母の転院で思う事・・・
明日母が、ずっと住んでいた土地を離れ北九州の病院へ転院する。
体も辛いだろうけど、祖母のお墓のある故郷から離れるのも辛いだろうと思う。
しかし、少ない時間をどう向き合うかをお互いで考え結論を出した。
正直な話・・・宣告を受けた人の気持ちというか、行動を勝手に理解していた。
だから思ったのは、
「いろんな事 やってあげなきゃ」だった・・・
行きたい所に連れて行ったり、食べたいものを食べさせてあげたりと・・・
後悔させたくないと思った。
昔、東京に住んで東京タワーの近くで働いてたのに、結局「東京タワーには登っていない」話は、小さい頃から聞いていたし、
大阪に住む叔父(弟)にも会いたいだろうし、
脳梗塞になってからの治療で我慢していた「揚げ物」の「とんかつ」も食べたいだろう・・
色々やんなきゃって、本人にも言った。
生きてるからこそ、静かに行きたい。
いつも通り生きて、色々振り返り、向き合いたい。
・・・・勝手な思い込みだった。
死に直面して思う事は、動けるうちに人生の残りをどう使うのか。
思い出の場所や食べたい物、行けなかった所など・・・1つでも、やりたかった事をやろうとするものだと思ってた。
巷では、そんな映画や話が溢れている。
だからなのかな・・・勝手に思い込んでいた。
逆の立場だったらどうだろうとも考えた。
そんな立場に実際なってないのに考えれるはずがないのに、
勝手に「こうだろう」と決めつけてただけだと・・・
だからこそ、
向き合って話し合う事って重要なんだなと、今更ながら改めて気づいた・・・
「人」という字の漢字の成り立ちが
「支え合っている」というのが間違いで
「人が横を向いて立っている」が正解であったとしても、
立てなくなれば、誰かが後ろから支えるからこそ人なんだろうと思うし、支えてあげようとする誰かがいるからこそ人なんだろうとも思う。
しかし、支えられる側も心から身を委ねれるように思いを伝える事、支える側が勝手な思い込みで、ひっぱる事ではなく、思いを聞き受け止める事が重要なんだろうと・・・
その思いは「自分にだけ」というのではなく、相手にも望む事でもあり、ある種のメッセージでもあるのではないのかとも思う。
だから、私も暗くならず明るく「いつも通りに過ごすし接する」
それが、母の願いであれば、尚更そうしたいと思う。
いつもなら思った事をPodcastで喋るタイプの人間ですが、
久しぶりにセンチになってしまって、文章にしてしまいました。
たまには・・・ねw