見出し画像

正統的周辺参加:第一回読書会「十全的参加ってなんだろう?」

正統的周辺参加について本を読んで内容について語り合う読書会が、本日朝6時に行われました。今回は序文・訳者あとがき・第一章の内容から、興味のあった部分について話し合う、という形式でした。その内容の簡単なメモです。本を読んだ私のまとめは以下をご参照ください。

本書を読んだ第一印象・感想

学校で知識を詰め込むスタイル(教授主義)ではなく、体験を通して学んでいく(構成主義)は、近年の教育業界ではかなり浸透した考え方になっている。本書が書かれた当時は何が斬新なアイデアで、どのように時代が変わったのか、過去の流れをきちんと理解しないといけないように感じた。

→ それまでの時代は認知科学が主流だった。人間の脳の中で何を考えているか、学習者の認知に主眼があった。それを社会科学、学習環境全体で考えるように大きく転換したのが重要であり、ピンとこない、分かりにくさの原因でもあると思う。

学習は実践共同体に紐づく動的な概念、というのが面白い。これは今風の言い方をすると「アウトプット」より「プロセス」を重視する、というのと近いだろうか?

→ プロセス重視とも少し違うと思う。周辺的参加という、共同体への参加具合みたいなのが大事で、そこを掘り下げて考えてみましょう。

周辺的参加と十全的参加

実践共同体における向心的参加の到達点を、一様な、一義的な「中心」とか、直線的に進む技能習得に帰着させないということが重要である。実践共同体では、「周辺」だと指し示せるようなところはないし、もっと強調していうならば、単一の核とか中心があるわけではない。

P11

私たちは周辺的参加が向かっていくところを、十全的参加と呼ぶことにした。十全的参加というのは共同体の成員性の多様に異なる形態に含まれる多様な関係を正当に扱おうと意図したものである。これは部分的参加とは異なること、あるいは部分的参加では尽くせないことに強調点をおく。私たちの用語では、周辺性は積極的な言葉でもあり、これに対するもっとも明確な概念上の範囲後は進行中の活動への無関係性あるいは非関与性である。

P12

この部分の解釈について議論した。

企業活動について考えたとき、社員が必ずしも周辺的参加をしているわけではないと思う。周辺的参加は十全的参加に向かっていくものだけど、たとえば自分が入ったタスクの中では中心を目指さず、ずっと低い関与度のままいることも多い。これは周辺性の対義語である「非関与性」なのではないか。

仕事は十全的な参加じゃなくてもやり遂げることができる。では、十全的か非関与かは何で決まってくるのか。新参者はコミュニティに新しい概念をもたらすのが重要なわけだし、今の仕事を既にある概念にそってこなすだけでなく、その人のオリジナルな部分を持ち込んでもらえるかどうかカギになるのではないかと思う。

→ 今でいうとコミットメントの濃さ/薄さに相当するのではないか。知人がこういうことを言っていた。「100%この仕事しかやらないというのはよくない、それでは命を懸けることになってしまう。別の仕事もするけれど手を抜くわけでもない。ハーフタイム・フルコミットメント。自分の時間を全て使うわけではないけど、自分の能力はフルで投入します」 昔は一つのコミュニティに全ての時間をつぎ込むのが普通だったかもしれないけど、今は複数のコミュニティに参加しやすくなったから、時間ではなくコミットメントの度合いで十全的参加かどうかが図れるのではないか。

私たちはコミットメントとか、責任感とか、やる気とか、当事者意識とか、そういう心象的な指標で参加度合いを感じているのかもしれない。小さい会社の社長だと、社員にもっと全身全霊で仕事してほしい、みたいに感じることがある。それがまだ周辺的参加でしかない、もっと十全的参加になってほしい、という感情なのかもしれない。

家庭という共同体への参加

昔の人でも、仕事という共同体の他に、家庭という共同体への参加もしていたはず。家庭への参加は十全的参加になっているだろうか。

→ パートナーに対しては、意識してコミュニケーションを取ろうとしている。でも子どもに対しては、特別に何か意識している気がしない。子どもの存在は自明なので、あまり頭のCPUを使っていない。

→ 共同体というのは課題解決のための集団だったと思うので、家庭に対して何を求めているかによって変わってきそう。炊事・掃除などの家事をこなすことが大事だと思っているか、家計が回ることを重視するか、コミュニケーションを通して心の安らぎとなる場を求めているか、人によって違うと思う。その認識がすれ違うと、「私はこんなに家事をしているのに、あなたは全然手伝ってくれない」「俺だって家のために仕事してお金を稼いでいるんだ」となり、お互いに十全的参加しているつもりなのに、相手が周辺的参加に感じてしまうのではないか。

アイデンティティの形成

結局、共同体の中で自分のアイデンティティを形成していく、というのが一番大きな要素ではないだろうか。アイデンティティは自分一人では生まれなくて、必ず他者との対比の中で見えてくる。共同体に参加して、周辺から入って十全的になるほど自分のアイデンティティも確立してくるし、それが楽しくなって、どんどん進めるようになる。

現代では様々な共同体に所属できて、アイデンティティが入り乱れる。それらがバラバラのままだと「俺はいったい何がしたいんだろう」ってなるけど、うまいこと統合されていくと、どのコミュニティでも活躍できるしっかりした人になるのではないか。

→ いまの時代は多くのコミュニティに参加できて、リスク分散ができる。収入源が一つしかなければ絶対に失敗できないけれど、三つあれば一つくらい失敗しても大丈夫。そうなるとちょっとリスクを取って挑戦することもできる。

十全的参加って、冒険に近いのではないかと思う。周辺的参加とか非関与の場合は、まだ安全圏にとどまっているけれど、そこから一歩くらがりに出ていく冒険ができるかどうか、それだけのコミットメントができるかどうか、と考えられる気がする。

正統的参加について

ここまで周辺的参加と十全的参加について議論してきたが、もう一つ重要な要素として正統的であるかどうか、という観点もある。この正当性については次回以降詳しくみていく予定だが、今回は情報へのアクセス制限について少し議論した。

アクセスの必要性と同様、統制と選択も実践共同体には本来的に従う。したがってアクセスは操作されやすく、それが正統的周辺性をアンビヴァレントな状態にする。すなわち、アクセスの組織化に依存して、正統的周辺性は正統的参加を促進するか、妨げるかにわかれる。

P87

正当性の付与というのは、情報へのアクセス権の付与だろうか? 情報へのアクセス権をコントロールすることで、十全的参加を目指している人が非関与になったりするのだろうか。

→ 正統性が付与されても情報にアクセスできないケースが、第三章の肉屋さんの事例で示されていた。正当性の付与はアクセス権とは別だと思うが、結果的に正統的参加は妨害されて、非関与な方向に流れていくのは確かだろう。

今回の感想と次回の読書会

「正統的周辺参加の概念は、レヴィ=ストロースの構造主義やピエール・ブルデューのハビトゥスなどの考え方の流れを汲んで現れたらしい、という歴史的な流れがあることも分かって面白かった」

「さらにこの先の理解を進めるにあたって、存在論・認識論について予備知識をもっておくといいかもしれない。相手の意見のよりどころを認識すると、相手の話をより理解しやすくなる」

「本の内容をなぞるだけだと面白くないけど、本の内容を元に自分の経験と照らし合わせて実例を考えていくことで、理解が多角的に深まり、すごくよい読書会でした。次回も楽しみです」

ということで、次回は2/27(日) AM6:00からを予定しています。ご興味ある方はご連絡ください!

いいなと思ったら応援しよう!