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2024/10/29 己が生存のために

季節の変わり目はこころの変わり目。変に寒くなったり暑くなったりが繰り返されて、身体の中の維持装置もぶっ壊れるこの日この頃だ。今は一杯の味噌汁と厚手の布団、友人の温かい言葉が体の調律を保っている。

なんだかんだ心と身体が暖かければ、生存できる。
寒いのはちと苦手だ。

最近誕生日を迎えたのだが、Twitterとかで多くの人々に祝われてあったか~い気分となった。仕事中の冷たい世間の風の防寒具のような気もして、感謝しきれない。返せるものは言葉くらいだけれど、おめでとうと言ってくれた人達だけは、できれば健やかに、健やかでなくとも生きることに執着して居てほしいなと思った。後半は祈りというよりも呪のほうが近いなと思いつつ、そーゆーのを込めてリプライを返した。

リプライを返す中に自分が「生存」、「また産まれた」、「生き延びる」などなど、生命の維持を目標にしてこの歳も過ごそうと思っていることに気付いた。前までは「別にこの世に居なくてもいいよな」くらいに考えていたのだが、やっぱり私は生きたいらしい。

とはいっても、その「生存」のための錨というか、これの為に生きているってのが少なくなっている気がする。
そりゃあ以前と比べたら「何も無い、唯生きている」と思いつつ生きているよりは現状はマシなのだが、今現在生きる糧を探し求め中!ってのは変わらない。

唐突に潮風を感じたくなったり、水族館に出向いてみたり、山道を意味もなく歩いてみたりとしてきた。でもなんだかしっくりこない。ハレとケのハレの部分が足りていないなぁと思っている。

もしかすると、場所じゃなくって親しい人との語らいで費やす時間、あの空気を感じることが私にとっての「生存」なのかもな〜と脳みそ巡らして結論付けた。さて、ではどうすれば良いのか?については検討中だ。

話は変わるが、元々の習慣で読書がある。
特にエッセイを読んでいる。
エッセイのどこが良いのかと言うと、作者の考えや人生の一端に触れるところが良い。その中で、自己がエッセイの作者を傾聴するような感じがある。
私が求めていた親しい人との語らいの気持ちを擬似的に満たせてくれるものの一つだ。

で、カッコつけて色々書いておるが結局は親しい人と喋ればそれが人生の生きがいになるんでね〜の!?ってこと。
読書で擬似的に満たすのも良いが、あくまでも擬似は擬似だし、脳みそ作り上げた好みの作者という人格達の話を聞くのはいずれ枯渇するから、シンプルに会える人と会い喋る時間作りな!ってのが今後どうしていこうかなの方針である。

てなわけでまあ、己が生存するために、というと少し自己中心的で恥ずかしくはなるが、仲良くしてくれる人に近々アクションかけていくのでヨロシクって事で、今日のワードサラダは終わりとしようと思う。

じゃ、良き夢を。


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