
初めての入院
断酒20年のヨウスケです。
塾を辞めて途方に暮れていた毎日。そんな時に渡米前にお世話になった会社からアルバイトの話が来て、二つ返事で行くことにしました。
会社が移転するにあたっての新社屋の内装工事などの手伝いです。部長がなんでも出来る人で、部屋の間仕切りから、水道の配管、電気工事など、全くの未知の世界の仕事を訳の分からないまま手伝っていました。
職人気質のところのある部長でしたので、口も決してよろしくはなく、罵声を浴びたり、理不尽と思えるような扱いも受けたこともあり、ずいぶん精神的にも鍛えていただいたと感謝しています (ということにしておこう…)。
当時は若くプライドだけは人一倍高かったので、表立って反抗することは無くても、帰宅後は心落ちつかせるためにロング缶のビール4、5本は当たり前。それに焼酎のお湯割り数杯。これが毎日。
そんな毎日も年内で新社屋への移転もあらかた終わり、新たな年を迎えました。しばらくは雑用係でそのまま雇ってもらえることになりました。
1995年の事でした。
忘れもしない1月17日。
例によって午前1時くらいまで部屋飲みして爆睡していた明け方、この世の終わりかと思えるような激しい揺れに叩き起されました。
寝ていた猫は文字通り目をまん丸にして部屋中を走り回ります。
テレビをつけると関西を震源とする地震があったとの事。
大変なことになったなと思いながら、朝会社に行くと社員の人達は早くから出てきて片付けをしていました。
業務に支障をきたすような被害はさほど無く、しばらく変わらない毎日を送っていましたが、部長がその関西での下水道の被害状況の調査の仕事を取ってきてから慌ただしくなってきました。
10日ほど泊まり込みで、朝から一日中、まだ地震の被害も残っている兵庫県の町中を歩き回り、マンホールの中を一つ一つ調べて回ります。戸惑いながらも一生懸命やりました。
そこでの仕事っぷりを認めてもらえたのかどうかは分かりませんが、その後、社員として雇ってもらえることとなりました。
ところが、外で体を動かす調査などの仕事は私に向いていたかもしれませんが、元々が畑違いの分野の仕事であったのもあり、現場の無い日は手持ち無沙汰のような気持ちになることが多く、またアルコールの量も日に日に増えて来ました。
飲みすぎで遅刻や欠勤することも増え、そのうち無断欠勤も一度や二度では無くなってきました。
そして、大きな現場仕事のその日に前日から飲みすぎて動けなくなり、そのまま休みました。
「とにかく一度病院に行け!」
との部長からのお叱りの電話をうけ、近所の内科に行き、採血をしてもらい点滴を打って家で寝ていました。
夕方、その内科から電話がかかってきて
「検査の結果、危険な状況なので、紹介状を書くので大きな病院にすぐに入院して下さい」
その時の私の感覚としては、ずっと飲みっぱなしで食べてないので、多少身体が弱ってるくらいしか思ってなかったのですが…
検査結果 急性肝炎
GOT 2000
GPT 4000
γ-GTP 500
はっきりした数字は覚えてませんが、このくらいは確実にあったと思います。
肝機能検査など今までしたこともなく、興味関心も全くなかったので、この数字の意味も分からずに、
「何を大げさに…」
くらいにしか思ってませんでした。
しかし、県立の大きな病院に入院となり、その扱いをみるにつれ、どうやらただごとではなさそうだと感じるようになってきました。
最初はとにかく絶対安静。トイレに移動するのもダメ。移動は車椅子。
というのを
「歩けるからトイレだけは自分で行かせてくれ」
と懇願して行けるようにしてもらいました。
生まれて初めての入院生活。
上げ膳据え膳の重病人扱い。
酒の飲みすぎでこんなにしてもらっていいのか、ちょっと恐縮でした。
最初の三日間ほどはさすがにしんどくてあまり覚えていません。人工透析を受けている高齢の紳士の方と相部屋で居心地は悪くはなかったですが、5日目の深夜に急に重病の急患が入ったので大部屋に移ってくれとベッドごと引越しさせられました。
1週間もすると肝機能の数値もかなり下がり、病院の食事にも慣れてきて食欲も旺盛になってきました。
体調も良くなってくると何か物足りない。飲酒欲求はさほどありませんが、『煙』が恋しくて仕方ない。そう、煙草。
その入院1週間目くらいに会社の同僚が見舞いに来てくれて
「これがそろそろ恋しくなったきたやろ(笑)」
と、マイルドセブンスーパーライトが5箱入った袋を差し出してくれました。
持つべきものはやはり友です(笑)。
こっそり二人で煙草が吸える場所を探して、病院内を地下まで階段で降りて行き、灰皿のある場所を見つけるも、目の前の部屋の表示はなんと
「霊安室」。
まぁいいかと長椅子に2人並んで煙草に火をつけます。1週間ぶりの煙草は頭がクラクラします。
私の病状を話し、会社の状況を聞いたりするにつれ、ちょっとブルーになってきました。
入院の前の度重なる無断欠勤に関し社長の我慢の限界も越えており、他の社員も私の行動に対して良い感情をもっていないことを耳にして、退院するのも恐ろしくなってきました。
「まぁ、じたばたのしようもないだろうから、今は身体治す方に専念して」
と、同僚は病室を去って行きました。
「はぁ…。自分で撒いた種とはいえ、これからどうなるんだろう...」
ベットの上で天井を見あげて、出るのは溜息のみでした。
続く