7年目&8年目 光と闇と
タイトルで示唆しちゃってるんですが、2年連続で勤務できました。このへんは、講師でも限度いっぱいまでいる人(当時は3年という印象です)と毎年勤務地が変わる人とそれぞれです。わたしは後者でしたので、すっかり引っ越しにも慣れてしまいました。あと、講師あるあるで、運転免許証を住所変更欄が書ききれなくなるとどうなるかを知っています。免許証の裏にペラペラの紙が貼られます。それ見たときに、「わー苦労したな、なんとかしなきゃ」と思いましたね。
さて、僻地からまた県庁所在地に戻ってきました。僻地の前の町場の高校よりも規模が大きく、これぞ田舎の進学校という感じでしたね。さて配置ですが、1年部、分掌は総務、部活は運動部正顧問でした。運動部正顧問はイヤでしたが、大会の引率も宿泊がないし、上位大会への進出もまずなかったので常勤講師でも許容範囲かなというところでした。授業は、これまでと違い、かなり大学受験を意識した内容になっていましたね。また規模の大きい学校の悪しき?特徴というのか、学年でカラーが大きく異なっていました。まるで違う学校みたいでしたね。幸か不幸か、私の在籍した学年は受験大好きといったカラーを打ち出していました。高1からセンター試験やその先まで見通した指導をしていましたね。ただ、田舎ということや、高校入試に競争率がないから、生徒の意識は高くなく、指導方針への不満は生徒も保護者も強かったみたいですね。一部の教員がクラスの平均点で競い出したりするから、それが原因で病む教員もいましたね。わたしは、平均点競争とかあまりこだわりなくて、自分の勉強をしながら、好きなように指導していました。幸い、生徒ががんばってくれたこともあり、変な競争にまきこまれなくて、それは助かりました。
大規模校で教員も多いのですが、変な人が少なからずいました。個性的な変さではなく、病的な変さが目につきました。例えば、特定の曜日に休む人がいました。なぜそれに気づいたかというと、当日の授業変更で特定のクラスに行くことが多かったんですね。当時、レベル別にクラスを作っていたので、教員からすると指導しやすいクラスとそうでないクラスがありました。そうでないクラスの方は、生徒の多くは話を聞いていない、寝てる、内職を平気でするといった様子だったので、そういうのが許せない人にとっては最悪です。しかし、数年前までの仕事がなかった状況や、困難校での非常勤講師の経験(生徒が座っていたらOK+常勤という待遇)、そして前年の僻地勤務の経験からわたしのそのへんの感覚はマヒしていました。ただ、年度を通じてこういう休み方をしていると教員としての信用に大きくかかわってくることもわかりましたね。イヤだから休む→他の教員へも迷惑→仕事がしづらくなる+生徒との関係も悪化→授業もうまく進まない・・・悪循環ですね。
しかも、この現象って正規の人に多いんですよね(講師がこれだったら、次がないですからね)。こういう不条理も、採用試験までは「あんなふうにはなりたくない、がんばろう」だけど、結果が出た後には「あんなの以下か(未満か)」で気持ちが落ち込みましたからね。休み放題やりたい放題の実態は、健全な精神に悪影響を及ぼしてましたね。
さて、この学校でいちばんがんばったのは教科指導でした。大規模校なだけあり、難関校志望者を学年超えて教科で指導するんですよね。一人当たり、3~4人配当があり、継続的に個別指導してましたね。先生ガチャ的な要素もあって、指導を全くしない人もいましたが、手を抜くということを知らなかったので、一生懸命やりましたね。今思えば、有料級でしたよ。毎日、2次の問題を解いてきたのを添削してアドバイスして・・・ってやってましたから。アドバイスするためには、自分でも1回きちんと解かないとできないんです。生徒が本気だったというのもありましたけど、こっちもその勢いに呼応してました。ここまで勉強してきた成果と言えば大げさですけど、受験指導には困らなくなっていました。そのときの生徒の志望校が僻地の学校で最後指導した生徒と同じでした。嫌な予感しましたけど、その生徒、見事に志望校を突破してくれました。努力が実を結んだことはもちろん、わたしにとっても、大きな自信になりました。この学校には2年間いましたが、個別に指導した生徒で、受からなかったのが1人でした。その生徒は途中で指導に来なくなったんです。原因は不明ですけど。指導が続いた子は全勝だったのも、良い波に乗りましたね。
肝心の採用試験ですが・・・。最初の年は、1次を突破し、2次で緊張しまくりで惨敗でした。面接も小論も模擬授業もダメダメでした。とくに模擬授業がひどかった。1年かけて取り組みました。全国津々浦々の自治体の発信している情報をチェックしました。模擬授業だけでなく授業力に定評のある先生の動画なんかも見れるだけ見ましたね。そうして翌年奇跡が起きました。まず、1次試験、例年にない出来で、手ごたえバッチリ。もちろん合格。2次試験で、面接用に調査票書くんですが、そこに書いた内容が、小論文のテーマだったんです。自分なりにまとまっていた部分だったんで、かなり落ち着いて書けましたね。さらに模擬授業。そのテーマが事前に準備していた内容とまるまる一緒でした。模擬授業動画で学んだことを落ち着いてトレースしました。面接も緊張なくできました。「うん、これは・・・」と思い発表を待ちました。
その年の秋。合格発表にわたしの番号はありませんでした。ものすごいショックでした。不合格だったことを管理職に報告に行ったときに、「そろそろ区切りをつけたらどうか?このままずっと講師というのは人生設計上すすめられない。」付け加えて、「民間に行くか、特別支援の免許を取って方向転換するか、もちろんこのまま受験を続けてもよいが・・・」
悩みました。手ごたえがあった後での不合格。まるでカウンターパンチを喰らってKO負けした感覚でしたね。自信があったので、これ以上のことはなかなかできそうもないという気持ちが強かったです。
年齢もアラフォーが見えてきているだけに、新たな道への転換は困難だろう。教員という仕事は好きだからやめたくない。しかし、常勤講師はイヤだ。教員としての自分を冷静に見て、今後常勤講師を続けることによるレベルアップではあまり望めそうにない(部活顧問もけっこうやったし、教科指導は自信がある。僻地の経験もある。)。そして、担任をやってみたい、担任をしてスキルアップすることが自分のキャリアの道を拓くことになるんではと考えるに至りました。そう考えて、近隣の私立高校の募集を確認しました。わたしの住むのは地方都市。地方では、公立>私学なんです。公立の募集が終わったあとでも(いや終わった後から)応募ができました。驚いたことに様式自由だったんですが、市販の履歴書に、わかりやすいじこPR用プレゼン資料を作成し、書類を発送しました。試験は筆記と面接がありましたが無事突破しましたね。最終面接も思いのたけを正直に話したら合格しました。特にこれといった対策はしていなかったんですけど、縁があったのかなと思いました。次から私立学校編になります。
最後の公立学校で、仕事のしかたや、教科指導の総まとめができたのは良かったです。ただ、教員の嫌な部分にもずいぶん気づくようになりましたし、格差も嫌でした。空白の1日でボーナス15%カットとか、やる気なくなりますね。私学の待遇面とか全く分からなかったわたし。このあと数年間思い知ることになりました。そこらへんは次回をお楽しみに。