『花束みたいな恋をした』の感想を書くのに、1ヶ月要した話。
先日、ラジオ『ゆとりっ子たちのたわごと』で『花束みたいな恋をした』の映画評回を聴きました。パーソナリティーかりんさんをはじめ、お便りを送るリスナーのほとんどが呼吸困難に陥っており、そんなに感情を動かされる映画なのかと俄然興味が湧いたので、観賞してきました。
映画を見たのが2月半ば。現在3月半ば。感想を書けるまで回復するのに1ヶ月の時間を要してしまいました。どれだけの重傷を負ったかは、察していただければと思います。さながらフリーザの宇宙船にて回復ポッドに入る悟空のような心持でありました。
観賞前
客層は若いカップルが多め。映画館でラブコメを見て、ふたりの未来に幸せを描くことは当然のことだと思います。しかし、全ては罠であったのです。私自身も観賞前は、ありきたりな邦画のラブコメと思っていました。そう思っているその瞬間からすでに製作陣の術中にハマっていたのだなと後に精神を病みながら思うことになるのでした。
以降、内容と感想です。ネタバレありますので、ご承知おきを。
導入
物語の導入はカフェ。時代は2020年某日。山音麦と八谷絹がとあるきっかけでばったりと折衝する場面から始まります。この二人は元カップルであったこともあり、目があっただけで特に会話は無し。それもそのはず、二人はそれぞれは新たな交際相手とカフェをと訪れていました。しかしながら、この折衝を経てそれぞれが過去を思い出すきっかけ得るのでした。この映画は、元々付き合っていた男女の交際期間の回想。つまり、2015年に出会って2020年に別れる5年間の物語でありました。
視聴者は、この導入を経てこの映画を視聴する前提としてなぜ二人は別れたのかを強く意識することになったことでしょう。
出会い
時は遡り2015年。大学生であったふたりは終電を乗り遅れたことをきっかけに出会います。奇しくも、終電。つまり「終わり」がふたりの「始まり」でありました。
終電に乗り遅れた二人は居酒屋で時間を潰すことになりますが、話をするうちにふたりの趣味が似ていることを徐々に感じ始めます。ふたりの同調を表現するのは、時代・カルチャーを表す固有名詞のパレード。押尾守。天竺鼠。穂村弘。長嶋有。菊地成孔の粋な夜電波。キノコ帝国。今村夏子。そして、図らずもお揃いのジャックパーセル。そのニッチなカルチャーの羅列のすべてが具体的でより視聴者の身近に寄り添う(若しくは無情に突き放す)描写になったことは見ている人すべてが感じたところでしょう。
「”クロノスタシス”って知ってる?」と絹が麦の方を見ると、「知らないときみが言う」と麦が続きを歌う。「時計の針が止まって見える現象のことだよ」と二人ユニゾンで歌った。 LaLaLa HaHa Wow Wow ……
逆説的に王道で大衆的な流行・文化に対する皮肉もたっぷり描かれた点で、この映画が刺さる人・刺さらない人の大きな分岐となりました。ここ描写、嫌な気分になったという感想も少なくなかったようですが、個人的には大きく共感し、よりのめり込む要因になりました。
その後、二人はファミリーレストランで思いを伝え、交際をスタートさせることとなったのです。
幸せな生活
付き合い始めて一週間の間に二人は原美術館に行って、人形街で牡蠣フライを食べて、漫画家のタムくんに似顔絵を描いてもらった。並んだ麦と絹をマムアンちゃんが見上げているタムくんの絵は、麦の部屋の壁際のいちばんいいところに飾ってある。
幸せな時間の中で、絹の心情に大きな変化をもたらす出来事が起きます。「恋愛生存率」という絹が長年愛読してきたブログの管理人が自ら命を絶ったのです。そのブログで書かれるテーマはいつも同じ「はじまりはおわりのはじまり」。
出会いは常に別れを内在し、恋愛はパーティーのようにいつか終わる。だから、恋する者たちは好きなものを持ち寄ってテーブルを挟み、お喋りをし、その切なさを楽しむしかないのだ、と
この出来事をきっかけに絹は、自分たちは終わりに向かっているということをどこか意識するようになったのかもしれません。この幸せなふたりのパーティーをいつまでも終わらないために。
時間の流れは止まることなく、二人は大学を卒業しフリーターになります。就活をする中で、二人は現代社会の波に飲まれ、皮肉にも二人がどこか軽蔑してきた現代社会の大衆的な思想や文化に、ふたりの生活はどんどん蝕まれていきます。
環境と心情の変化
絹は簿記の資格を取得し、医療事務として就職。麦はイラストレーターの夢を一旦諦め、物流を取り扱う若い会社へと就職しますが、社会に出て働くうちにふたりの考え方に大きな乖離の兆しが見え始めます。
絹は、二人でいるためにやりたいことをして生きていきたい。つまり、現実よりも理想や二人の世界を大切にしたいと。麦は、二人でいるためはやりたくないことをすることは仕方がない。つまり、嫌なことをしてでも二人でいたいと思うようになるのです。
絹の心情には、前述した故ブログ管理人の考え方が大きく影響しているように感じました。テーブルを挟んで、好きなものを持ち寄り、お喋りすることができなくなったら、ふたりのパーティーは終わってしまうとどこか直感的に感じていたのだと思います。
「二人でいたい」。同じ目標を掲げているにも関わらず、その目標に向かって進むほどにふたりの間には大きな溝が生まれて、些細なことですれ違うことが多くなります。一見残酷なことに思いましたが、ともすれば誰にでも起こりうるすれ違いであると感じ、これこそ視聴者を我がこととして呼吸困難に陥れる原因でありました。
引き金
そして、最後の引き金となった出来事。麦が慕っていた人物が不慮な事故によって死んでしまいます。お葬式の後、麦は絹に先輩との話をしたいと思っていましたが、絹は「私は麦と同じように悲しむことはできない。ひとりにしてあげたい。」と帰宅後早々ベッドに入ってしまいます。
これまでは絹が麦に対して、過去との変化を憂うことが多かったのですが、この場面をきっかけに麦も絹が変わってしまったと感じてしまうようになったのかもしれません。昔と変わらず好きなことをしたい絹のことを「遊び」と嘲笑するようになってしまった麦ですが、その絹が変わってしまったことを寂しく感じてしまっている麦は視聴者の目に非常に虚しく写ったのでした。
別れ
この出来事を機に、友人の結婚式の帰り道に二人はそれぞれ別れを告げることを決意します。二人が出会ったファミリーレストランに入ると、あの頃二人が座った席にはすでに他の客が入っていて、それを横目に別の席に案内されました。別れを切り出すも、5年という年月は簡単にはそれを許しません。麦は「正直恋愛感情はないけれど、夫婦とはそのような段階を経てなっていくものだと思う。子供ができれば今の状況を抜け出せる。やっぱり結婚しようよ。」と絹に伝えます。その説得を受けて、それまで別れる決意を固めていた絹も、結婚すれば変わるのかもしれないと思うようになり、復縁を決意しかけます。
その時、二人が当時座っていた座席に若い1組の男女が座ります。初々しい二人が話す会話の内容や雰囲気。そして、二人の足元のお揃いのジャック・パーセルに麦と絹は当時の自分たちを重ねずにはいられませんでした。涙を堪えることができなくなった絹はそのまま走って店の外へ。追いかけてきた麦と抱き合って涙を流すのでした。復縁を決めかけていたはずの二人ですが、あの二人を見て確信してしまったのでしょう。
「あぁ、もうあの時の二人には戻れないのだ」と。
こうして二人は別れることとなり、パーティーは終焉を迎えたのでした。
物語のオチ
絹が次の物件を決めるまでの期間は、これまで通り同棲を続けて、二人で部屋の片付けをしたり、猫をどっちが引き取るかをジャンケンで決めたり、二人でご飯を食べたりと仲良かった時のように生活をして、二人は同棲したアパートを後にしたのです。そこには、付き合った当時のような楽しそうな二人が映りました。
ここで、場面は最初のカフェに戻ります。久しぶりにばったり出逢ってしまったふたりですが、それぞれ互いの新しい恋人と何事もなかったかのように店を出てそれぞれの生活に戻っていきます。
ばったり過去の恋人に出会したことで、何か思い出すようにGoogleストリートビューで当時住んでいたあたりを散策する麦。麦はそこに奇跡を見てこの物語は終わりを迎えます。
ストリートビューの画面に、多摩川べりの歩道を花束とトイレットペーパーを持って歩く男女の姿がうつりこんでいる。顔にボカシが入っているが、間違いなく麦と絹だった。画面の中の麦と絹は永遠にあの時間の中に静止したまま、よく晴れた多摩川べりの歩道で仲良く手をつなぎ、顔を見合わせている。ボカシで見えないが、きっと笑顔だ。
最後に
この映画を見て心を痛める人は、必ず近い経験をしている人に違いありません。ボカシが入ったふたりの姿に、過去や現在を写した人は少なくなかったことでしょう。
作中の表現曰く女性に花の名前を聞くとその花を見るたびにその女性を思い出してしまうのと同じ。その人と経験した花束のような記憶は、別れてもなお奇跡のようにすぐ隣に存在し続けていると語りかけられている気がしました。それが良い記憶であっても悪い記憶であっても。
冒頭で記述したとおり、観賞後1ヶ月は感想をかける心理状態ではありませんでした。それは、過去に対する後ろめたさや恥ずかしさが時を超え、映画をきっかけに反芻したからに他なりません。過去あったことを変えることはできませんが、それを後ろめたく感じる必要はないと時間をかけて整理する良いきっかけにもなりました。
二人はどうすれば別れないで済んだのかと考えればキリがありませんが、私は二人がハッピーエンドを迎える世界線もあったと信じています。
だからこそ、いま大切にしたいと思える人と花束みたいな愛を育んでいければと心から思えるのです。