたテレビからながれていた映像が頭をかすめる。半グレ集団——暴力団には所属せず、犯罪を繰り返す集団。警察庁が「治安を脅かす新たな反社会勢力」を追う番組だった。中国残留日本人の二世、三世を中心に結成された「怒羅権(どらごん)」の創設メンバーである男の過去と現在を取材したノンフィクションだった。自分とは一生接点のない世界の人間だと思っていた。到底自分の手に負える相手ではない。まさか、ボクチャンが? 現に何処の馬の骨とも知れない見ず知らずの人間と寝食を共にし、一緒に旅を続けている。危機管理能力が低すぎやしないか。自分の境界線の低さと楽天的な性格が空恐ろしい。そう思い出すと警戒心がむくむくと涌いてくる。

 ――会社を辞めたのだって……
 山﨑は封印を解くように留めていた記憶がどっと溢れ出した。

 白河弓奈。柔らかなウェーブのかかった髪と小柄で華奢な彼女をみると男なら誰だってつい守ってやりたくなるはずだ。笑うと花が咲いたように顔の表情がぱっと明るくなる。

 柔軟剤の香りなのか、それともシャンプーなのか、女性にうとい山﨑にはよくわからないけれど、フローラルの甘い香りに軽いめまいを覚えた。だから、彼女が手配ミスで上司にこっぴどく叱られ、それを励ますつもりで駄目もとで飲みに誘ったらついてきた時は驚いた。まさか誘いに応じるとは思っていなかったので、何の予約も準備もしていなくて、行き当たりばったりで駅前のチェーンの居酒屋に行った。

「ま、気にしなくて大丈夫。部長もあんなだけど、根に持たないからさ」
「どうしたらいいかわかんなくて」
 ホロホロと泣く彼女の頬を涙が伝う。
「さーさぁ、飲もう。飲んで忘れちゃおう。乾杯!」 

 ――確かに調子に乗ったかもしれない。断られるとばっかり思っていたのに、何故か弓奈はついてきた。もしかして、脈がある?

 山﨑は舞い上がっていた。いつもより早いペースで飲んだかもしれない。何杯飲んだか記憶がなかった。兎に角、すごく気分がよかったのだけは覚えている。タクシーで彼女の肩を抱いた。そして……

 翌朝、目が覚めると、自宅玄関で靴を履いたまま、倒れ込むようにして眠っていた。前日の記憶が全くなかった。二日酔いで頭が痛くて何も考えられなかった。

 居酒屋までと、それ以降の記憶は断片的だった。それでも家にはちゃんとたどり着くんだよなぁと、山﨑は自分の動物的な帰巣本能に感心する。
 だから弓奈が翌日から一週間休み、その後、一度も出勤することなく暫く休職すると噂で聞いた時も、心配はしたものの原因は、例の部長の叱責を気に病んでのことだろうと思っていた。

 一ヶ月後だった。部長に呼ばれ、「これは本当なのか?」と白河弓奈の代理人と称する弁護士からの内容証明をみせられた時は霹靂だった。気が遠くなり、目の前が真っ暗になるというのはこういうことなんだと、山﨑は身をもって知った。

 セクハラの訴えだった。山﨑に対しては損害賠償として百万円、会社に対しては不法行為の使用者責任に基づく損害賠償請求として、三百万円を請求する内容だった。

 「タクシーの車内で身動きのとれない状況にあるところ少なくとも十分以上の間に渡り、胸を揉むわいせつ行為を継続した」目で文章を追っているのに、文章が全然頭にはいってこない。

 「準強制わいせつ」だの、「心療内科のカウンセリング料として」だの、「結果、被害者は情緒不安定、不眠、無気力などのうつ状態に陥った」だの、センテンスだけが、頭の中をスルスルと通り抜けていった。まるで現実味が感じられずに、他人事みたいだと山﨑は思った。

 記憶になかったが、ただ胸は触ったかもしれないと思う。確かに手に彼女のやわらかな胸の感触があった……気がする。

「どうなんだ!」
 部長は顔を真っ赤にして山﨑に詰め寄った。
「き、記憶にございません」
 終始山﨑は下を向いたままだった。ただただ申し訳ございませんを連発するしかなかった。

 結果、会社を辞めた。形の上では自主退職だったが、事実上の解雇だった。セクハラの噂はみるみるうちに社内に広まり、とてもこの環境で仕事ができるとは思えなかった。尾ひれがついて、強制性交等罪で捜査の手が及んでいて逮捕秒読みだと、伝言ゲームよろしくもっともらしく伝わっているようだった。
 それから白河弓奈とは一度も会っていない。もうどうでもよくなって、いわれるまま示談に応じた。入社以来こつこつ積み立てていた積立を解約し、示談金の百万円を彼女の代理人の弁護士口座に振り込んだ。女性不信になりそうだった。いや、人間不信でトラウマになった。あまりのストレスから突発性難聴を発症し、入院した。

 旅に出てから飲んでいなかったベンゾジアゼピン系の抗不安薬の錠剤を小銭入れから取り出す。ペットボトルに入れた水道水で飲み下す。それでも不安な気持ちは治まらず、妄想はとまらない。

 ――人は裏切る。簡単に。

 もしかしたら、ナイフでも隠し持っているかもしれない。そう思うと居ても立っても居られなくなり、山﨑は公衆トイレに行き暫く帰ってこないだろうボクチャンのバックパックのジッパーをあけた。
 まさぐるように手を突っ込む。大切に防水用の袋に入れられた四角くて固いものに手があたる。

 ――本? 
 逆さにひっくりかえしても、空のペットボトルや非常食用のカロリーメイトやエネルギー補給のゼリー、衣類やタオルぐらいで、それらしきものは出てこなかった。ブックカバーのついていない裸の単行本をとり出す。「家族をつくる―提供精子を使った人工授精で子どもを持った人たち」、「AIDで生まれるということ 精子提供で生まれた子どもたちの声」という本だった。

 ――エイ、アイ、ディ? ってなんだ。
 初めて聞く言葉だった。足音がした気がして、荷物を慌ててもどす。黒皮のカードケースが落ちている。入れ忘れた? 手にとると透明のパス窓から運転免許証がみえた。

 ――津田順也。
 それがボクチャンの名前だった。何処かで聞いたことある名前だ。山﨑はスマホを手にとり、検索エンジンに「津田順也」と入力した。
 

第四遭遇者 高瀬美帆

 「死ねる薬を置いていってくれ」

 そう貞夫はいうと美帆に背を向けた。
 突然、病院から高瀬美帆の携帯に電話があったのはちょうど一年前だ。

「お父さんの貞夫さんが緊急入院されたので至急、病院に来て下さい」
 といわれ、取るものも取り敢えず、美帆は新宿発の高速バスに飛び乗った。緊急事態にも関わらずバスを選んだのは新幹線より、LCCより、高速バスが一番安かったからだ。経済的な理由からコストで選んだ。

 美帆は連絡のあった実家近くの病院にむかい帰途につく。高瀬家では昔から病院といえば、この市立病院だ。十年ぶりの故郷だった。

「父さん! またそないなこというちょる」
 いつものことだった。帰省してからこのやり取りを何度しただろうか。他人が聞いたらはっとするだろうこんな台詞を聞いても全く動じない。むしろ、また始まったとイライラの虫が騒ぎ出す。

 多発性骨髄腫を発症していると分かったときには既に手の施しようがなかった。余命宣告は必ずしも正しい判断とはいえず、それよりずっと長く生きることもあるし、もっと早く亡くなる場合もあると主治医にいわれ、美帆は東京の賃貸マンションを引き払い実家に戻った。腹をくくり父の介護をすることに決めた。

 高校卒業して上京し、十七年暮らした東京には未練はなかった。母親は十年前に他界していた。父を介護することを決めたのは母への贖罪の気持ちが大きかった。心不全だった母の死に目に会えなかった。長年の過労が原因だった。

 母ならこんな時、どんな風に父をいなしただろうかとふと、美帆は考える。貞夫は貞夫で上京した娘を呼び戻す形になり迷惑をかけていることが耐え難いのだろう。素直に甘えたり出来ない質なのだ。

 貞夫は揺るぎない価値観を持っている。病気の自分は何もできないから生きていると迷惑がかかり、生きる意味も価値もない。だから死にたい。いつも最後に行き着く先は決まっていて「死ぬための薬をくれ」となる。

 ――生きる意味ってなに? 生きる価値のある人間はどれほどいるのだろうか。

 美帆にはわからない。有用性を重視する貞夫の人生観はしごく普通の価値基準といえばそういえる。父は達成感を求めて仕事を転々と変えた。勝手に仕事を辞めてくる父のせいで母の苦労は絶えなかった。それなのに、美帆は母が愚痴や文句をいうのを聞いた事がない。パートを増やしたり、夜遅くまで内職をしたりして家計を支えていた。

 そんな母親みたいになりたくなかった。美帆は高校卒業と同時に家出同然で、上京した。だから結婚にも将来にも希望も夢もない。そもそも生き甲斐を求めて生きなきゃならないのだろうか。

 ベッドテーブルの上にモロゾフのプリンの入っていたガラス容器がある。それをコップ代わりにし、その中に入れ歯を入れている。貞夫は寝るときには外す。隙をみて洗浄剤で消毒するのは美帆の役目だった。はじめは、父親の入れ歯なんて見るだけでぞっとしたし、触れるなんてできっこないと思っていた。

 今では平気だった。気持ち悪いという感覚はどこかに飛んでいった。介護とはそういうものなのかもしれない。

 廊下にある共同の洗面台までコップに入った入れ歯を持って行き、蛇口をひねり流水で十分すぎるぐらい洗う。いつの間にか素手で入れ歯を持っても平気になった。入れ歯が入っていない父の顔は十は年老いて見える。口元に皺が寄る。すっかり痩せて年齢よりずっと年を取ってみえる父をみていつも悲しくなる。

「お父さん、入れ歯ここにおいちょるよ」
 目をつぶったまま、頷くように首が少しだけ動く。
「じゃあ、うち仕事に行くっちゃね」
 と後ろ髪を引かれながら病室を後にした。
 
 美帆は中学の同級生が経営する警備会社でガードマンとして雇用して貰っている。工事現場の交通整理や現金輸送車の運転などではなく、私服の万引きGメンだった。面接の時、「そんな警察みたいな仕事が自分に出来るのか、不安だ」というと、「腕力に自信のある男性よりも、実は女性がむいているんだ。

 ほら、スーパーだってホームセンターだって女性客が多いだろ? だから目立たない。まさか、こんなのほほんとした奥さんが警備員とは思わんやろ。高瀬、絶対むいてるよ」と励まされた。自分は主婦に見えるということだろうか? と美帆は心裏を読み取ろうとする。

 シフトによって職場は変わる。大型スーパーの時もあれば、ホームセンターや道の駅に派遣される場合もある。今日は道の駅だった。
 一般客を装って巡回する。店内を買い物するフリをしながら万引きの犯行の一部始終をチェックし、店外に出たところで声をかける。それが私服保安員と呼ばれる万引きGメンの仕事だった。

 万引き犯は単独とは限らない。転売目的で、何人かで窃盗を行う窃盗団のような形態もあれば、一人で棚の商品全部持っていく強者もいる。犯人が店を出るまでは捕まえてはいけないという決まりがあり、それまではどんなにカバンに商品を入れようが、ポケットに未精算の商品を詰め込もうが、注意したりできない。ある意味無力だった。じっと待つしかない。犯行は未然には防げないのだった。

 初犯は持っていく商品が一個から二個がほとんどだが、常習犯になると一回で商品百点あまりを持っていこうとする。店にとっては大損害だ。

 年齢層も女子高生から中年の主婦、高齢者に至るまで万引きする人たちは色々だった。万引き犯を捕まえた瞬間に暴力を振るわれて病院送りになった同僚もいる。犯人が逃げようとして走り出した車に引きずられた勇敢な男性警備員もいた。いつだって危険と背中合わせだ。

 店内を歩き回り、仕草・行動・目線など、あらゆる挙動で瞬時に万引き犯を判断する。
最近増えているのは、単独で万引きするごく普通の人々だった。手口としては基本的なものでは、ショッピングカゴを使わないで、レジを素通りし未精算のままの商品を手に店外にでる。

 美帆たちには昼休憩がなかった。昼時は従業員と共に監視する万引きGメンも休憩をとっていると思われがちだけれど、監視する側である美帆たちに昼時の休憩はない。

 朝も早い。開店前からスタンバイする。万引きGメンという仕事は、まず「開店狙い」と呼ばれる万引き犯に目星を付けることからはじまる。
朝一で万引きなどするわけがないというのは、勝手な固定概念だと、研修の際に教えられた。

 商品を持ったまま店舗から出たところで、自ら声をかけ事務所へと連れて行く。いかに万引き犯に、「これは立派な犯罪なんですよ」と説き、自分が行った犯行を認めさせるかが、この仕事での一番高いハードルだった。
 商品を持ったまま店外に出たところで、万引き犯らに声をかけ、極力目立たないようにバックヤードの事務所へと連れて行く。美帆はこの説得を得意とした。同僚には演技がかっていると批判されることもあった。「女優だからつい劇場型になる」と揶揄されたりもした。東京での経歴がどこからか漏れているらしかった。

 卒業後、上京すると劇団に所属し、非正規で働きながら女優をしていた。無名の小さな劇団で、いつも運営費を集めるのに四苦八苦し、お金がないとキュウキュウいっていた。

 劇団員はバイト代を最低限の生活費を除いて、劇団に上納する。まるでたちの悪い宗教団体のようだった。たまに、テレビ局のオーディションを受けて、再現VTRに出演した。番組の出演クレジットにも出ないような端役だった。それでも、美帆は満足だった。

 ある時は、健康番組の患者のAさんだったり、ある番組では店でクレームをいう嫌みな女性客だったり、またある時は波瀾万丈な人生を送ってきた有名人の若かりし頃の役だったりした。

 事務所で万引き犯と机にむかえあわせに座り顔をつきあわせる。美帆は嘘を見破る力があった。

 机の上には、万引きした商品が並べられている。「山口きららピクルス」の瓶詰め三つと蜂蜜の瓶二つだった。

「ごめんなさい。初めてなんです。つい出来心で……」
 いきなり、謝られた。自分と同世代の女性だった。膝にのせられた手はギュッと片方の手を握り、力が入っている。左手の薬指に結婚指輪がみえた。こざっぱりした服装からは、一切生活苦は感じない。美帆が使っているフローラルアロマの柔軟剤と同じ匂いがした。

「悪いことってわかってますよね? どうして万引きなんてしたんですか?」
「子どもの受験のことで頭がいっぱいで、気づいたら盗ってました」

 女性は謝れば無罪放免になると思っているようだった。いたって冷静だった。初めてだったらもっと動揺するし、すぐに認めたりしない。躊躇することなくスラスラと盗んだ理由まで述べた。身分証明の提示を求める。おずおずとカバンから運転免許証を差し出した。

 常習犯だった。本部に氏名照会をすると、系列店で同一人物の記録が複数見つかった。前回は「お義母さんの介護でイライラしていたから」が理由だったようだ。

 土下座までして謝罪し、もうしないといとも簡単に約束する。警察でも「もうしません」と神妙な顔をする。そんな態度を見て「今回は本当に反省しているな」「信じてみようか」と思わせる。なのに、ほどなくして再び万引きをする……。

「悪いけど、警察呼びますね。マニュアルなので」
「たいしたものを盗っていないんですけどね」

 女性はさっきまでの気弱さは微塵も感じさせない豹変ぶりで、ちょっと苛ついてさえいるようにいう。

「ちゃんと病院にいった方がいいですよ。あなた、依存症です」
 暫くして夫が会社から迎えに来て、連れて帰った。ふたりは土下座した。警察には通報しないでいいと店長がいったので、そのまま帰すことになった。最終的に警察を呼ぶかは店長の裁量なのだ。

 あの女性は完全なクレプトマニアで、きっと治療をしないと治らない。美帆は無力だった。

 店内を巡回する常連客のオバサンをみつけて、美帆ははにかむ。
 そのオバサンはいつも二つ折りの財布が入ったらいっぱいいっぱいの花柄のゴブラン織りの小さなカバンを手に提げてやってくる。

 開店と同時に。夏休みの小学生がラジオ体操で、皆勤賞を狙うみたいに毎日やってくる。タイムカードを同じ時間に打刻するように。

 ウールのコートをクリーニングに出し、更に季節が進み、衣替えで長袖から半袖に季節がうつっていってもオバサンの腕には必ずゴブラン織りのカバンがかかっている。彼女にとってはゴブラン織りはシーズンフリーらしかった。

 オバサンはまず店内をゆっくり巡回するけれど、商品を購入することはない。新しい商品や見切り品のポップがあると商品を手に取って眺めている。下からみたり、上からや横からと、色んな方向からみて検分する。真剣なまなざしで。

 たまにその商品を振って中身の重さを確認すると「よし」と首を縦に頷く。彼女のすぐ後ろを美帆が通ると、「まだあるから、次にするわ」とはっきりした滑舌で、独りごちる。台詞と連動して手に取った商品を残念そうに、未練がましく元の棚に戻す。

 既にふたりは顔見知りだったけれど、オバサンはあくまで客と客、見知らぬ客同士の距離をとり続けた。美帆に気安く話しかけたり、会釈などしない。美帆もそれに倣う。

 視線を感じ、振り返ると髪を短く刈った青年がいた。夏休みの小学生みたいに日焼けした肌が健康的にみえる。じっと美帆を見ていたようで、逸らした視線が空を泳いでいる。美帆も瞬時に気づかないフリをする。視界の端に青年をとらえる。

 ――何処かでみたことがあるような。
 美帆は思い出せそうで、記憶の糸がつかめない。

 青年を呼ぶ声がして、美帆も青年も同時に声のした方へ反射的に顔をむける。昨日、店長に敷地内で野宿させて欲しいと交渉していた男性だった。
 ロードバイクで日本一周をしているといっていた。そんな暇な人がいるんだと美帆は驚いた。学生というには歳を取りすぎているし、定年には早すぎる。物言いや風貌から予想するに、四十代ぐらいだろうか。異性の年齢を判別するのは苦手だ。

 やはり男性も青年と同じく日焼けしている。何となく持っている雰囲気が似ている。年の離れた兄弟だろうか。友だちみたいに仲がよさそうだ。店長はあっさりオッケーしていた。駐車場は危ないから駄目だけど、敷地内ならテントをはっていいと応じていた。「そのかわり、ブログでうちの店、宣伝しといてね」と気安く笑いあっていた。調子がいい。

「あ、そうだ。道の駅のブログに載せるからさぁ、ふたりの写真撮らせてもらっていいかな?」
「勿論。あ、ちょっと待ってもらえますか?」というと年かさの男性が青年の耳元に何かささやいた。青年は、小走りで店外に出て行った。

 再び戻ると持って帰ってきたのは長方形のプレートだった。撮影を求められることが多いのか、ホワイトボードで、日にちだけ書き込むようになっていて中央には大きなフォントで「自転車にて 日本縦断中!」と書かれている。黒のマーカーで、日付の空白のスペースに今日の日付を書き込む。

 ほら、店長も写真に入れば? とスタッフにからかわれている。まんざらでもないようで素早くふたりの間に体を滑り込ませると、ひとりだけピースサインをしている。スタッフがスマホで三人を撮る。少し興奮ぎみの店長は上ずった声で 

「すごいよなぁ。日本一周だってさー」
 と、さも自転車乗りに憧れているかのようにいう。

 何処に行くのも車の癖に、と美帆は鼻白む。ロードバイクなんて、都会の人の道楽だ。もはや交通手段というより心と懐に余裕がある人の趣味だ。ましてや仕事を休んで旅ができる身分なんて、なんとも羨ましい。

 今の美帆には、逆立ちしてもそんな発想は思い浮かばない。
 店の脇に二台のロードバイクが停められている。一台はタイヤが太くて黄色のボディにメーカー名か、HUMMERと書かれてる。もう一台はシルバーで細い華奢なボディだった。

 共に、後輪のサイドには荷物が垂れ下がっているし、その上には更にマットとシート、シェラフがこんもり積み上げられ、小鍋までがぶら下がっている。美帆の脳裏に生き甲斐という言葉が浮かぶ。

 ――達成感。
 いつの間にか、青年が店内をうろうろしていた。青年の坊主頭はこの旅の為に丸坊主にしたんだろうか。節約? シャンプーの節約だ。顔から頭まで洗える。

 その時だった。青年が唐突に立ち止まった。
 ――まさか。
 予感だった。でも確実な経験に基づく勘だった。違ってくれと美帆は何かに祈る。そんな訳がない。彼がそんなことする理由がないじゃないか。必死に予感を否定する。

 青年はパーカーの右ポケットに瓶を入れた。更に棚に手を伸ばし、今度は左のポケットに瓶を忍ばせる。一連の動きはなめらかで全くためらいがない。常習だ。

 美帆は青年の手を強い力で掴む。
「戻しなさい。今ならまだ間に合うから」
「捕まえて下さい。警察に通報して下さい」
 青年の手は冷たい。血が通ってないのかと思えるほど。生きていないみたいだ。

「ゴールできないじゃない。君、するんだよね? 日本一周」
「ゴール? ゴールなんて……ない」
「え?」

 遠くからパトカーのサイレンが聞こえた。音がだんだん近づいてくる。ドップラー効果でサイレンの音程が高くなる。近くで事故だろうか?
 聴覚に神経がいき、美帆は不協和音を不穏な気持ちで聞いている。瞬間、衝撃と痛さで、我に返る。突き飛ばされ、床に尻餅をついていた。したたかに、尾てい骨を打撲した。

 いきなり青年が出口にむかって走り出した。青年に突き飛ばされたことを美帆は知る。瞬時に自分の置かれている状況がつかめない。

 ――何が起こったの?
 未精算の瓶はふたつ、まだ彼のポケットに入ったままのはずだ。

「だめーっ! 出ちゃだめーっ」
 声を張り上げる。声がかすれる。喉がつぶれそうになり咳き込む。それでも青年を店外に出してはいけない。阻止しないと。

 美帆はふらつきながらも何とか体勢を持ち直し、立ち上がるとスローモーションのような足取りで追いかける。自動ドアが開き、青年は青空の彼方に消えた。真昼の太陽が反射し、白く光って玄関マットに丸い日だまりを作っている。
 美帆はハレーションにめまいを起こしそうだった。
 雲一つない真っ青な空だった。

 

オワリのはじまり

 空を見上げると、雲が一つもないスカイブルーの空が何処までも続いていた。順也は黄色いHUMMERを押しながら歩く。足取りは重い。立ち止まると、ポケットからメモを出し、住所を確かめる。本当はもうメモなんていらない。見なくても住所を空でいえる程、頭にインプットされている。

 何度も住居表示と表札を確かめた。閑静な住宅街に佇むありふれた一戸建ての住宅だった。
 庭には小さな花壇があり、見たことがあるけれど名前を知らない黄色とピンクの花が、競い合うように咲いている。父がここに住んでいるんだと思うと、鼓動が一段と速まる。
 
 父は母と離婚して、新しい家庭を持っている。向かいの道路の脇に身を潜めて、張り込みの刑事みたいに息を殺して観察していると、ドアが開き、「いってきます!」とランドセルを背負った小学生の男の子がふたり飛び出してくる。ふたりとも笑った顔がそっくりだった。双子だろうか。彼らが弟たちだ、と思うと不思議な気分だった。兄弟ができた喜び。初めての感情に順也は戸惑う。

 そして、ブルーのワイシャツに紺のスラックス姿の男性が妻に見送られて出てきた。父だ。中学校の教員をしていると母はいった。
 ふたりは教育大で同級生だった。卒業後、数年の交際を経て結婚したらしかった。身長はそんなに高くなく中肉中背で、見送る妻に手を振る時のはにかんだ笑顔が優しそうだったことに、順也は安心する。少し距離をあけて、後をついていく。タイミングを見計らって声をかけようと思うが、緊張して手と足が同時に飛び出し、うまく歩けない。

 おまけにHUMMERが体のあちこちにぶつかり、何度も立ち止まっては進む、の繰り返しだった。公園にさしかかった時、父がおもむろに振り返った。

「順也……か?」
 不意に名前を呼ばれ突っ立ったまま、動けなくなった。かろうじて「はい」と返事をする。

「お母さんから連絡あったよ。よく来たね。ここまで遠かっただろう? まさかその自転車で来たの?」
「はい。友だちに借りて」
「へぇー、どうりで日焼けしてる」

 自転車をとめ、ふたりはベンチに並んで座る。順也は時間の空白を埋めるべく、聞きたいことが山ほどあるのに、全然言葉にならなかった。喉の奥に言葉が詰まったまま、出てこない。胸が苦しかった。

「実は、順也に伝えないといけない大切な事がある」

 順也はHUMMERに跨り、ペダルを思いっきりこいだ。坂道を下る。ブレーキから手を離す。斜面下向きの分力がかかり、どんどんスピードが加速する。このままカーブを曲がりきれず、ガードレールに衝突して死んでしまってもいいとさえ思う。

 猛スピードに身を任せ、目をつぶる。それでも恐怖から逃れられず、反射的にブレーキをかけ自転車を止めていた。ガードレールとの隙間は数センチで接触スレスレだった。背筋がすーっと冷たくなる。初めて感じる死への恐怖心だった。

 このまま留まってはいられない。先に進まないと、と順也はせき立てられるように、必死でペダルを漕いだ。太ももの筋肉がつりそうになる。
 力が入りすぎてペダルを踏み外し、空回りする。父から知らされた事実をまだ受けとめられていない。頭では否定している。 

 風が顔を刺す。通り過ぎる景色がモノクロに映っている。色が失われた世界に順也はいる。何を自分は期待していたのだろう。父親に会えば、道が開けると思った。でも違った。

 旅は終わらない。父は本当の父親ではなかった。やっと今、母の言葉の意味を知る。
 

 ――順也はAIDで生まれた子なんだ。
 だから僕とは血縁上の繋がりはない。でも、だからって父親でないとは思ってないし、自分の息子だと思っている、と戸籍上の父親はいった。教師らしく根気よく、説明してくれた。

 生殖補助医療の中で、もっとも古くから行われてきたのがAID(非配偶者間人工授精)だった。第三者の精子を人工授精する治療で、国内では一九四九年に初めて慶応義塾大学病院で出産にいたり、現在、AIDによる出生児数は毎年百人、累計で一万五千人から二万人にもなると推定される。

「突然、信じろといわれても、信じられないかもしれなけどお父さんとお母さんは心から子どもを望んで、順也を授かったんだ。夫婦関係はうまくいかなかったけど、親子関係は別だから」

 ――じゃあ、本当の父親はどこにいるの?
「精子の提供者を知ることはできない。提供者自身も、自分の精子がどの夫婦に用いられたのかを知ることはできないんだ。そういう決まりになっている」
 ――だから、親に捨てられた。血の繋がった母親にも。
 順也はもう、どうでもよかった。旅の終わりもない。この先にゴールはないのだった。宛所もなく、ただただペダルを漕ぐ。前に進むしかない。全身の筋肉がバラバラになってもペダルを漕ぎ続けなければならない。

 新たに本を盗んだ。郊外のショッピングセンターの中にある大型書店で「家族をつくる―提供精子を使った人工授精で子どもを持った人たち」、「AIDで生まれるということ 精子提供で生まれた子どもたちの声」の二冊を万引きした。どんどん罪が増えていく。

 だいたいこれで余罪はどれほどになったろうか。まずは、保護司との面談をすっぽかした。コンビニでメロンパンを盗んで店員に捕まり、警察に通報された。勾留され留置場から脱走、将志のHUMMERを借りて逃亡。民家の庭の物干し竿から服と台所から鍋や冷蔵庫の食材を盗んだ。

 ひなびた食堂で無銭飲食し、住宅に侵入して一晩過ごしたこと、畑からきゅうりを盗んだこと。いや、もっとある。最終的には出頭して罪を償うことになるだろう。服役でまた人生が虫食いになるけれど、人生を浪費してもまだ浪費し尽くせないでいる。順也は疲れた、と思った。

 人なつっこい笑顔の男性が「自転車にて日本縦断中!」のプレートを自転車の荷台にぶらさげていて、目をひいた。自転車のフロント部分とリア部分に大きな荷物を乗せてツーリングを楽しむことができる設計になっている。
 
 シルクロードを大移動する旅人みたいにラクダにこんもりと荷物を積むようにして自転車が荷物を背負っている。小鍋までぶら下がっている。その生活感が溢れ、生命力が満ちた男性につい、引き寄せられた。硬くなって凝り固まっていた心がほどける。

「すごいっすね。何処からですか?」
 気づくと順也は質問していた。
 気負いなく、その男性は初対面の順也に自己紹介した。山﨑俊一といい会社を辞めて、自転車で日本一周をしていること。ブログで酒好きアラフォーチャリダーとして、日記を書いていること。

「君も? もしかして日本一周してるの」
「いや、僕は行くところがあって……訳ありで自転車一人旅です」
「旅は道連れ世は情けっていうから。途中まで一緒にいかないか? なぁ、ボクチャン」

 山﨑は順也をボクチャンと呼んだ。順也は一瞬、名乗ることに躊躇したのを山﨑は何ら気にする素振りを見せなかった。

「そうですね。僕、あまり自転車の知識もないし、ノウハウないんで色々教えて下さい」
「そうなの? え、何処から来たの」
「大阪です」
「へぇー。そんな身軽な装備でよく来れたね。家出少年かよっ。……おいおい否定しないって図星かよ。若そうだけど、まさか、未成年じゃないよね」
 順也は首をぶんぶんと横に振る。
「で、何処にむかってるの?」
「父に会いに」

 順也はつい口から出た言葉に後悔する。本当の父には会うことは叶わない。

「おいおい、マルコかよー」
 山﨑は明るい。底抜けに陽気だった。自分の発言が本当に面白くてたまらないらしく、ひとりで腹を抱えて笑うと、順也の肩をぱんぱん叩いた。
「ゴメンゴメン。知らないよな? 母をたずねて三千里。ジェネレーションギャップだな」

 山﨑はそれでも上機嫌だった。こんな底抜けに明るい人間なんて、順也の周りにはいなかった。つい、もらい笑いしてしまった。笑う行為は、心を少し軽くする。愉しい気持ちが伝染するのを感じた。

 一緒に旅を始めて、相手のペースにあわせることと共有、共感することの愉しさを知った。学校や少年鑑別所、更生施設では常に団体行動を求められていたので、行動を制限されたり、自由を奪われることに拒否反応があったけれど、山﨑にいわれるまま従い、行動を共にすることは、自然と受け入れることが出来た。人と一緒にいる心地よさを順也は体感した。山﨑は惜しげなく、自分のものを分け与えてくれた。

 順也があまりお金がないと知ると、食べ物も日用品もさりげなく、くれた。ブログに載せる日記も、順也がその日その日の面白かった出来事を思い出して話し、山﨑がそれをピックアップして文章にした。日記をアップし、ブログの人気ランキングがあがると、通りすがりのコンビニで缶ビールとつまみを買い、ふたりで祝杯をあげた。

 山﨑はその写真もブログにアップした。顔出しすることに順也は初めの頃は抵抗感があったけれど、「顔出しした方がさぁ、フォロワーが増えるんだよ」と無邪気にいうのを聞くと、嫌だとはいいにくかった。自分が逃亡者だという自覚がどんどん薄れていく。
 
 顔に当たる風が気持ちよかった。先頭を山﨑が走り、その後ろにぴったりついて走るので風の抵抗が少なくてすむ。HUMMERが自分の体と一体化する瞬間がある。抵抗がなくなりペダルが軽くなる。空気を踏んでいる感覚だった。すーっとHUMMERごと風になったみたいで心地よかった。

 山﨑は大学でサイクリング部だったらしく、色んなことを教えてくれる。自転車の構造的なことから海外ブランドや値段、用途によってどんな自転車をセレクトするべきか、的確にアドバイスしてくれる。本当は自分の自転車もカスタマイズしていきたいのだという。

 途中HUMMERがパンクしたことがあった。山越えルートで、近くに商店も民家さえ見あたらない。ましてや自転車屋さんなんてあるはずがなかった。山﨑は路肩の安全な場所に自転車をとめると慌てず、持ってきた予備のチューブを取り出した。黙々と修理してくれた。

 山﨑の背中をみていると、順也は父親と一緒に旅したらこんな感じなんだろうか? と夢想する。欠落した父親の存在が、より一層、思慕の念として順也の心に芽生え始めていた。

 ――父と会うという目標を失ったが、人生は続くんだ。
 昨日から山﨑の様子がおかしかった。無口になり、心ここにあらずで何かを考え込むことが多くなった。心配事でもあるのだろうか? 体調が悪いのかもしれないし、順也が何か山﨑の気に触ることをしでかし怒らせてしまったのかもしれなかった。触れてはいけないバリアのようなものがあり、それ故にうかつには聞くとができない。

 そういえば、昨日、道の駅に足湯がありふたりで靴下を脱ぎ、ズボンを膝までたくし上げて、湯に足を浸した。

「ほい、ボクチャンタオル」と山﨑が放り投げるタオルを順也がキャッチして濡れた足を拭いていた時だった。

 山﨑の刺すような視線を感じた。左ふくらはぎに、打ち出の小づちを持ったウサギが米俵に足をかけているような図柄のタトゥーを順也はいれている。

 鑑別所で知り合った彫り師の男に入れてもらったものだ。途中で痛さに絶えられず、嫌になってやめた。なので輪郭しかない。若気の至りだった。小さいし目立つ場所でもないので、そのままにしていた。丁度、山﨑の視線の先にはそのタトゥーがあった。

 「あっ、これタトゥーシールですよ」って笑ってごました方がよかっただろうか。刺青いれてるって、ひかれただろうか。順也はこんな時のかわし方がわからない。

 何となく、あれ以降、山﨑はよそよそしい。「ボクチャン」と親しげに話しかけてくることが少なくなった。気まずい空気がふたりの間に流れている。いっそのこと、「そのタトゥーどうしたの?」って聞いてくれれば、素直に答えたかもしれないのに。順也はもやもやする。それでも山﨑に嫌われたくはなかった。もう、誰からも拒絶されたくない。

「今夜はここにテントはろう。よっしゃーーっ、寝る場所確保!」
 道の駅で休憩をとることにして、各自トイレ休憩と自由行動をしていた。山﨑はいつの間にやら道の駅の店長とすっかり親しくなっていて、敷地内の邪魔にならない場所なら野宿してもいいとお墨付きをもらっていた。ふたりはハイタッチする。ここ数日の陰りのある表情はどこかに引っ込み、山﨑は晴れ晴れした顔をしていて機嫌がよかった。

 ――ここ数日、雨が続いていたし、旅の疲れが溜まってきていたのかもしれない。

 順也も疲れていた。空を見上げると、続くかぎり一面の青空だった。久しぶりに晴天に恵まれた。でも、何となくすっきりしない、ひっかかりを感じている。それはとても些細なことで、普通なら誰もが気付かずにスルーするような出来事なのかもしれない。

 例えばものもらいができる前の目がごりごりする違和感だったり、誤って唇の内側を噛んで、口内炎になってしまう予感と似ている。
 視線が気になった。ふと、視線を感じて顔をあげると山﨑がみている。そういうことが何度か続き、順也は嫌な予感はただの予感ではない現実だと確信した。

 ――気づかれた。逃亡犯だとばれてしまった。 
 順也は逃げようとは思わなかった。むしろこの逃亡生活にピリオドを打てることに心底ほっとしていた。

 目標を失い希望をもてないでいた。生きるモチベーションはずっと低空飛行で、「生きるのをやめたい」と強く願う。何より、山﨑を騙し続けることが辛かった。モヤモヤと心の中からわき上がるマグマのような感情が抑えきれなくなった。

 気がついたら順也は道の駅の店内にいた。
 店内を目的もなく、ふらふらと歩く。ふと棚の前で立ち止まる。マンダリンオレンジと手書き風のラベルが貼られたジャムが所狭しと並べられている。

 ――かあさんが好きだった。
 懐かしい甘酸っぱい記憶とオレンジの香りに、唾液腺が刺激された。口の中に唾が溢れる。ゴクリと呑む。

 気が付けばパーカーの右ポケットに瓶を入れていた。更に棚に手を伸ばし、今度は左のポケットに瓶を忍ばせる。何の躊躇もためらいも罪悪感さえ沸かない。息を吸って吐くぐらい自然に体が動く。

 いきなり、右手を捕まれた。強い力だった。
「戻しなさい。今ならまだ間に合うから」
 それは小さな声だけど、威圧感のある口調だった。順也の耳元にささやかれた言葉だった。嗚呼、終わった。おしまい。ジエンド。順也の頭の中で試合終了のゴングが鳴り響く。何度も経験しているからこの先のことは簡単に予想できた。

「捕まえて下さい。警察に通報して下さい」
 下をむき、黙りを決め込む。
「ゴールできないじゃない。君、するんだよね? 日本一周」
「ゴール? ゴールなんて……ない」
「え?」

 遠くからパトカーのサイレンが聞こえた。音がだんだん近づいてくる。サイレンの音が高くなる。やっぱり、通報された。山﨑に。
 突き飛ばしていた。右腕を掴んだ女は、床に尻餅をついていた。「逃げろ!」と誰かが頭の中で叫ぶ。順也は声に従った。出入り口にむかって走り出した。

 走ると左右のポケットに入った瓶ががたがたと揺れて重たい。順也の太ももにぶつかる。

「だめーっ! 出ちゃだめーっ」
 うしろから女が声を張り上げている。
 自動ドアが開き、順也は飛び出す。瞳にブルーが焼き付く。
 空は一面、ブルー・ポルスレーヌ色で、その中に丸い真昼の太陽が白くジリジリと燃えている。順也は刺さる日差しを手で遮ると、停めてあったHUMMERに跨った。

      ※
 スーツにネクタイ姿というのは、誰かの結婚式とか披露宴以来だ。なかなかきまっていると、和田努は自画自賛で姿見に映った自分と向き合う。スーツはデパートの催し物会場で、二万円のセール品を妻が選んでくれた。住宅ローンも子どもたちの教育費もまだまだかかるから、ささっと転職先を決めてよね! とお尻を叩かれて、今朝もハローワークにおくりだされた。

 家族は退職することには反対しなかった。「辞めて正解だったんじゃない? なんか顔色いいし」といわれたのは、意外だった。離婚覚悟での決意表明だったからだ。

 ネクタイの結び目の安定が悪い。そもそも警官時代はスーツを着る機会もなかったからネクタイを結ぶのが苦手だ。和田は懲戒処分を受け、依願退職をした。そもそも自分にはむいていなかった。

 あの事件以来、世間から警察の失態だと非難され、当然のことながら署内では針のむしろだった。誰も和田とはまともに口を聞いてくれなかった。一度、経歴にバツがつけば、事件の記憶が薄れてもどうせ冷飯食いだろう。それより、心機一転、一からやり直してみようという気持ちになった。

 案外、元警察官という経歴は転職には有利だった。デスクワークや営業より、体を動かす仕事がいいと思っている。これからハローワークで紹介された警備会社の面接を受ける。何故か、気持ちは晴れ晴れとしている。背筋を伸ばし、上を向くと、見渡す限り、空には雲一つなかった。

      ※
 諦めていたHUMMERが島田将志の元に戻ってきた。ピカピカだった車体が随分と塗装が剥げ、傷んでいたが、いい感じで年季がはいっている。タイヤやチェーンはあちこちが修理された痕跡があり、大切に乗っていたことがわかる。
 家族から縁起が悪いからそんな自転車は捨ててしまえといわれたけれど、将志は頑なに拒んだ。珍しく強い口調で抗議した。きーくんに手紙を書いた。収監されている大阪拘置所に送ったものの届いたのかどうかは、わからなかった。ただ郵便が戻ってこないので、届いたのだろう。返事がなくてもいいと将志は思う。

「山田さーん、駐禁きてるっすー」
 トラックの助手席の窓から上半身をのり出して、右手を振って合図する。将志は横乗りのバイトを続けている。

「すんませーん! すぐ車出すんで」と、駐車監視員の二人組に山田が大きな声でいい、将志もトラックから降りて、すんませんといいながらぺこりと頭を下げる。
「さぁ、いくで。次の配達場所どこやったっけ?」
「ええっと、これで午前中終わりっす。いったん倉庫かえってパレット積んで……」

 にやにやと山田が笑い、将志の肩をだきながらいう。
「すっかり、横乗り板に付いてきたやん」
 将志は素直に山田の言葉を受けとめると、はにかんだ。

      ※
  予定より、遅れてしまったけれど山﨑俊一は日本縦断のゴールテープを切ろうとしている。日本最南端の波照間島だった。石垣島から高速船で六十分揺られ、沖縄八重山諸島にある島に到着した。日本最南端の碑は、高那崎にある。

 スマホで写真を撮ったが、もうブログにはアップしなくていい。ブログはバズって、あの騒動で炎上し、最後は収拾がつかなくなり閉鎖した。テレビのニュースや新聞でも犯人の画像として、山﨑のブログから引用されたピースサインする津田の写真が使われて、すっかりお馴染みになってしまった。

 警察で数日にわたり事情聴取を受けた。犯人蔵匿罪や犯人隠避罪の疑いをもたれたらしかった。マスコミからも逃亡犯と知っていて一緒に旅してたんだろう? 知らないでいたなら、あまりに暢気すぎる! とネット上で散々批判された。山﨑の身元は簡単にあばかれ住所、学歴、経歴に至るまで掲示板にさらされ丸裸にされた。会社を辞めた理由にまで言及する記事もあり、エゴサーチする度に落ち込んだ。それでも、最後まで旅を続けられた理由は、一体何だろか? 山﨑は自分でもわからないでいる。

 津田のことをどう思うか? とインタビューを受けた時、頭に浮かんだのは「伴走」だった。ボクチャンとのツーリングは愉しかった。ボクチャンは警察の取り調べで、山﨑は関係ないと捜査官に何度もいったらしかった。迷惑をかけたくないと。
 
 怖くなって通報したのを気づいているはずなのに、逆恨みされていたら仕返しが怖いとずっと怯えていたのに、全然、違った。彼の事をもっと知りたくて、バックパックの中にあった「家族をつくる―提供精子を使った人工授精で子どもを持った人たち」、と「AIDで生まれるということ 精子提供で生まれた子どもたちの声」という同じ本を買った。

 無事に家に帰ったら読むつもりだ。これからどうしようか、なんてまだ何も決めていない。深く息を吸う。肺に酸素を沢山ためこむと、天を仰ぐ。空と海との境目はなくて、同じブルーが広がっている。「ハテルマブルー」というらしい。空はずっとずっと先まで繋がっている。永遠に。

      ※
 「ねぇ父さん、外出の許可もらってさぁー、ドライブ行こうか?」
 貞夫の反応を待つが、声が聴覚に届いていないのか、動きがない。ここ一週間、高瀬美帆が面会に行っても眠っていることの方が多い。しっかりとした意識のある時間がどんどん短くなってきている。主治医に外出のことを切り出すと、もう最後のチャンスだから一時間ぐらいならと、渋々オッケーをもらった。このまま貞夫が回復することはない。

 まだ母が元気だった頃、ふたりはよく大山(だいせん)に登った。両親が若い頃は空前の登山ブームで、この辺りで大きな山といえば、百名山の大山ぐらいだった。普段から鍛えていなくても初心者でも登れる手軽な山ということもあった。

「伝説的に言えば、大山(だいせん)はわが国で最も古い山の一つである。昔、出雲(いずも)にいた神様が、あまり自分の国が小さいので諸国の余った土地を縫い足そうとして、国(くに)来(き)国来と網で引き寄せた。その引網の杭(くい)が火神岳(今の大山)であると『出雲風土記』が伝えている」

 深田久弥の『日本百名山』の大山の章の冒頭部分を美帆は暗唱する。先日、自宅の押し入れから登山道具一式が入った段ボールを見つけた。
 
 そのまま捨ててしまおうと思ったが、忍びなくて、母が愛用していた帆布の登山リュックだけ残して処分した。帆布は重量があるし、機能的ではない。化成繊維のハイテク化が進み、機能性を重視する大手アウトドアメーカーでは、メイン素材に帆布が使うことが少なくなった。

 化学繊維の方が雨にも強くて軽いしコスパもいい。それでも、綿・麻・亜麻などの自然由来の繊維を厚手に平織りにした帆布は、使えば使うほど馴染んできて、新品のデニムを履き古す楽しみと何処か似ている。色落ち・ダメージ具合が変わり、母の山の歴史を感じる。長い年月をかけて作り上げられたのだろう。

 ポケットから『日本百名山』が出てきた。父の本だった。子どもの頃、父に冒頭を暗唱してくれと、せがんだ。そのうち美帆も耳で覚えた。湯船で百をかぞえる代わりに、暗唱した。意味は理解出来なかったけれど、国来、国来、のフレーズが美帆のお気に入りだった。懐かしい。

 貞夫が布団から出た右手を微かに動かした。唇がゆっくりと動く。美帆はベッドの脇に寄り添うと、耳を近づける。「くにき、くにき」といっているみたいだ。

 もう山には登れないけれど、雄大な大山を見たらきっと、父は喜ぶだろう。夕陽に染まった北壁の美しさは久弥さえも感嘆させたらしい。美帆も見てみたいと思った。

 -了-




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