アルコール依存症への道(その2)
断酒20年のヨウスケです。
今年は元旦から北陸地方で大変な地震がありました。被害に遭われた方々に心よりお見舞い申し上げます。そして亡くなられた方々に謹んで哀悼の意を表します。
さて前回の続きになります。
とうとう大酒を飲んだ次の日、アルコールが切れてくると手の震えが出てくるようになってきました。
周りの人間も多かれ少なかれ同じように手の震えがあったため、
「とうとう俺らもアル中やな」
と冗談で言い合う程度でしたが、私の場合はちょっと洒落にならないレベルにまでなってきました。
お茶やコーヒーをサービスするとき
手の震えがひどくなり、次第にお客さんの前に出ることが恐怖になってきました。
大学の方も卒業が不可能な状態となり、そのことを両親に話すこともできず、それをごまかすためアルコールの量もさらに増えてきました。
自宅生であったので、なるべく両親と顔を合わせないよう友達の家に泊まることも増え、1週間くらい家に帰らないこともざらでした。
バイト先のホテルの方には大学の方はもう卒業不可能であることは伝えていましたが、
「それならウチに就職したらいいよ」
と今思えばありがたい言葉も頂いていました。
しかし、社員となると責任も出てくるし、飲み方や遅刻などの生活態度の方も改めてなくてはならない。すでにアルコールに振り回れていた私にはその自信はありませんでした。
アルコールが切れかけたときのイライラ感、手の震え、食欲の無さ、前夜の記憶が飛んでいる…このままでは
危ないのは分かっているのにとりあえずアルコールを口にすれば不安から解放される。
大学の件も両親にきちんも話さなけらばならないのに逃げるようにアルバイト、パチンコ、麻雀に没頭しアルコールの量も増えていくばかりの毎日…。
しかし、とうとう大学の方から
「このままでは放校扱いとなるので中退の手続きをきちんとした方が良い」
と電話があり、5年間籍を置いた大学を正式に中退しました。
両親にその前にこのことを話しましたが、酔って話していたので特に父親は
「もう好きにしろ」
と半ば匙を投げたような態度であったかと思います。
さて、晴れて大学中退の身となり、今後のこともきちんと考えていかなければならなくなりました。
しかし当時のホテル以外で新しい仕事をやっていける自信はありませんでした。その肝心のホテルでの仕事もアルコールでの失敗も多くなり居心地も悪くなってきました。
「大学もとうとう辞めてしまった。とりあえず大学を出てれば就職も何とかなると思っていたけれどそれももう無理だ。俺の人生これからどうなるんだろう…」
1週間くらい家にこもって朝から一日中飲むこともあり、どうしたら良いのか全く分からなくなっていました。
続く