SNSの普及による「オレたち」の喪失と「わたしたち」の台頭
いい言葉が思い浮かばないので、分かりにくいタイトルになった。
とりあえず群集心理について毎日解説してくれている、らるさんの記事を参考に思ったことを書きます。
最近のSNSを見ていると、議論にならない人がたくさんいることを感じる。日本語力が足りないのか、自分の主張を声高に叫ぶだけで一歩も譲らない、議論ではなく罵り合いにしかならないような場面が多発している。国会の野党とかもそんな感じ。教育の敗北、というタグを見かけたりするし、義務教育がいけないのかなぁ、と思ったりもしたけど、これって群集心理で説明できるんじゃないですかね?
小さな「オレたち」から大きな「わたしたち」へ
群衆というのは定義が良く分からないけど、一人ではなく複数人の集まり。たぶん2~3人くらいでは、まだ群集ではないと思う。人間が一度に覚えられるのは7つくらいらしいので、7人を超えたら群集かもしれない(仮説)。
だいたい小学校の友達とかも2~3人の集まり、ちょっと大きくなっても5~6人が一つの単位になると思う。それくらいの人数であれば「オレたちは仲間だ」と言える。ドラえもんである。
一方、7人を超えると、一気に全員を把握できなくなる。順番に思い浮かべれば一人一人は分かるかもしれないけど、一度にハンドリングできる「オレたち」の領域を超えてくる。小学校のクラスのようなものだ。そこでは、本音で話す「オレたち」が影をひそめ、建前で会話をする「わたしたち」の世界になる。
世界が群衆化している
さて、昔は、まだまだ世界は「オレたち」で形成されていた。私が中高生のときは、それこそ自分たちが世界の中心であったし、セカイ系のラノベは等身大の自分の姿だった。
今はSNSによって簡単に世界に繋がってしまっている。ちょっとゲームで遊んでみても、相手は「オレたち」という内輪ではなく、ネットに繋がって世界中の「わたしたち」と切磋琢磨することになる。幼いころから井の中の蛙として威張るような環境はなかなか与えられず、最初から大海で打ちのめされながら自分を確立するのに苦労している、という印象がある。
「オレたち」は、一人ひとりに明確なポジションがあり、お互いの意見を尊重したり否定したり、という議論が行われる。一方で「わたしたち」は群集であり、細かい議論ではなく、イデオロギーにまみれた主張だけが投げかわされる。
世界が細かく分断されているとき、人間はもっと自分の頭で考えていたはずだ。でも、ネットの普及やマスメディアの発達により、どんどん世界が群衆化して、議論をしない、自分の思い込みに浸って出てこれない人が増えてしまっているのではないか。
だから、私たちはスマホを家に置いて、ネットから離れて現実と向き合い、自分の頭で考えることが必要だし、それがとても充実した時間だということを思い出す必要があるのではないだろうか。
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